エレベーターの扉が開いた瞬間、世界から音が消えた気がした。
最上階。ガラスと鋼鉄と大理石でできた無機質な空間。
足を踏み出した途端、ヒールの音がやけに大きく響き渡る。まるで自分の心拍を代わりに鳴らしているみたいに。
廊下の両側に並ぶ現代アートの絵画は、どれも冷たく私を見下ろしているようだった。
窓の向こうには、夜の都会の街が宝石箱をひっくり返したようにきらめいている。
でもその光は、ここまで届かない。届くはずがない。
――ここは、私のいる世界じゃない。
心のどこかでそう呟いた瞬間、視線の先に彼がいた。
一ノ瀬蓮。
大手不動産開発グループ【一ノ瀬ホールディングス】の現トップ。
獅子種の純血で28歳にして、誰もが羨む地位と富と美貌を手に入れた男。
噂では“氷の帝王”と呼ばれている。
笑わない。怒らない。感情を表に出さない。
なのに今、実際に目の前に立つ彼は――思ったよりずっと静かだった。
威圧感はある。
でもそれは、声を荒げたり肩を怒らせたりするようなものではない。
ただそこに在るだけで、空気が重くなり、背筋が勝手に伸びてしまう。
まるで重力そのものが彼の周りで少しだけ強くなっているかのように。
「……高瀬結衣、です。本日は、お時間をいただきありがとうございます」
喉がわずかに乾いているのに気づきながら、丁寧に頭を下げる。
視線を上げた瞬間――彼の瞳とぶつかった。
一瞬、息が止まる。
冷たい。
本当に、底の見えない湖の底みたいな色をしている。
なのに、その奥底に、ほんの一瞬だけ、何か――焦りとも不安ともつかない揺らぎが過ぎった気がした。
見間違いだろうか。
「一ノ瀬蓮だ」
低い、落ち着いた声。
まるで自分の名前を初めて発音するかのように、丁寧で、完璧で、どこか遠い。
秘書らしき女性が一礼して退出する。
重厚な扉が静かに閉まる音が、部屋の中に響いた。
二人きり。
その瞬間、空気が変わった。
温度が、湿度が、酸素の濃度さえも、微妙に違った気がする。
彼は何もしていない。
ただデスクの端に軽く腰を預け、こちらを見ているだけだ。
なのに――まるで、私がここに侵入してきたことを警戒しているような、張り詰めた空気。
「早速だが、本題に入る」
彼が一枚のファイルを取り出し、こちらに差し出す。
指先が、ほんのわずかに――強張っているのが分かった。
「君が応募したのは、三年間限定の契約パートナーだ。
恋人でも、配偶者でもない。感情的な関係は一切禁止する」
淡々と、まるで天気予報を読み上げるような調子で説明される。
でも私は、気づいてしまった。
彼の左手の薬指が、わずかに震えていることを。
爪が、掌に食い込むほど力を入れていることを。
「一ノ瀬家の公式行事、対外的な場に同行してもらう。
必要に応じて同席、会話、写真撮影。
報酬は月額300万。契約満了時には一括でボーナスを支払う。
加えて――君の母親の医療費は、全額こちらで負担する」
その言葉が、胸の奥に突き刺さった。
欲しい。
この条件は、私にとってまさに救いの手だった。
母の病状が悪化し、治療費が底をつきかけている今、この申し出は奇跡に等しい。
でも――。
「質問は?」
促す声に、私は一瞬迷ってから、勇気を振り絞って口を開いた。
「……感情的な関係、というのは。
どこまで、でしょうか」
部屋に、重い沈黙が落ちる。
本当に、一瞬だけ。
彼の瞳が揺れた。
見間違いかと思うほど、わずかな時間。
でも確かに、そこにあった。
「――必要以上に、踏み込まない」
低く、はっきりと、しかしどこか自分に言い聞かせるように告げられる。
「君は、ただのビジネスパートナーだ。
それ以上の関係を求める必要はない。
私も、求めない」
最後の言葉が、妙に力強く響いた。
それは、私に向けた言葉のはずなのに。
なぜか、彼自身に向かって繰り返しているように聞こえた。
目の前の書類に視線を落とす。
契約期間:3年。
報酬額、禁止事項、違約金、守秘義務……。
冷たい黒い文字が、まるで鉄の鎖のように私の人生を三年分、固定していく。
ペンを握る指が、冷たくて、少し震えた。
――でも。
ここで逃げたら、母を守れない。
私たちの未来が、完全に閉ざされてしまう。
「……分かりました」
深く息を吸って、ゆっくりと署名をする。
インクが紙に染み込む音が、やけに大きく聞こえた。
ペンを置いた瞬間、再び彼と目が合った。
その視線が――痛いほど真剣で、深い。
(……この人)
完璧で、近寄りがたい人だと思っていた。
なのに、どうしてだろう。
私には、ひどく孤独な人に見えた。
まるで、自分自身を一番遠くに閉じ込めているような。
誰にも触れさせないように、触れようとしないように。
「契約は成立だ」
彼の声は、いつも通りの冷静さを取り戻していた。
けれど私は、その裏側に、
“触れてはいけない何か”が、息を潜めて潜んでいる気がしてならなかった。
この契約は、私を縛る檻になるのだろうか。
それとも――
彼自身を、もっと強く縛りつけるものになるのだろうか。
その答えを、私はまだ知らない。
ただ一つだけ、確かな予感があった。
この三年は、
きっと、どちらにとっても
ただの「契約」では済まないだろう、と。
***
署名の乾ききらないインクを、彼は一度だけ確認すると、静かに書類を閉じた。 その動作すら無駄がなくて、完成された機械の一部みたいだった。 指先が紙の上を滑る音が、静かな部屋に小さく響く。 その指は、さっきまでほんのわずかに震えていたはずなのに、今はもう完璧に落ち着いている。
「今日の面談は、これで終わりだ」
そう言って立ち上がる。 背丈が私より頭一つ分以上高い。 スーツの生地がわずかに擦れる音が、妙に近く感じられた。 彼の体温が、空気を介して伝わってくる。 人間のものより高い熱。まるで、近くに小さな太陽があるような、不自然な暖かさ。
私も慌てて立ち上がり、バッグを胸の前で抱え直した。 心臓が、まだ速く鳴っている。 契約書にサインした瞬間から、胸の奥で何かがざわついている。
「今後のスケジュールや住環境については、改めて担当から連絡がいく。 君は――」
そこまで言いかけて、彼はほんの一瞬、言葉を切った。
……ほんの、刹那。 本当に、息を呑むほどの短さ。
でも私は、見逃さなかった。
彼の喉仏が、小さく上下したこと。 まるで、次の言葉を選びあぐねているみたいに。
そして――喉の奥から、微かに、獣が唸るような低い響きが漏れた気がした。
すぐに消える。意識して抑え込んだように。
「……今日は、もう帰っていい」
そう告げられた声は、ほんの少しだけ低くて、柔らかかった。 普段の冷徹なトーンとは違う。 まるで、誰かに――自分自身にさえ――言い聞かせるような響き。
「ありがとうございます」
頭を下げて、踵を返す。
背中に、視線を感じた。
刺すようなものではない。 けれど、離れるのを躊躇うような、重たい視線。 熱を帯びた視線。 まるで、縄のように私を絡め取ろうとしているみたいに。
ドアノブに手をかけた、そのとき。
「高瀬」
呼び止められて、心臓が跳ねる。
振り返ると、彼はまだデスクの前に立ったまま、こちらを見ていた。 琥珀色の瞳が、部屋の薄暗い照明を反射して金色に輝いている。 一瞬、縦に細くなったような錯覚を覚えたが、すぐに普通の人間の瞳に戻る。
「……無理は、するな」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「医療費の件だ。 こちらで引き受けた以上、君が倒れては意味がない」
言葉は、どこまでも理屈っぽい。 ビジネスの延長線上にある忠告――そう装っている。 でも、その声の端に、かすかな震えがあった。
そして、その目は、さっきまでとは違っていた。
冷たい湖面みたいだった瞳が、ほんの少しだけ揺れている。 まるで、自分でも言ってしまったことに戸惑っているみたいに。 その奥に、抑えきれない何かが、熱く渦巻いているのが分かった。
――獣の飢え。 いや、違う。 もっと深い、孤独な渇望。
「……はい」
短く答えると、彼はそれ以上何も言わなかった。
ただ、視線だけが、私を追う。 首筋に、黄金色の短い毛が一瞬だけ逆立ったように見えたが、すぐに収まる。
エレベーターに乗り込み、扉が閉まる。
完全に密室になった瞬間、張り詰めていた息が、ふっと抜けた。 背中が、冷や汗で濡れているのに気づく。 彼の匂いが、まだ鼻腔に残っている。 麝香のような、濃厚で野性的な香り。嗅いだだけで、胸の奥がざわつく。
(……変な人)
完璧で、冷酷で、近寄りがたいはずの人。 なのに、時々、妙に人間らしい“隙”が見える。 いや、人間らしいというより――獣らしい、剥き出しの感情の欠片。
それが、なぜか胸に残る。
エレベーターが下降を始める。
上へ行くほど静かだった空気が、少しずつ、現実の音を取り戻していく。 階下の喧騒、車のクラクション、人の話し声。 でも、私の中では、まだ音が戻らなかった。
あの人の視線。 あの一瞬の躊躇。 あの「無理はするな」という言葉。
あれは、契約相手に向けるものだっただろうか。
(……いいえ)
きっと違う。
あの人は、あの一瞬、 「王様」でも「氷の帝王」でもなかった。
ただ、何かを必死に抑え込んでいる男だった。 獣の本能を、血統の呪いを、孤独を。 すべてを、鉄の意志で封じ込めている男。
それが何なのかは、まだ分からない。 でも――この契約が、彼の心の檻でもあるのなら。
私はもう、その中に足を踏み入れてしまったのだ。
エレベーターの扉が開く。
現実の音と、人の気配が一気に押し寄せる。 ロビーの冷たい空気。 外の夜風。 それでも私は、振り返らなかった。
振り返ってしまったら、 もう「ただの契約」には戻れない気がしたから。
――三年。
この時間が、私たちをどこへ連れていくのか。
不安よりも先に、 胸の奥で、かすかな予感が芽生えていた。
きっと私は、 この人の“誰にも見せない顔”を、 いくつも知ることになる。
獣の咆哮を抑えきれない夜。
熱に浮かされた瞳。
触れたら溶けてしまいそうな、抑えきれない渇望。
それが、 幸せなのか、痛みなのかは―― まだ、分からないけれど。



