初恋は、終電の先に

 しばらく私たちは二人で泣いていた。

 やがて涙が枯れて顔を上げると、先輩はまっすぐに私を見ていた。


「……先輩、コーヒー飲みませんか? すっかり冷めちゃいましたけど」


 先輩は小さく頷いて、片手だけ私の手から離し、マグカップを手にした。

 よく見ると、先輩の顔色がすごく悪い。

 真っ青なのに目の下だけ真っ黒で、それにかなり痩せたように見えた。


「先輩、お疲れ様です」

「……うん。すごく忙しかった」

「お酒飲んでぐだぐだに甘えてくれていいですよ」

「今はやめておこうかな。胃が空っぽだから、酒飲んだら吐くと思う」


 先輩は深くため息をついた。

 それって、私とコーヒーなんか飲んでる場合じゃないんじゃないですか。


「何か食べ物買ってきましょうか?」

「俺も行く。今、秋谷から離れたくない」

「……私も、もう先輩と離れたくないです」


 そう答えたら、先輩の顔がくしゃっと歪んでまた泣きそうになって、私ももらい泣きしないように必死に顔に力を入れた。


 互いに少し落ち着いてから、カウンターでシチューとサンドイッチを買ってきた。

 私もお腹がすいていたから、サンドイッチを半分もらった。

 やっと私の手を離した先輩は、ぼんやりした顔で湯気を浴びながらシチューをすすっていた。


「いや、本当にやばくてさ」


 食事の合間に、先輩はぽつぽつとぼやいた。

 私は静かに相槌を打つ。


「はい」

「俺と、あと二人いたのに、二人とも新人で意味わかんない。さっき帰社したとき、切れ散らかしちゃった」

「そんなに……」


 まあ、システムトラブルで客先に飛んで行ったのに、ついてきたのが右も左もわからない新人二人だったら、やってられない気はする。


「手を動かせるのが俺しかいなかったから、立ち合いのお客さんに説明しながらやってたんだけど、全然うまくいかなくて、ホテルにも三日に一度寝に帰るくらいしかできなくてさ。食事も一日一回できればいいほう、みたいな」

「あの、私とカフェにいる場合じゃないんじゃないですか」


 ついそう言うと、先輩がすねたような顔で私を見た。


「やだ」

「やだ?」

「俺はもう、秋谷から離れたくない」

「それは私もそうですけど……先輩、寝ないとダメですよ」


 先輩はじとっと私を睨んでいた。怒っているというより、困ってる? 迷ってる?


「……あのさ、俺、秋谷から離れたくないんだけど」


 視線が一瞬逸らされて、すぐにまた私をうかがうように覗き込んだ。


「一緒に、帰ってもらってもいいかな……その、俺の部屋に」


 先輩は不安そうな顔で私を見ていた。

 私は答えを探して、うつむいた。

 空になった皿には、何のヒントも書かれていない。

 でも、ここで逃げるなんて選択肢はなかった。

 再び顔を上げて先輩を見た。

 不安そうな、悲しそうな顔に向かって、私は小さく頷いた。

***

 カフェを出て、コンビニへと向かった。

 下着と、お泊まり用の洗顔料やメイク落とし、化粧水などのセットをカゴに入れる。あと歯ブラシセットも。

 ついでに明日の朝ごはんも買って、コンビニ前で待っていた先輩に駆け寄った。

 ……手をつないだままついて来ようとしたけど、さすがに下着を買うところを見られるのは恥ずかしくて、なんとか待っていてもらった。


「タクシー呼んだから、すぐに来るよ」

「ありがとうございます」


 先輩が手を差し出すので、私はそっと手を重ねた。

 今までは重なっていただけの手に、指が絡んできゅっと握られた。

 見上げた先輩はやっぱり疲れた顔のまま私をじっと見ていた。

 冷たい風が吹いて、先輩の髪をさらさらと揺らし、黒いコートをばさばさはためかせた。


 空には星がちかちか光っているのに、先輩の目にはちっとも光が射していない。

 何も言わず、その暗がりを覗き込んでいたらタクシーが来て、先輩は私を奥に乗せた。

 タクシーの中でも私と先輩は何も言わなかった。

 ――やがて、タクシーは閑静な住宅街の中のマンションの前で止まった。