初恋は、終電の先に

 結論から言えば、先輩にチョコレートを渡すことはできなかった。

 なぜなら先輩から、一週間どころか二週間経っても連絡がなかったからだ。


 バレンタインは過ぎて、二月も後半、私は相変わらず毎日遅くまで仕事をしていた。

 あと一時間で終電。そんな時間に、磯山先輩が私を覗き込んだ。


「秋谷、顔色悪いけど大丈夫?」

「だいじぶです」

「答えが大丈夫じゃねえよ。彼氏に甘えて……あー、あっちも今忙しいんだっけか」

「彼氏とかいないです」


 ついそう言ったら、磯山先輩はきょとんとした顔をして、首をかしげた。


「山田さんと別れた?」

「そもそも付き合ってないです」

「は?」

「そもそも付き合ってないです」

「いや、二回言わなくていいけど……はあ?」


 そっちも二回言わなくていいです、と返す元気はないので、黙って手元の入力を進めた。

 磯山先輩は立ち上がって去っていき、すぐに戻ってきて、私の席に缶コーヒーを置いた。


「ちょっとお兄さんがおごってあげるから、話を聞かせなさいよ」

「いえ、聞かせるほどの話もないですけど。でもコーヒーはありがとうございます。いただきます」


 顔を上げて、コーヒーを受け取った。

 指先があったかくなって、いつの間にかすっかり身体が冷えていたことに気づく。

 ぼけっとコーヒーをすすっていたら、磯山先輩も隣に座って、コーヒー缶を両手で握っていた。


「付き合ってないのに、あんな時間に迎えに来てくれたのか?」

「……先輩も、仕事忙しかったから」

「そうかもだけどさ。でも一緒にビアガーデン行ったとき、山田さんは秋谷のことめっちゃ大事にしてるように見えたけどな」

「そうでしょうか」

「うん」


 磯山先輩は短く答えた。

 私はコーヒーを飲み干した。

 ……知ってるけどさ。山田先輩が私を大事にしてくれていたことくらい。


「付き合わんの?」


 その質問に答えられなかった。

 そりゃ、付き合いたいよ。十年前からそう思ってる。……思ってるだけだ。

 カバンからスマホを取り出した。

 なんの通知も来ていない。

 ニャインを開いて、先輩とのトーク画面を開く。

 二週間前の通話記録が最後だ。


「向こう、かなり大変みたいだけど」

「そうなんですか? っていうか、なんで磯山先輩は知ってるんですか?」

「ゆうちゃん……花沢さんに聞いたから」


 スマホから目を離して磯山先輩をまじまじと見つめた。

 そうか。磯山先輩は花沢さんと付き合っているのか。

 彼氏だったら、彼女に様子を聞けるんだよなあ。

 私は、先輩にとってなんでもないから、先輩がどうしているかを聞くことすらできないのだ。




 その週の週末、朝起きてすぐに自宅の冷蔵庫を開けた。

 そこには、山田先輩に渡そうと思っていたチョコレートが、かわいくラッピングされたまま置かれている。

 手に取って裏返すと、賞味期限は半年後だった。

 そうか、半年はいけるんだ。

 なぜか無性にほっとした。

 チョコレートを冷蔵庫に戻して、顔を洗って洗濯を回した。

 朝ごはんを済ませて、寒かったから洗濯物を浴室に干す。なんとなくベランダに出たら、遠くに桜の木が見えた。

 スマホで写真を撮って、ニャインを開く。

 山田先輩とのトーク画面は、相変わらず二週間前から更新がない。

 吹いた風が冷たくて、ぼけっとしていると手がかじかんできた。

 部屋に戻ってマニキュアを塗り直す。左手の親指は、特に丁寧に塗り直した。

 つやつやの爪を見ながら、唇を噛む。

 まだ、大丈夫。まだ、今は。

***