初恋は、終電の先に

 駅の地下にある洋食レストランで、私は先輩と向かい合っていた。

 まだ夕方の早い時間だから、店内の人影はまばらだ。


「ともかく、黒部ダムですよ」

「じゃあそこは最優先で」

「あとブラックラーメン食べたいです」

「いいけど、これどうやって黒くしてるんだ?」


 先輩はガイドブックをめくりながらビールを飲んでいて、私はナポリタンを巻きながら言いたい放題、思いつくことをしゃべっていた。


「あー、あと富山と言えばチューリップですね」

「じゃあ、行くなら春かな」

「……うちの会社に春休みという単語が存在しないのですが」

「うちもだよ。あーでもこの川のクルーズいいなあ」

「わ、素敵です」


 先輩が目を伏せてガイドブックをめくるのを眺めた。

 長いまつげが目元に影を作っていて、わずかに持ち上がった口の端にはビールの泡がついている。いいな。そこに住みたい。


「働き出してから忙しすぎて、旅行なんて考えもしなかった」

「先輩、転職前からお忙しいんですか?」

「うん。忙しい上に交通費とか勤怠管理がちゃらんぽらんで、給料がバカ低かったから転職した」


 先輩はため息をついて、グラスの底に残ったビールを一気に飲み干した。

 手元には冷めかけたグラタンが半分くらい残っている。


「悪いね、仕事の話になると愚痴ばかりで」


 私はナポリタンを食べながら、首をゆっくり横に振った。


「全然大丈夫です。先輩も大人なんだなあってどきどきするので」

「大人かなあ」


 先輩はガイドブックを置いて、かわりにスプーンを手に取る。

 骨ばった大きな手がスプーンを持っているだけで見とれてしまって、単純だ。よく言えばコスパがいいのかも。


 グラタンを全部食べてから、先輩はテーブルに置かれたタブレットでメニューを見ていた。

 先輩はビールをグラス一杯飲んだだけのはずなのに、頬が赤いし涙目になっている。


「大人になった気がしないんだ。学生の頃は、秋谷にちゃんとした先輩だと思われたくてかっこつけてたけど、最近かっこをつけることすらできてないし」


 不貞腐れたように言って、先輩はタブレットを私に向けた。私の前の皿はとっくに空になっていた。


「デザート、食べる?」

「はい、じゃあプリン食べます」

「俺は……んー、俺もプリンにしよう」


 先輩はプリンを二つ頼んで、タブレットを戻した。

 店員がテーブルの上の食器を片づけてくれたから、私はそのままになっていたガイドブックを広げた。


「先輩、富山に行ったら寒ブリ食べたいです」

「それなら冬かな」

「地酒も飲みたいです」

「秋谷、結構酒好きだよな」

「私、忙しいのでお給料をため込んでるんですよ」


 先輩がきょとんとして、顔を上げた。

 だからじっと先輩を見て、笑った。


「私たち大人になったから、旅行先で豪遊しましょう。高校生のときじゃできなかったことを、一緒にしましょうよ、先輩」


 店員がプリンを持ってきたから、追加でビールを頼んだ。

 すぐに運ばれてきたから、私はプリンにビールを注ぐ。


「大人なので、こんな食べ方もできます。苦い、そして甘い……先輩も一口どうぞ」


 ビールでひたひたのプリンをスプーンですくって差し出した。

 先輩はまたちょっと泣きそうな顔で口を開ける。


「……たしかに美味いけどさ」

「ね。私、先輩のことかっこ悪いって思ったことないです。十年前に図書室で出会ってから今まで、一度もないです」


 そう言うと、先輩は眉間にしわを寄せて唇を噛んだ。

 少ししてから、ふっと表情を緩めた。


「秋谷」

「はあい」


 先輩は自分のプリンを食べながら、私を見つめた。


「責任とれよ」

「え、なんのですか?」


 答えは教えてもらえなかったけど、そう言う先輩の眼差しはとろけそうなくらいに熱かった。