境界線の独白

第8章(最終章):存在の証明

彼女の別居が始まると、僕たちの関係は凪(なぎ)を取り戻したように穏やかになった。 身体の関係も復活し、息子に会う頻度も増えた。

「旦那より、あなたに懐いているよ」

彼女からもらった何気ない言葉。
息子が僕に向ける笑顔が増えるたび、僕のこれまでの報われなかった歳月が、静かに肯定されていくのを感じた。

けれど、現実は止まってはくれない。彼女は離婚へのカウントダウンを始めた。 離婚協議書作成の手伝いをし、時には僕が離婚届を取りにさえ行った。彼女が「まともな人生」を取り戻すための手続きを、不倫相手である僕が整える。その滑稽さを笑う余裕さえ、今の僕にはあった。

だが、彼女は僕の想像よりもずっと逞しく、そして切実だった。 二歳の子供を一人で育てる過酷さを知っている彼女は、離婚を決意しながら、すでに「次の相手」を見つけていた。大手配送業に勤める、堅実な年下の男。僕には与えられない「真っ当な家庭」と「安定した未来」を、彼女は戦略的に、確実に掴み取ろうとしていた。

「いよいよ、別れの時か」 僕には彼に勝てる要素なんて何一つない。そう覚悟した僕に、彼女は言った。 「あなたとは、一生会い続けたい」

その言葉は、救いであると同時に、永遠の呪縛だった。 彼女は新しい男と歩み、僕はそれを影から支え続ける。

「愛している」という言葉を贈るには、僕たちの間にはあまりに多くの泥と血が混じりすぎている。 その代わりに、僕の人生のすべてを、君への答えにしようと思う。

君が困った時に差し出す手。君の子供を抱く腕。君の新しい生活を支えるための、僕の残された時間。僕がこの世界に存在していること。それ自体が、僕から君へ贈る、唯一無二の愛の形だ。

死を夢見ていた彼女が、今は必死に「生活」を構築し、新しい伴侶を見つけ、子供を育てている。 その凄まじい生命力への、僕なりの称賛。 僕はこれからも、彼女の人生の「外側」で、彼女が生きる世界を共に生きていくだろう。

物語の最終ページは、まだ白紙のままだ。 けれど、僕の手はもう震えていない。