境界線の独白

第三話:三軒目の家 『奪われた場所、見つけた居場所』

三軒目の家は、彼女が「妻」となり「母」として収まるはずだった、築年数の経った古いアパートだった。

そこは元々、写真家である若い旦那が一人で暮らしていた城だ。かつては彼自身の感性で満たされていたであろうその部屋は、彼女が越してきてからは一変していた。壁を埋め尽くす彼女のオタクグッズ、床に散らばる赤ん坊の用品。
一人暮らしの気楽さを謳歌していたはずの彼にとって、その混沌とした生活感は、少しずつ彼の心を蝕むストレスの種になっていたのかもしれない。

皮肉なことに、僕はその家で一度も彼女を抱くことはなかった。
そこはもはや、欲望をぶつけ合う「密室」ではなく、育児と、不和と、生活の匂いが染み付いた「現実」の場所だったからだ。

旦那が出張で不在の折、僕はその家にあがり、彼女のために肉を焼いた。
生まれたばかりの赤ん坊を抱え、外食もままならない彼女への、僕なりの「称賛」の形だったのかもしれない。 「この人は誰だろう」 近所の人々の視線を浴びながら、僕は当然のような顔をしてベビーカーを車に積み、後部座席のチャイルドシートに彼女の息子を丁寧に座らせる。
客観的に見れば、それはあまりに異常な光景だっただろう。けれど、その時の僕にとって、それは「外側の人間」である僕が、彼女の人生の最も深い部分に触れられる、唯一の特権だった。

彼女は若すぎる旦那との生活に、目に見えて摩耗していた。
育児に非協力的な夫、動けない自分。かつて彼女が「世界の中心」として執着していた元カレからも、度重なる愚痴に嫌気がさしたのかブロックされ、彼女の逃げ場は僕しか残されていなかった。

半休を取って、平日の午後に彼女と赤ん坊を連れ出す。
あちこちへドライブに行き、彼女の気晴らしを助ける。
そんな日々の中で、僕は自分でも驚くような変化を自覚し始めていた。

僕は、彼女の息子のことが、たまらなく愛おしかった。

自分でも知らなかった。自分がこれほどまでに、無垢な命に対して献身的になれる男だとは。
彼女への執着という泥濘の中にいたはずの僕が、その赤ん坊の純粋な瞳を見つめる時、別の救いを感じていた。 もしかすると、僕は彼女に居場所を求めていたのではなく、彼女という境界線を越えた先にいた、その小さな命の中に、初めて自分の「正しい居場所」を見出したのかもしれない。

やがて彼女は耐えきれず、その家を出て別居を選んだ。
離婚が正式に成立するまでの、半年を超える宙ぶらりんな時間。
僕は時折、主のいなくなったあのアパートへ、彼女の残した荷物を回収しに向かった。
旦那の気配だけが残る冷えた部屋で、彼女の持ち物を一つひとつ運び出す作業。それは彼女を「妻」という役割から、一歩ずつ解放していく儀式のようでもあった。

三軒目の家。

そこは、僕にとって「奪われた彼女」を確認する場所であり、同時に「新しい愛の形」を教えてくれた、もっとも切ない聖域だった。