キンコーン カンコーン ♪
廊下に響き渡る二時間目開始のチャイム。
「起立、礼」
「お願いしまーす」
先生はすでに教室に入り、英語の授業が始まろうとしている。
『一年四組』と表示された教室のドア。
今日は、やっとここまで来れた。
昨日は昇降口まで。
一昨日は学校の正門まで。
でも、
このドア一枚の隔たりは、厚すぎる。
これ以上は無理。
クラスの入口の前に立って、十五分過ぎた。
やっぱり、帰ろう。
そして明日からは、もう……
「こんにちは、高峯さん」
振り向くと白衣の女の人が立っていた。
窓から入ってくる風に長い髪が揺れている。
眼鏡の下の眼が優しく微笑んでいる。
養護の瀬川先生だ。
「こ、こんにちは」
「今日は、ここまで来れたんだ。えらい!」
「で、でもこれ以上は……」
「いいよいいよ、無理しなくって。もう、お家帰る?」
「そうしようかなって思って」
「そう……ちょっとだけ、寄ってかない?」
返事を聞かずに先生は歩き出す。
釣られて、後をついていく。
階段を降り、一階の奥に向かう。
先生は突き当りのドアを開け、私を先に通した。
「ここには、よく来る? ごめん、よく来てた?」
「いいえ、図書室はあまり利用してませんでした」
そこは、しんと静まりかえり、かすかに本がいっぱい置いてある場所独特の匂いを感じる。
窓の外では、まだツクツクボウシが鳴いているが、ここは別世界のように涼しい。
入口付近には貸出カウンターとお勧め書籍の本棚があり、八つのテーブルが並ぶ閲覧コーナーを、ぐるりと書架が囲んでいる。
瀬川先生は、カウンターに寄りかかり、私に向き合う。
「もしよかったらだけど……ここね、授業中は誰もいないから自由に使っていいよ。保健室も飽きちゃったろうし」
「ありがとうございます」
「本は好きかしら?」
「マンガとかラノベとか読むくらいで……本格的な小説とかは、ちょっと」
「いいじゃない! 私も好きよ。ホラーとか、百合とか」
「え?」
「意外とココ、マンガもラノベも充実してるのよ」
「そうなんですか?」
「誰かさんの功績でね……あ、忘れてた。ココね、あなたの先輩がひとりいるんだった」
「センパイ?」
「その子、ときどきココに来るけど、気になるようだったら、時間調整してもらうから」
「?」
養護の先生はそう言って、図書室を後にした。ココに来たときは、一応LINE頂戴ね、とだけ言葉を残して。
さて、どうしよう。
いつでも帰っていいよって言われたけど。
実はここに来たの、入学して学内の施設の見学会があった時以来かも知れない。
決めかねながら、書架を見て回る。
文学、経済、科学、社会、スポーツ、健康と保健、地域と環境など、いろいろなジャンルの本が整理されて並んでいる。
書架コーナーの一番奥まったところに少しスペースがあり、四人掛けのテーブルが置かれている。
その上には何冊も無造作に本が置かれ、椅子には一人の女子生徒が座っていた。いや、正確に言うと、テーブルに突っ伏して寝ていた。
うちの学校の制服はブレザーだけど、なぜかその子はセーラー服を着ていた。よその学校の生徒だろうか?
私は彼女の睡眠の邪魔をしないように……正直に言えばこの子との接触を避けて、図書室を出ようと入口に向かう。
少し慌てていたので、閲覧コーナーのテーブルに置いてあったカバンを持った時に椅子にぶつけてしまい、ガタリと大きな音をたててしまった。
「あれ、誰かいるのかな?」
奥から声がした。
少し迷ったが、声のする方に戻った。
「邪魔をしちゃってごめんなさい」
セーラー服の女子生徒は、おっとっとと言いながらよろけつつ立ち上がり、寝ぼけ眼をこすった。
「いーのいーの。ココはみんなの場所なんだから」
短めの髪を横で一つ結びにした女の子がニコリと笑って近づいてきた。
「ところで。授業中なのに、キミは何でココにいるのかな?」
「あ、あの、瀬川先生、保健の先生にここを案内されて……」
「そっか、ボクと同類かあ!」
その子はニッと笑って、カバンを持ってない方の私の手をとって無理やり握手した。
「ボクの名前は、大野朝陽、アサヒだよ。二年生。よろしく」
「わ、私は、高峯円花、マドカ。一年です」
彼女に倣って自己紹介をした。
握手していた手をほどき、彼女は席を勧めた。
「散らかってるけど、よかったらココ座って」
そう言うと彼女は私よりも先に腰かけ、目の前にごちゃごちゃと置いてあった本を整頓し始めた。全部ラノベだ。
「ねえ、マドカ。キミはどんな本が好きかな?」
いきなり名前で呼ばれ、少しびっくりする。
「マンガとかラノベとか読むくらいで……本格的な小説とかは、ちょっと」
瀬川先生からの質問と同じ返事をした。
「おー、仲間! それはちょうどよかった」
彼女は笑みをこぼしながら、周りの書架を見回した。
よく見ると――いや、よく見なくても書架の側面に『マンガ・ラノベコーナー』と手作り、手書きのプレートが貼ってあり、マンガとラノベがずらりと並んでいる。棚には、これまた手作りのPOPがぶら下がっていて『BLビギナーには、これがおススメ!』とか『ついに出た! 五年ぶり〇〇先生の新作』とか書かれている。
「ココの棚はね、ほとんどボクが本を集めて、このコーナーを作ったんだ」
自慢気に胸を張る。
「この本、大野さんが買った、ということですか?」
「まさか。ちゃんと図書購入の希望を学校に出して注文しているよ――それからボクのことはアサヒでいいよ。あと、タメ口でOK!」
「わ、わかった。図書室って、希望を言えば、読みたい本を買ってくれるの?」
「うん、もちろん。実はね、貸出カウンターに購入リクエストを出す用紙が置いてあるんだけどね。ほとんどリクエストが無いから、ボクがどんどん希望を出しちゃうんだ。学校では決められた予算を使わなくちゃいけないみたいだし」
「あの、大野さん……アサヒって、図書委員とかやってるの?」
「そうだよ。ボクは図書委員長。各クラスから一人ずつ図書委員が選ばれてると思うけど、誰も委員長はやりたがらないから、しょうがないなーって手を挙げたら、委員長になっちゃった……そうだマドカ、キミ副委員長やらない? そんな状況なんで、副委員長のなり手がいなかったんだ」
「え! 私、図書委員でもないし、それに学校にどれだけ来れるかわからないし……」
「いーからいーから! 図書委員って必ずクラス一人って決まってるわけじゃないし、来れる時だけ来て手伝ってくれればいいよ。ボクも最初そうだったし。よかったら、図書室担当の先生に話しとくから」
なんか、その子の勢いに呑まれて、私は図書室の副委員長になってしまった。不登校生なんだけど。
その日から私は、調子がいい時は『図書室』に登校し、アサヒと本の整理をしたり、蔵書のマンガやラノベを読んだり、お喋りをしたりした。調子が悪い時は保健室で瀬川先生に相談したりベッドを借りて、もっと調子が悪い時は学校を休んだ。
昼休みや放課後は生徒がいっぱい図書室に来るので、図書室の倉庫に退避し、アサヒと一緒にお弁当を食べた。狭い空間で二人きりになるのはちょっと恥ずかしくてドキドキした。
本の貸出・返却は図書委員の生徒たちがやってくれている。
そうやって、少しずつ学校に行ける日が増えていった。
ある日。
奥の四人がけのテーブルでアサヒと話題の新刊について話してたら、お昼休みをだいぶオーバーしてしまった。
図書室のドアががらりと開く。
パタパタと足音が聞こえたので、慌てて倉庫に隠れようとしたけど、アサヒはニコリと笑ってそのまま座っている。
私も座り直す。
三人の女子生徒が、図書室の奥にやってきた。
「ねえねえ、見て! ほら、ココ、マンガとかいっぱいあるでしょ?」
「POPとか貼ってあって楽しいね」
「ほんとだー! 知らなかった。借りて行こっか?」
クラスの女の子たちだ。
テーブルに座っている私に気づき、三人の視線が集まる。
「あれっ、高峯さん?」
「……こんにちは……久しぶり」
「へー、クラスで見かけなかったけど、ココにいたんだ」
「うん……図書委員をやらせてもらっているの」
彼女たちの言葉に、嫌みとか、からかいみたいなのは感じられなかった。
「ココいいね! ワタシの好みの本が充実しているし、お勧めがわかりやすいし……なんか隠れ家みたいだし」
アサヒが手のひらを上に向け、『どうぞ』のポーズをとる。
「ほら、マドカ。お勧めの本を紹介してやんなよ……キミは図書室の副委員長なんだし」
アサヒが私を見つめる。
それに促され、席を立ち、自分で注文した新刊本をみんなに案内した。
アサヒはテーブルから離れる。
席が四つでき、私とクラスメイトが腰かけた。
三人は遠慮しながらも私の体調に気づかい、その後はめいめい本の好みなどを話した。
いつの間にか、アサヒの姿は図書室にはなかった。
翌週。
少しだけ、風に涼しさが混ざるようになって。
そして。
午後からだけど、夏休みが終わって初めてクラスで授業を受けた。
(おしまい)



