『嘘の浮気、真実の執着』 ――婚約破棄から始まる幼馴染たちの逆転愛

 翌日の夕方、ビルのガラス窓に薄い雲の色が映り込んでいた。
 外では、昨夜の雨がまだ街を濡らしたまま、鈍い光を返している。

 会議室を出た廊下で、莉子はふと足を止めた。

 ガラス越しに見えるロビーの奥で、城崎が数名の担当者と話している。
 低く落ち着いた声。
 組織を見ている目。

「——それは現場の判断を尊重しましょう。
 数字はあとから追いつきます」

 柔らかな言葉の裏に、確かな芯がある。

(この人は、誰かを傷つける言い方をしない)

 そのことに気づくと、胸の奥で少しだけ力が抜けた。

 

 話し合いが終わると、城崎は莉子に気づき、軽く会釈をした。

「お疲れさまです。……少し歩きませんか」

「会議、まだ続くのでは?」

「次は二十分後です。
 その間に、息を整えましょう」

 彼の言い方は、命令でも誘いでもない。
 ただ、選択肢として差し出されていた。

 莉子は一瞬迷い、それから小さく頷いた。

「……少しだけなら」

 

 ビルの外。
 夕刻の街路樹の葉が、淡い風に揺れていた。

 車の走行音と、遠くの人の声。
 少し冷たい空気が、頬をかすめていく。

 二人は並んで歩き始めた。

 

「篠宮さんは、会社と家の往復ばかりでしょう?」

「ええ。そうしないと、考え込んでしまうから」

「考えるのは悪いことではありません」

「でも、立ち止まったら——」

 言いかけて、言葉が喉に引っかかる。

「戻れなくなる気がして」

 口に出した瞬間、胸の奥が静かに痛んだ。

 城崎はすぐに言い返さなかった。
 長い沈黙を、無理に埋めようともしない。

「……それでも」

 やがて、穏やかな声が落ちた。

「“止まらないために立ち止まる”という時間も、あります」

 横目に見える彼の横顔は、優しくも強い。

「痛みが消えるまで歩き続ける人は、途中で倒れてしまう。
 休むのは、前へ進むための行動です」

「そんなふうに言ってもらったの、初めてです」

「では、役得ですね」

 かすかな微笑が交わる。

 それは恋とは違う——
 けれど、確かに心へ触れる温度だった。

 

 小さな公園が見えてきた。
 薄暗い夕暮れの中、街灯がひとつ、静かに灯る。

 ベンチの端に腰を下ろすと、城崎は少しだけ距離を空けて座った。

「ここ、昔から好きな場所なんです。
 都会なのに、時間だけがゆっくり流れる」

 彼は指先で空を指し示す。

「雨のあとは、空気が軽いでしょう?」

「……そうですね」

 莉子は深く息を吸い込む。
 胸の奥に溜まっていた重さが、ほんの少しだけほどけた気がした。

 

「篠宮さん」

 城崎の声が、静かに落ちた。

「あなたは強い人です。
 でも、強さの形を一つに決めなくていい」

「……それでも、私は——」

 莉子は膝の上で手を組み、視線を落とす。

「誰かに寄りかかるのが怖いんです。
 失うくらいなら、最初から寄りかからない方がいい」

 その言葉に、自分自身が少し驚いた。

 ——心の底に隠していた本音だった。

 

 城崎は、しばらく黙ったまま空を見上げ、
 それから穏やかに答える。

「失った痛みを知っている人は、
 “寄りかかっていい相手”を選ぶのが、うまくなります」

「……選ぶ?」

「はい。
 もし間違ったときは、そのとき一緒に立ち上がればいい」

 その言葉は、どこか遠い未来へ通じているようだった。

 莉子は小さく息を飲み、そして——
 ほんの少しだけ、肩の力を抜いた。

「今はまだ……誰かに寄りかかる勇気がありません」

「それでいいんです」

 城崎は、それ以上求めなかった。

「一歩は、ここで止めておきましょう。
 次の一歩は、あなたが決めるときに」

 その言い方が、胸に静かに届いた。

 

 公園の入口の向こう。
 暗がりの中、黒い車がゆっくりと停まる。

 フロントガラス越しに、一瞬だけ視線を感じた。

 ——蓮。

 灯りの反射に溶け、表情は見えない。

 ただ、車は何も言わずに走り去っていった。

(もう、振り返らない)

 胸の奥で、そっと言い聞かせる。

 

 城崎が立ち上がり、手を差し出した。

「戻りましょう。
 夜は長いですが——明日は必ず来ます」

 莉子はその手を取らなかった。
 代わりに、小さく会釈をする。

「……ありがとう。
 今夜は、ここまでで十分です」

 城崎は微笑み、静かに頷いた。

 それは 踏み込まない優しさ だった。

 

 ビルへ戻る道。
 街灯の下を歩きながら、莉子はひとつ息を吐く。

——たった一歩。
でも、その一歩は、確かに前へ進んでいた。