『嘘の浮気、真実の執着』 ――婚約破棄から始まる幼馴染たちの逆転愛

 会議が終わった夕刻、曇りガラス越しの空には薄い雲が広がっていた。
 雨が降るわけでも、晴れるわけでもない——中途半端な空模様が、胸の内とよく似ている。

 莉子は書類を抱えたまま、エレベーターホールで足を止めた。

(戻れない。もう、あの人とは)

 胸の奥で、静かにそう呟く。

 婚約を失ったのは事実で、
 誤解のまま終わったのも事実で、
 それでも——

(たとえ真実があったとしても、
 私の心は、同じ場所には戻れない)

 それは、痛みを守るための防御だった。

 

 そのとき、背後から声が落ちてきた。

「篠宮本部長。お時間よろしいですか」

 振り返ると、見慣れない男が立っていた。

 端正なスーツ。
 柔らかな物腰と、仕事の匂いをまとった落ち着いた眼差し。

「……あなたは?」

「城崎(しろさき)悠斗と申します。
 新しくコンサル部門に参画することになりました」

 名刺が差し出される。
 その字面を見た瞬間、莉子は微かに息を飲んだ。

(——鳴海コンサル。海外案件の急成長企業……)

「グループ横断プロジェクトでご一緒する予定と伺っています。
 ご挨拶が遅れました」

「いえ、こちらこそ……篠宮莉子です」

 名刺を受け取り、微笑みを作る。

 彼の声は穏やかで、耳に優しい。
 どこまでも理性的で、傷口に触れない温度だった。

「実は、今日の会議でお話されていた提携案件——
 少しだけ、意見を伺ってもよろしいですか」

「ええ。構いません」

 二人は会議室横の小さな打ち合わせスペースへ移動する。

 窓の外では、街の灯りが静かに灯り始めていた。

 

 資料を広げながら、城崎は的確な言葉を選ぶ。

「御社の資源配分は合理的ですが、“人的面”のリスクが見えにくい。
 現場の士気や連携——数字では測れない部分も、計画段階で織り込むべきです」

 静かな指摘。
 感情よりも論理。
 それでも、どこか温度のある響き。

「……ありがとうございます。
 そこは、確かに弱点でした」

「無理をしている組織は、ある日突然、音を立てて崩れます。
 人も、同じです」

 視線が、一瞬だけ莉子を捉えた。

 何も言われていない。
 それでも、見透かされた気がして胸が少しだけざわめく。

「……私は、大丈夫です」

「そう言える人ほど、大丈夫じゃないことが多い」

 やわらかな微笑。
 押しつけがましくなく、それでも近い。

「篠宮さん。
 もし仕事以外でも、話す場所が必要になったら——いつでもどうぞ」

 名刺の裏に、直通の連絡先が小さく記されている。

 その配慮は、とても静かで、誠実だった。

 

 打ち合わせを終え、廊下へ出た瞬間——
 奥のガラス壁の向こうに、黒い影が見えた。

 蓮だった。

 短い距離を隔てただけなのに、
 そこには手の届かない世界が横たわっている。

 視線が、ほんの一瞬だけ交錯した。

 言葉は交わされない。
 ただ、胸の奥で何かが軋む。

 ——そして、彼は背を向けた。
 莉子もまた、同じ方向へは歩かなかった。

(もう、戻らない。
 戻ってはいけない)

 胸の奥で、そっと言い聞かせる。

 隣に並んだ城崎が、静かに問いかける。

「……先ほどの方は、重要なお相手ですか」

 莉子は小さく首を振った。

「いいえ。
 もう、私とは関係のない人です」

 自分で口にしたその言葉が、
 誰よりも自分の心を刺した。

 しかし城崎は、それ以上踏み込まなかった。

「無理をなさらないでください。
 人は、前に進むために——一度、歩みを止めることもあります」

 それは優しさなのに、なぜか、とても遠い。

 

 その夜、灯りを消した部屋で、莉子は瞳を閉じる。

(戻れない。
 ——だから、進むしかない)

 胸の奥に、まだ消えない痛みを抱えたまま。

――そして、新しい影が静かに、物語へ歩み寄り始めていた。