『嘘の浮気、真実の執着』 ――婚約破棄から始まる幼馴染たちの逆転愛

 応接室の空気が、言葉を吐き尽くしたあとも静かに留まっていた。
 蓮はしばらく黙り、それからゆっくりと口を開いた。

「……ここじゃ、苦しいな。
 少し、外に出ないか」

 断る理由はなかった。
 莉子は頷き、二人は並んで廊下を歩き出す。

 

 夜のビルテラス。
 ガラス越しに広がる街の灯りが、遠く揺れている。

 風が頬をかすめるたび、胸の奥のざわめきが少しずつほどけていく。

 

「ここ、覚えてるか」

 蓮が低く呟く。

「最後に話をした夜……君は、何も言わず背中を向けた」

「ええ。
 あの時の私は、逃げることしかできなかった」

 莉子の声は落ち着いていた。

「でも今日は、逃げに来たんじゃない」

 

 しばらく沈黙が続いたあと、彼女の横顔に視線を向ける。

「今の君は、前より強いな」

「違うわ。
 ただ……弱さを隠さなくなっただけ」

 淡い微笑がこぼれる。

「昔の私は、“傷つかないほうが楽”だと思ってた。
 でも今は、傷つく覚悟がないと——
 “誰も愛せない”って、やっと知ったの」

 

 蓮の指先が、ほんの少しだけ揺れる。

 それでも――触れない。

 

「俺に……その覚悟は、あると思うか」

 自嘲にも似た声。

 

 莉子は視線を逸らさずに答えた。

「“守るための沈黙”じゃなくて、
 “共に選ぶための言葉”を持てるなら——」

 静かに息を吸う。

「……たぶん、あるわ」

 

 風が吹き抜け、二人の影が足元で重なる。

 

「莉子」

 呼ばれた名前に、胸の奥が微かに震えた。

「今度俺が同じ間違いをしたら——
 その時は、俺を置いていけ。
 君を巻き込む男でいたくない」

「違うわ」

 莉子は首を横に振る。

「今度は、“一緒に間違える”の。
 どちらかが黙って遠ざかる関係じゃなくて」

 

 蓮はしばらく言葉を失い、
 それから、かすかに笑った。

「……強くなったな、本当に」

「ええ。あなたより少しだけ」

 冗談めいた言葉が、夜気に溶ける。

 

 そして——

 莉子は、そっと視線を落とす。

「でもね。
 まだ、あなたの手は取れない」

 

 蓮は静かに頷いた。

「分かってる」

「今の私は、“戻るため”じゃなくて、
 “選ぶため”にここに来たの」

 胸に手を当てる。

「だから、時間をください。
 過去じゃなく、今のあなたを見つめるための」

 

「……待つ」

 迷いのない声だった。

「答えを急がない。
 今回は、君の“速さ”で進む」

 

 ふたりは並んで立ったまま、夜景を見つめる。

 半歩の距離は、まだ埋まらない。

 けれど——

(この距離は、
 離れるためじゃない)

 莉子は、確かにそう感じていた。

 

 まだ触れない手。
 それでも、同じ方向を見ている手。

——選ぶ前の静かな余白が、
確かにそこにあった。