夜の街は雨上がりのように静かで、舗道に残る灯りが淡く滲んでいた。
タクシーを降りた瞬間、莉子の頬にひやりとした空気が触れる。
見上げたビルの窓には、ところどころだけ灯りが残っている。
その光は遠く、けれど確かに“彼のいる場所”へ繋がっていた。
(ここに来ると決めたのは、私)
自分に言い聞かせるように、胸の奥で小さく息を吸う。
エントランスのガラス扉に手をかけると、
静かなロビーに冷たい空調の風が降りてきた。
受付カウンターに近づいた瞬間、喉がひどく乾く。
「……篠宮莉子と申します」
自分の声が、少しだけ震えているのが分かった。
「久条——いえ、蓮様に、お会いしたいのですが」
受付の女性が一瞬だけ目を見開き、
すぐに落ち着いた表情へと戻る。
「少々お待ちください。確認いたしますね」
静かなロビーに、電話の内線音が吸い込まれていく。
その音を聞きながら——
莉子は、無意識に両手を組み合わせていた。
(帰るなら、今のうち)
(でも……帰らないために来たんでしょう、私)
「——こちらへどうぞ」
案内されたのは、夜間ゲスト用の小さな応接室だった。
低い照明がテーブルの表面に柔らかな影を落とし、
窓の外にはネオンの光が遠く瞬いている。
椅子に腰を下ろし、莉子は小さく息を吐いた。
落ち着きたいのに、落ち着けない。
苦しくて、でも逃げたいわけじゃない。
(会って……何を言うの?)
「ありがとう」でもない。
「戻りたい」でもない。
(ただ、“向き合いに来た”と言うだけ……?)
胸の奥で言葉が渦巻く。
その時——
扉の向こうで、足音が止まった。
重すぎないのに、はっきりと分かる足取り。
(……分かる)
無意識に背筋が伸びた。
ドアノブが、かすかに音を立てる。
呼吸が、胸の奥でひとつ跳ねた。
扉が静かに開き、薄い光の中から——
蓮が現れた。
「……」
声が出なかった。
彼もまた、しばらく言葉を失っていた。
視線が交わる。
懐かしさでも、未練でもなく——
まだ終わっていない何かが、ふたりの間に浮かび上がる。
最初に口を開いたのは、蓮だった。
「……来てくれたんだな」
あまりにも静かな声。
感情を抑えているのが、痛いほど分かる。
「ええ」
莉子は、ほんの少し微笑んだ。
「来ました。……ここへ来るしかなかったから」
蓮が一歩だけ近づく。
けれど、その半歩の手前で止まる。
「座っていいか?」
「もちろん」
彼が向かいに腰を下ろす。
テーブルひとつの距離——
けれど、心の距離は、その何倍も遠かった。
短い沈黙。
最初に言葉を選んだのは、莉子だった。
「ここへ来たのは……責めるためじゃありません」
指先に力を込め、まっすぐ視線を向ける。
「“知らないまま終わらせたこと”に、
私自身が、ちゃんと向き合うためです」
蓮の瞳が、痛みを帯びる。
「黒瀬から、聞いたんだな」
「……はい」
莉子は静かに頷く。
「あなたが沈黙を選んだ理由も。
私を——標的から外すためだったことも」
蓮は、かすかに息を詰めた。
「……それでも俺は、言うべきだった」
低い声が、深く震える。
「どんな理由があっても、君を孤独にしたのは俺だ」
莉子は、ゆっくり首を振る。
「孤独を選んだのは、私です」
少し言い淀んでから、言葉を続ける。
「信じるより、疑う方が楽だった。
傷つく前に手放した方が安全だって……そう思ってしまった」
蓮は、まっすぐに彼女を見つめる。
「それでも——傷ついたのは君だった」
「ええ」
短い沈黙を挟み、莉子は微笑に似た表情を浮かべる。
「でも、あなただけのせいじゃありません」
ふたりの間を、静かな息づかいが満たしていく。
逃げることも、誤魔化すこともできない
真っ直ぐな対話の空気。
「ひとつ、確かめたいんです」
莉子は、胸の奥に手を当てた。
「——あの日あなたが守りたかったのは」
視線を逸らさず、問う。
「綾香さんじゃなくて……“私”だったの?」
蓮は、少しも迷わず答えた。
「最初から最後まで——君だけだ」
その言葉は、静かで、決定的だった。
ほどけなくなっていた結び目に
やっと指先が触れたような感覚。
涙は落ちなかった。
代わりに、胸の奥で小さな痛みと温かさが同時に滲む。
(やっと……ここにたどり着けた)
莉子は、息を整え、静かに囁く。
「ありがとう」
それは、過去に向けた言葉であり、
今に向けた言葉でもあった。
まだ答えは出ていない。
抱き合うでも、戻るでもない。
でも——
(ここからが、本当の“始まり”)
ふたりは半歩の距離を保ったまま、
それでも、どちらももう目を逸らさなかった。
——再会は、まだ言葉の途中にあった。
タクシーを降りた瞬間、莉子の頬にひやりとした空気が触れる。
見上げたビルの窓には、ところどころだけ灯りが残っている。
その光は遠く、けれど確かに“彼のいる場所”へ繋がっていた。
(ここに来ると決めたのは、私)
自分に言い聞かせるように、胸の奥で小さく息を吸う。
エントランスのガラス扉に手をかけると、
静かなロビーに冷たい空調の風が降りてきた。
受付カウンターに近づいた瞬間、喉がひどく乾く。
「……篠宮莉子と申します」
自分の声が、少しだけ震えているのが分かった。
「久条——いえ、蓮様に、お会いしたいのですが」
受付の女性が一瞬だけ目を見開き、
すぐに落ち着いた表情へと戻る。
「少々お待ちください。確認いたしますね」
静かなロビーに、電話の内線音が吸い込まれていく。
その音を聞きながら——
莉子は、無意識に両手を組み合わせていた。
(帰るなら、今のうち)
(でも……帰らないために来たんでしょう、私)
「——こちらへどうぞ」
案内されたのは、夜間ゲスト用の小さな応接室だった。
低い照明がテーブルの表面に柔らかな影を落とし、
窓の外にはネオンの光が遠く瞬いている。
椅子に腰を下ろし、莉子は小さく息を吐いた。
落ち着きたいのに、落ち着けない。
苦しくて、でも逃げたいわけじゃない。
(会って……何を言うの?)
「ありがとう」でもない。
「戻りたい」でもない。
(ただ、“向き合いに来た”と言うだけ……?)
胸の奥で言葉が渦巻く。
その時——
扉の向こうで、足音が止まった。
重すぎないのに、はっきりと分かる足取り。
(……分かる)
無意識に背筋が伸びた。
ドアノブが、かすかに音を立てる。
呼吸が、胸の奥でひとつ跳ねた。
扉が静かに開き、薄い光の中から——
蓮が現れた。
「……」
声が出なかった。
彼もまた、しばらく言葉を失っていた。
視線が交わる。
懐かしさでも、未練でもなく——
まだ終わっていない何かが、ふたりの間に浮かび上がる。
最初に口を開いたのは、蓮だった。
「……来てくれたんだな」
あまりにも静かな声。
感情を抑えているのが、痛いほど分かる。
「ええ」
莉子は、ほんの少し微笑んだ。
「来ました。……ここへ来るしかなかったから」
蓮が一歩だけ近づく。
けれど、その半歩の手前で止まる。
「座っていいか?」
「もちろん」
彼が向かいに腰を下ろす。
テーブルひとつの距離——
けれど、心の距離は、その何倍も遠かった。
短い沈黙。
最初に言葉を選んだのは、莉子だった。
「ここへ来たのは……責めるためじゃありません」
指先に力を込め、まっすぐ視線を向ける。
「“知らないまま終わらせたこと”に、
私自身が、ちゃんと向き合うためです」
蓮の瞳が、痛みを帯びる。
「黒瀬から、聞いたんだな」
「……はい」
莉子は静かに頷く。
「あなたが沈黙を選んだ理由も。
私を——標的から外すためだったことも」
蓮は、かすかに息を詰めた。
「……それでも俺は、言うべきだった」
低い声が、深く震える。
「どんな理由があっても、君を孤独にしたのは俺だ」
莉子は、ゆっくり首を振る。
「孤独を選んだのは、私です」
少し言い淀んでから、言葉を続ける。
「信じるより、疑う方が楽だった。
傷つく前に手放した方が安全だって……そう思ってしまった」
蓮は、まっすぐに彼女を見つめる。
「それでも——傷ついたのは君だった」
「ええ」
短い沈黙を挟み、莉子は微笑に似た表情を浮かべる。
「でも、あなただけのせいじゃありません」
ふたりの間を、静かな息づかいが満たしていく。
逃げることも、誤魔化すこともできない
真っ直ぐな対話の空気。
「ひとつ、確かめたいんです」
莉子は、胸の奥に手を当てた。
「——あの日あなたが守りたかったのは」
視線を逸らさず、問う。
「綾香さんじゃなくて……“私”だったの?」
蓮は、少しも迷わず答えた。
「最初から最後まで——君だけだ」
その言葉は、静かで、決定的だった。
ほどけなくなっていた結び目に
やっと指先が触れたような感覚。
涙は落ちなかった。
代わりに、胸の奥で小さな痛みと温かさが同時に滲む。
(やっと……ここにたどり着けた)
莉子は、息を整え、静かに囁く。
「ありがとう」
それは、過去に向けた言葉であり、
今に向けた言葉でもあった。
まだ答えは出ていない。
抱き合うでも、戻るでもない。
でも——
(ここからが、本当の“始まり”)
ふたりは半歩の距離を保ったまま、
それでも、どちらももう目を逸らさなかった。
——再会は、まだ言葉の途中にあった。

