『嘘の浮気、真実の執着』 ――婚約破棄から始まる幼馴染たちの逆転愛


 土曜の午後、ビルのロビーはいつもより静かだった。
 来客用ソファに座り、タブレットを閉じようとしたとき——
 受付の女性が、少し戸惑った表情で近づいてきた。

「篠宮本部長、あの……お客様が。
 お名前は、“白崎綾香さん”と」

 胸の奥が、きゅっと縮む。

(……来た)

 逃げることも、席を立つこともできた。
 それでも——莉子は静かに頷いた。

「応接室へご案内して」

 

 ガラス張りの小さな応接室。
 ドアを開けた瞬間、柔らかな香水の香りが微かに漂う。

 綾香は立ち上がり、深く頭を下げた。

「急に押しかけてごめんなさい。
 どうしても……お会いして、伝えたいことがあって」

 その声は、以前より落ち着いていた。
 けれど——どこか、疲れた影を帯びている。

「座ってください」

 莉子は向かいの椅子に腰を下ろした。

 ふたりの間に、沈黙が落ちる。

 

 綾香が、指先をぎゅっと握りしめ、口を開いた。

「——あの頃の私、弱かったんです。
 誰かに寄りかかっていないと、立っていられなかった」

 視線は揺れながら、それでも逃げてはいなかった。

「蓮さんは“助けてくれた人”で……
 私、境界線が分からなくなっていました」

「……ええ」

 莉子は、静かに耳を傾ける。

 

「誤解される距離だった。
 あなたから見れば、裏切りにしか見えない距離だった」

 綾香は震える声で続ける。

「でも——
 蓮さんは一度も、私の手を取らなかった。
 “あなたがいるから”って」

 胸の奥が、静かに揺れる。

 

「私、あの人に依存していたのは事実です。
 でも……あの人は、私を“選んで”なんかいなかった」

 綾香は頬を伝い落ちる涙を、そっと拭った。

「守られたのは、私じゃない。
 ——“あなたとの未来”だった」

 

 呼吸が、少しだけ苦しくなる。

(そうだったの……)

 黒瀬の説明と、
 綾香の言葉とが、静かに重なっていく。

 

「本当は、あなたに謝らなきゃいけなかった。
 私が弱かったせいで——
 あなたを傷つけたから」

 綾香は深く頭を下げた。

「ごめんなさい」

 

 莉子は目を閉じ、ゆっくりと言葉を探す。

「……私も、弱かったんです」

 声は静かだった。

「怖くて、疑う方を選びました。
 信じるより、傷つかない方を選んだ」

 

 ふたりの視線が、静かに交差する。

「でも、今なら分かります。
 あの時の私には、まだ“向き合う強さ”がなかった」

 

 綾香の瞳に、安堵が滲んだ。

「それでも……あなたにだけは伝えたかったんです」

 かすかに笑みが浮かぶ。

「蓮さんは、今でもあなたのことだけ、想っています」

 

 胸の奥が、静かに熱くなる。

 涙は落ちない。
 もう、泣く場所ではなかった。

 

「ありがとう。
 あなたの言葉で、やっと——整理ができました」

 莉子は静かに微笑んだ。

「あなたが悪役じゃないって、分かりました」

 綾香の肩から、力がふっと抜けた。

 

「私は、もう蓮さんに頼りません。
 あの人の強さに甘えてしまわないように、生き直します」

 深く息を吸い、綾香は立ち上がる。

「これで本当に、最後です」

 

 ドアノブに手をかける前——
 彼女は振り返った。

「……あなたがもう一度、あの人と向き合う気持ちになれたら」

 少しだけ、微笑む。

「きっと、あの人は“今度こそ言葉で守る人”になっています」

 

 扉が静かに閉じ、
 応接室に、ひとりの静けさが戻る。

 

 胸の奥で、そっと呟く。

(——会わなきゃいけない)

(逃げたままでは、終わらない)

 

 それは、過去へ戻るための決意ではない。
 未来へ進むための、対話の決意だった。

——そして、莉子はゆっくりと立ち上がった。