『嘘の浮気、真実の執着』 ――婚約破棄から始まる幼馴染たちの逆転愛

 オフィスを出る頃には、空はすっかり夜の色に染まっていた。
 ビルの前の街路樹が、冷たい風に細く揺れている。

 タクシーを呼ぶこともできた。
 けれど、今日は——歩きたかった。

(……ひとりで、考えたい)

 ヒールの音が、静かな歩道に規則正しく響く。

 

 黒瀬の言葉が、胸の奥でゆっくりと反芻されていく。

——“あなたを標的から外すために、沈黙を選びました”

——“傷つけないために、傷つけた”

 愚かで、不器用で、
 それでも——確かに自分のためだった選択。

 

(あのとき、知りたかった)

(でも、あのとき知っていたら——
 私は、あの人を選び直してしまったかもしれない)

 立ち止まった足元に、街灯の光が円を描く。

 それは、取り戻せない過去の境界線のようだった。

 

 信号が青に変わる。

 歩き出しながら、莉子は静かに息を吐く。

(怒りも、憎しみも——
 本当は、私を支えてくれていた)

 裏切られたと思わなければ、
 手放す決意なんて、きっと持てなかった。

(だから……あれは、必要だった痛み)

 胸の奥で、ゆっくりと言い聞かせる。

 

 橋の上に差しかかる。
 川面に街の灯りが淡く揺れ、夜風が頬を撫でていく。

 欄干に手を添え、立ち止まった。

 

「……ありがとう」

 声は、川の流れに溶けていく。

 届かなくてもいい。
 届く必要も、もうない。

 それでも——言葉にして外へ手放したかった。

 

 胸の奥に、ひとつの空白が残っている。
 けれど、それはもう“傷口”ではなく、

(——静かな跡)

 そう感じられた。

 

 スマートフォンが震える。
 画面には、城崎の名前。

《今日は無理をしないでください。
 帰り着いたら、ひとことだけでいいので知らせてください》

 強い言葉でも、踏み込んだ言葉でもない。
 ただ——存在だけを示す優しい文。

 

 莉子は、少しだけ迷ってから返信した。

《大丈夫です。少し歩いてから帰ります》

 送信を終え、胸の奥で小さく息をつく。

(私は、もうひとりで歩ける)

 でも——

(ひとりでしか歩けないわけじゃない)

 心のどこかで、静かにそう思う自分がいた。

 

 橋を渡り終え、夜道を再び歩き出す。

 街灯の下に伸びる自分の影が、
 どこか柔らかく見えた。

——過去はまだ、胸の奥に残っている。
それでも、足取りは、確かに前へ進んでいた。