『嘘の浮気、真実の執着』 ――婚約破棄から始まる幼馴染たちの逆転愛

 夕方の会議フロアは、人の気配が少しずつ薄れていた。
 残業組の足音が遠くで交差し、ガラス窓の外では、街の灯りがひとつずつ灯り始めている。

 資料をまとめていたとき、ノックの音が静かに響いた。

「——失礼いたします」

 扉の向こうに立っていたのは、蓮の秘書・黒瀬だった。
 整った佇まいのまま、深く頭を下げる。

「少しだけ、お時間を頂けますか」

 胸の奥に、微かな波紋が広がる。

「……場所を移しましょうか」

「いえ、こちらで結構です。
 ——私が申し上げたいのは、“私的なことではありません”」

 淡々とした声。
 けれど、その奥に、いつもとは違う温度が潜んでいた。

 

 二人は会議テーブルを挟んで向かい合う。

 黒瀬は一瞬だけ視線を落とし、それから言葉を選ぶように口を開いた。

「——先日、篠宮本部長が“区切り”をつけられたと伺いました」

「……はい」

 答えた声は、思ったより落ち着いていた。

「それについて、
 “お伝えしないままでは、あまりに不誠実だ”と判断いたしました」

 静かな言い回し。

 その言葉の中に、
 蓮の影が確かに存在しているのを、莉子は感じ取る。

 

「これは、彼の指示ではありません。
 ——私個人の判断です」

 黒瀬は、はっきりと言った。

「ですが、結果として……“彼の代わりに説明する役目”を、
 私が担うことになります」

 胸の奥が、わずかに痛む。

「……聞きます」

 

 黒瀬は、短く息を整えた。

「当時、綾香さんは“脅迫の対象”でした。
 しかし——同時に」

 視線が、まっすぐこちらに向く。

「篠宮本部長も、狙われていました」

 空気が、音もなく揺れた。

 

「彼女を守ったのは、“彼女のため”だけではありません」

「……どういう、ことですか」

「攻撃の意図は——
 “あなたを巻き込ませること”でした」

 胸の奥を、冷たい衝撃が走る。

 

「あなたの立場、あなたの姓、そして……あなたの存在そのもの。
 それを“揺さぶりの材料”にしようとしていた者がいた」

 黒瀬の声は低く、しかし揺らいでいなかった。

「蓮は、
 “あなたを標的から外すために、沈黙を選びました”。
 それが結果的に——
 “綾香さんを守る構図”に見えてしまったのです」

 

 指先が、机の上で静かに震えた。

(……知らなかった)

 あの夜も
 あの沈黙も
 あの痛みも

 ——別の意味を持っていた。

 

「もちろん、正しい選択だったとは言い切れません」

 黒瀬は静かに言葉を続ける。

「彼自身も、それを“過ちだった”と認めています。
 ですが——」

「黙っていたのは……」

 莉子の声が、微かに掠れる。

「私を……守るため?」

 

 黒瀬は、ゆっくりと頷いた。

「はい。
 “あなたを傷つけないために傷つけた”——
 ……愚かで、不器用な選択でした」

 

 胸の奥で、何かが崩れ、同時に、静かに満たされていく。

 涙は落ちない。
 落とせるほど、もう彼の近くにはいない。

(それでも——)

 心の奥で、かすかな熱が滲む。

 

「……教えてくださって、ありがとうございます」

 莉子は、ゆっくりと頭を下げた。

「いえ」

 黒瀬は短く首を振る。

「本来なら——
 “彼が伝えるべき言葉”でした」

 しばし、静かな沈黙。

 

「篠宮さん」

 黒瀬は、柔らかく言葉を置いた。

「これは、過去をやり直すための説明ではありません。
 ただ——“あなたの痛みだけを、ひとりの誤解として残したくなかった”。」

 

 その瞬間、胸の奥で何かがほどける音がした。

 戻ることはできない。
 でも——許しにも似た静かな余白が、心に生まれていた。

 

「……これでいいんです」

 莉子は、小さく微笑んだ。

「もう、選び直す場所には戻りません。
 けれど——“あの人を憎む理由”は、少し、なくなりました」

 

 黒瀬は深く一礼した。

「それで、充分です」

 そして——一言だけ、静かに添える。

「彼は、今でも“あなたの幸せだけを願っています”。
 遠くから、何一つ求めずに」

 

 莉子は何も答えなかった。

 ただ、胸の奥で小さく息をついた。

(——それでいい)

(それ以上を、もう望まない)

 

 それでも
 どこか遠い空の下で

——同じ祈りが重なっていることを、確かに感じていた。