『嘘の浮気、真実の執着』 ――婚約破棄から始まる幼馴染たちの逆転愛

 午後の光が柔らかく差し込む会議室で、ホワイトボードの影が床に伸びていた。
 打ち合わせが終わり、資料を閉じる音が静かに重なる。

「次回は現場ヒアリングを進めます。
 篠宮本部長のご判断を軸に、調整を進めます」

 城崎の声は落ち着いていた。
 彼の言葉には、急かす色がない。

「お願いします。……無理のない範囲で」

 莉子は頷き、ペンをそっと置いた。

 

 会議室を出たとき、廊下のガラス越しに街の空が見えた。
 雲がゆっくりと流れ、午後の光が淡く揺らいでいる。

(あの日から……どれくらい、時間が経ったのだろう)

 胸の奥に沈んでいた痛みは、まだ消えてはいない。
 けれど、形が少しだけ変わり始めている気がした。

 

「少し、外の空気を吸いませんか」

 城崎が同じ歩幅で並び、静かに声をかけてきた。

「仕事の続きでも、沈黙でも構いません」

「……沈黙、かもしれません」

 莉子は小さく微笑んだ。

 二人は屋外テラスへ向かう。

 

 風が柔らかく吹き、空気の冷たさが頬に触れた。
 遠くで工事の音がかすかに響き、街はいつものように動き続けている。

 手すりに視線を落としたまま、莉子は静かに口を開いた。

「もし——あのとき、違う選択をしていたらって、
 今でも考えてしまいます」

 誰の名も出さない。
 けれど、指している相手は一人だけだった。

 

 城崎は少し間をあけて、穏やかに答える。

「別の選択をしていたら、別の痛みが残っていたはずです」

「……それでも、人は“そうであればよかった”と願ってしまう」

「ええ。
 だからこそ、“今を選び直す”のだと思います」

 その言い方は、正しさではなく、寄り添う温度だった。

 

 風の音が、しばらく二人の間を満たす。

「篠宮さん」

「はい」

「あなたの中に残っているものを、
 “無理に終わらせなくていい”と思っています」

「終わらせなくて……いい?」

「はい」

 城崎は静かに視線を向ける。

「過去は、捨てるものではなく、“抱えて歩く形”に変わるものです。
 痛みのままではなく、“記憶”に」

 その瞬間、胸の奥で何かがそっとほどけた。

 

 莉子は息を吸い、小さく頷いた。

「……怖いんです。
 変わってしまうことも、変われないままでいることも」

「怖いままで、歩いてください。
 私は、その隣にいます」

 告白ではない。
 宣言でもない。

 ただ、支えの位置を確かに示す言葉だった。

 

 莉子は視線を空へ向ける。

 淡い雲の向こうに、微かな光が滲んでいる。

(まだ、完全には手放せていない。
 けれど——もう、縛られてはいない)

 心の奥で、静かにこう感じている自分に気づく。

 

「ありがとうございます」

 それだけを伝えると、城崎は穏やかに微笑んだ。

「急ぎません。
 “今のあなたの速さ”で、十分です」

 

 二人はテラスを離れ、廊下を並んで歩き出す。

 ガラス壁に映る影が、以前よりほんの少しだけ、近づいて見えた。

——過去の痛みは消えない。
だが、その輪郭は、静かに新しい形へと変わり始めていた。