『嘘の浮気、真実の執着』 ――婚約破棄から始まる幼馴染たちの逆転愛

 夜のビル街に、風が細く吹き抜けていた。
 屋上のフェンス越しに見える灯りは、どれも小さく瞬いている。

 蓮は手すりに指を添え、遠くの一点に視線を向けていた。
 そこには、会議を終えたばかりのフロアの灯りが、まだひとつだけ残っている。

(今日が——彼女の選択の日だ)

 胸の奥で静かにそう呟く。

 

「こちらでよろしいのですか。
 会場に向かわず、遠くから見守るだけで」

 背後から黒瀬の声が落ちた。

「ああ。それでいい」

 蓮は短く答える。

「俺がそこに立った瞬間、
 彼女の選択に影を落としてしまう」

「……それでも、気持ちは残るでしょう」

「残るさ」

 わずかに唇が歪む。

「消えない。
 だからこそ、距離を置く」

 

 沈黙。
 遠くで車の音が低く響く。

 黒瀬が手元の資料を閉じ、静かに告げる。

「最終提案は承認されました。
 篠宮本部長は、自分の責任で前に進む選択を」

「そうか」

 思わず、空を仰ぐ。

 胸の奥に、安堵と痛みが同時に落ちていく。

(彼女は、前へ進んだ)

 それは喜びであり、
 同時に、取り返しのつかない現実でもあった。

 

「……城崎悠斗の件ですが」

 黒瀬が慎重に切り出す。

「彼は、篠宮本部長の“歩幅”に合わせて動いています。
 焦らず、求めず、ただ隣に寄り添う形で」

 蓮の指先が、手すりの上で静かに止まる。

「そうか」

 感情を抑えた声。
 けれど、僅かな震えが混じっている。

 

「もし、あなたが望むなら——」

「やめろ」

 穏やかな口調のまま、しかし強く遮る。

「俺の望みを、彼女の人生に乗せるつもりはない」

 短く息を吐く。

「彼女が選んだ道は、尊重する。
 それが、俺に残された“最後の一線”だ」

 

 黒瀬は目を伏せ、静かに頷く。

「……承知しました」

 

 夜空の向こうで、雲の切れ間から星がひとつ現れる。

 それは、手に届かないほど遠い光だった。

 

(あの日の言葉も、あの沈黙も——
 正しかったとは言えない)

 蓮は、静かに目を閉じる。

(それでも、俺はあの瞬間、
 “彼女を守る”と信じて選んだ)

(そして今は——
 “彼女の背中を押す”ことを選ぶ)

 

 胸の奥に、まだ消えない痛みが残っていた。

 だが、その痛みはもう、
 彼女を縛るためのものではない。

 

「黒瀬」

「はい」

「これから先も——遠くでいい。
 彼女に危険が及ぶ芽だけ、静かに取り除いてくれ」

 黒瀬は一瞬だけ言葉を失い、そして深く頭を下げた。

「……了解しました」

 

 蓮は、もう一度だけ遠くの灯りを見つめる。

 そこに彼女の姿はない。
 ただ、彼女の選んだ未来が、静かに続いている。

 

「——幸せであれ」

 誰にも聞こえないほど小さな声で呟く。

 それは、届かない祈り。

 それでも、祈らずにはいられなかった。

――愛は終わらない。
だが、それはもう“求めるための愛”ではなかった。