『嘘の浮気、真実の執着』 ――婚約破棄から始まる幼馴染たちの逆転愛

 朝の光がガラス窓に反射し、執務室の机の上を白く照らしていた。
 書類の端を整えながら、莉子は深く息を吸う。

 今日の午後、グループ横断案件の最終会議がある。
 この数ヶ月の判断が、形として結論へと収束していく。

(前に進むための結論——)

 胸の奥で、小さく言い聞かせる。

 

 ノックの音がして、城崎が姿を現した。

「最終資料、確認をお願いします。
 修正点は、昨夜いただいた内容どおり反映しました」

「ありがとうございます。……こちらでもう一度、通して確認します」

 向かいの席に腰を下ろし、資料を広げる。

 紙の上に並ぶ数字と図表。
 そこに、無機質な計算だけではない——人の息づかいが、微かに宿っている気がした。

 

「——この判断、迷いませんでしたか」

 城崎が静かに問いかける。

「迷いました。
 でも、“守るために切り捨てる”のではなく、
 “残すために形を変える”方を選びました」

 莉子は、ゆっくりと言葉を置く。

「その結果、誰かが救われるわけではないかもしれない。
 それでも……“息ができる場所”をひとつでも残したかった」

 城崎はしばし黙り、微かに笑みを含んで頷いた。

「それが、篠宮さんの選ぶ正しさですね」

「自信は、まだありません」

「自信は、あとから追いつきます。
 “最初に立った場所”が——本当の選択ですから」

 その言葉に、胸の奥が静かに揺れた。

 

 資料を閉じたとき、廊下の向こうで数人の足音が交差する。

 すれ違いざま、一瞬だけ視界の端をかすめた背中。

(……蓮)

 名を呼ばない。
 視線も追わない。

 けれど、胸の奥の空白は、確かにそこにあった。

 

 午後。
 ガラス張りの大会議室には、緊張した空気が満ちていた。

 役員席に視線が集まる中、莉子は立ち上がる。

「——最終提案を、提示します」

 資料をめくる音。
 重ねた議論と調整、そのすべてが言葉へと変わっていく。

 

 プレゼンの終盤。

「この選択は、痛みを伴います。
 しかし“守るための停滞”ではなく、
 “生き続けるための変化”として、私は責任を取ります」

 静かな声が、広い会議室に落ちる。

 短い沈黙のあと、承認の合図が下りた。

 

 会議が終わり、部屋を出たところで、城崎が足を止める。

「——お疲れさまでした」

 その言葉には、敬意と安堵が混じっていた。

「終わり、ではありません。
 ここからが、始まりです」

 莉子は、少しだけ笑みを返す。

「でも……今は少しだけ、立ち止まってもいいですか」

「もちろんです」

 城崎の声は柔らかかった。

 

 二人はビル屋上のテラスへ出た。
 夕暮れが街を淡く染め、風が冷たく頬を撫でる。

「ここ、好きなんです」
 莉子は手すりに視線を落とす。

「高すぎず、遠すぎず——
 それでも、少しだけ世界が広く見える」

 

 城崎は隣に立ちながら、少し距離を空けたまま口を開く。

「篠宮さん。
 今日のあなたは、“過去の影”ではなく、
 “今の自分の判断”で立っていました」

 その言葉は、どこか胸の奥を温かく照らす。

「……それでも、まだ埋まらない場所があります」

「埋めなくていい場所も、あります」

 間を置いて、静かに続ける。

「無理に埋めようとすると、壊れてしまう。
 空白のまま抱えて歩けるようになる——
 それが“強さ”のもう一つの形です」

 

 風が髪を揺らす。
 夕暮れの空が、ゆっくりと夜の色へ溶けていく。

 莉子は小さく息を吸い、言葉を選ぶ。

「私……自分の歩幅で、立ってみたいと思います。
 誰かに合わせるんじゃなくて」

 城崎は、穏やかに微笑んだ。

「それなら、私は——
 その歩幅の“隣”に、置いてください」

 求めない。
 迫らない。

 ただ、差し出された静かな言葉。

 

 莉子は、長い沈黙のあと、小さく頷いた。

「……今はまだ、“入口”までしか行けません」

「それで充分です」

 彼の声は、やわらかく空に溶けていく。

 

 遠くのビルの影の向こう。
 ひとつの窓の明かりが、静かに灯る。

(——どこかで、誰かもまた、
 同じ空を見ているのだろうか)

 胸の奥で微かに疼く痛みを抱えたまま、
 それでも、立ち止まらずに息をする。

 

「帰りましょうか」

「ええ。……自分の速さで」

 二人の足音が、夜の廊下にやわらかく並んでいった。

——過去は消えない。
それでも、未来へ続く入口は、静かに開かれ始めていた。