週の半ば、オフィスの窓の向こうに淡い曇り空が広がっていた。
午前の会議を終え、莉子は資料を閉じながら小さく息をつく。
デスクの上には整然と並んだ書類。
かつては、ここに“重さ”を感じることはなかった。
今は、同じ景色の中に——静かな空白があった。
(前に進むって、思ったのに)
胸の奥を、ふっと風が抜けるような感覚が走る。
「本部長」
ノックとともに扉が開き、城崎が姿を見せた。
「先日の提携資料、修正版をお持ちしました。
少しだけお時間、よろしいですか」
「ええ、どうぞ」
向かい合って椅子に座る。
テーブルの上に並べられた資料の端を、城崎が丁寧に整えた。
「……ここの判断軸、以前の会議より柔らかくなりましたね」
莉子が指摘すると、城崎はわずかに笑みを浮かべる。
「“数字だけで切り捨てない”——篠宮さんの方針を反映しました」
「それは、会社として正しいかどうかしら」
「“正しさ”は、一つではありません。
現場が息をしやすい選択をするのも、経営の役目です」
その言い方は理性的でありながら、どこか人間的だった。
ページを一枚めくったとき——
莉子の視界の端に、ドアの向こうの影が映った。
誰かの気配。
横顔が、ほんの一瞬だけ見える。
胸の奥が、きゅっと縮む。
(……蓮)
視線は交わらない。
影だけが通り過ぎていく。
その一瞬の気配が、心の奥に薄い波紋を残した。
城崎が、気づいたように言葉を止めた。
「——大丈夫ですか」
「ええ」
莉子はかすかに微笑む。
「仕事の話を続けましょう」
声は落ち着いていた。
だが、指先だけが微かに震えている。
会議室を出たあと、二人はエレベーター前で立ち止まった。
時間は昼休み少し前。
社員のざわめきが、遠くから柔らかく響いている。
「よければ、このあと少し食事をご一緒しませんか」
城崎が穏やかに言う。
「仕事の話の続きでもいい。
あるいは、話をしなくてもいい」
選択肢として、静かに差し出されていた。
莉子は、ほんの少しだけ迷ってから頷いた。
「……ええ。少しだけなら」
ビル近くの小さなレストラン。
窓際の席から、曇り空の下を歩く人影が見える。
フォークの音が小さく響き、
湯気の立つスープの香りが、空気をやわらかく包む。
「食事中まで気を張らなくても大丈夫ですよ」
城崎が静かに言った。
「ここでは、肩書きを下ろしていい」
「……難しいですね、そういうの」
「慣れていませんから」
彼は柔らかく笑う。
「練習しましょう。焦らず、少しずつ」
その声は、形のない支えのようだった。
しばらく沈黙が続いたあと、
莉子は小さく息を吸い、口を開いた。
「……私、まだ、何かを手放せていないのかもしれません」
スプーンの先が、皿の縁で止まる。
「もう終わったはずなのに。
もう祝福までしたのに。
それでも、どこかに——」
言葉が途切れる。
城崎は遮らず、ただ静かに聞いていた。
「“終わったもの”は、
すぐに心から消えるものではありません」
柔らかな声が落ちる。
「消えないままでも、生きていける。
そして、いつの日か——“別のかたち”に変わるかもしれない」
「別の、かたち……」
「はい。
痛みが痛みのままでなくなるまで、時間をかけていい」
その言葉は、責めず、急かさず、ただ寄り添っていた。
莉子は、ほんの少しだけ微笑んだ。
「……あなたは、歩くのがゆっくりですね」
「あなたに合わせているだけです」
「それは、少し……反則です」
自嘲にも似た軽い笑みが、ようやく唇に浮かぶ。
食事を終え、店を出る。
曇り空の下、淡い光のなかに二人の影が並ぶ。
ビルへ戻る道の途中——
遠くの交差点に、黒い車が一瞬止まり、また走り去った。
莉子は視線を上げない。
胸の奥で、静かに息を整える。
(まだ、埋まっていない場所がある。
でも——空白のままでは終わらせない)
心の奥で、そっとそう呟く。
「戻りましょう」
城崎の声に、莉子は軽く頷いた。
足音が、同じ速度で並び始める。
——過去はまだそこにある。
けれど、未来への歩幅は、確かに前へ進み始めていた。
午前の会議を終え、莉子は資料を閉じながら小さく息をつく。
デスクの上には整然と並んだ書類。
かつては、ここに“重さ”を感じることはなかった。
今は、同じ景色の中に——静かな空白があった。
(前に進むって、思ったのに)
胸の奥を、ふっと風が抜けるような感覚が走る。
「本部長」
ノックとともに扉が開き、城崎が姿を見せた。
「先日の提携資料、修正版をお持ちしました。
少しだけお時間、よろしいですか」
「ええ、どうぞ」
向かい合って椅子に座る。
テーブルの上に並べられた資料の端を、城崎が丁寧に整えた。
「……ここの判断軸、以前の会議より柔らかくなりましたね」
莉子が指摘すると、城崎はわずかに笑みを浮かべる。
「“数字だけで切り捨てない”——篠宮さんの方針を反映しました」
「それは、会社として正しいかどうかしら」
「“正しさ”は、一つではありません。
現場が息をしやすい選択をするのも、経営の役目です」
その言い方は理性的でありながら、どこか人間的だった。
ページを一枚めくったとき——
莉子の視界の端に、ドアの向こうの影が映った。
誰かの気配。
横顔が、ほんの一瞬だけ見える。
胸の奥が、きゅっと縮む。
(……蓮)
視線は交わらない。
影だけが通り過ぎていく。
その一瞬の気配が、心の奥に薄い波紋を残した。
城崎が、気づいたように言葉を止めた。
「——大丈夫ですか」
「ええ」
莉子はかすかに微笑む。
「仕事の話を続けましょう」
声は落ち着いていた。
だが、指先だけが微かに震えている。
会議室を出たあと、二人はエレベーター前で立ち止まった。
時間は昼休み少し前。
社員のざわめきが、遠くから柔らかく響いている。
「よければ、このあと少し食事をご一緒しませんか」
城崎が穏やかに言う。
「仕事の話の続きでもいい。
あるいは、話をしなくてもいい」
選択肢として、静かに差し出されていた。
莉子は、ほんの少しだけ迷ってから頷いた。
「……ええ。少しだけなら」
ビル近くの小さなレストラン。
窓際の席から、曇り空の下を歩く人影が見える。
フォークの音が小さく響き、
湯気の立つスープの香りが、空気をやわらかく包む。
「食事中まで気を張らなくても大丈夫ですよ」
城崎が静かに言った。
「ここでは、肩書きを下ろしていい」
「……難しいですね、そういうの」
「慣れていませんから」
彼は柔らかく笑う。
「練習しましょう。焦らず、少しずつ」
その声は、形のない支えのようだった。
しばらく沈黙が続いたあと、
莉子は小さく息を吸い、口を開いた。
「……私、まだ、何かを手放せていないのかもしれません」
スプーンの先が、皿の縁で止まる。
「もう終わったはずなのに。
もう祝福までしたのに。
それでも、どこかに——」
言葉が途切れる。
城崎は遮らず、ただ静かに聞いていた。
「“終わったもの”は、
すぐに心から消えるものではありません」
柔らかな声が落ちる。
「消えないままでも、生きていける。
そして、いつの日か——“別のかたち”に変わるかもしれない」
「別の、かたち……」
「はい。
痛みが痛みのままでなくなるまで、時間をかけていい」
その言葉は、責めず、急かさず、ただ寄り添っていた。
莉子は、ほんの少しだけ微笑んだ。
「……あなたは、歩くのがゆっくりですね」
「あなたに合わせているだけです」
「それは、少し……反則です」
自嘲にも似た軽い笑みが、ようやく唇に浮かぶ。
食事を終え、店を出る。
曇り空の下、淡い光のなかに二人の影が並ぶ。
ビルへ戻る道の途中——
遠くの交差点に、黒い車が一瞬止まり、また走り去った。
莉子は視線を上げない。
胸の奥で、静かに息を整える。
(まだ、埋まっていない場所がある。
でも——空白のままでは終わらせない)
心の奥で、そっとそう呟く。
「戻りましょう」
城崎の声に、莉子は軽く頷いた。
足音が、同じ速度で並び始める。
——過去はまだそこにある。
けれど、未来への歩幅は、確かに前へ進み始めていた。

