『嘘の浮気、真実の執着』 ――婚約破棄から始まる幼馴染たちの逆転愛

 翌日の午後、ガラス越しの光が会議室のテーブルを白く照らしていた。
 短いプレゼンが終わり、資料を閉じる音が静かに重なる。

「ここまでの整理、ありがとうございます。
 篠宮本部長の判断、現場にも共有しておきます」

 城崎が穏やかな声で告げる。
 理性的なのに、どこか柔らかい響き。

「こちらこそ。コンサル側の視点が入ると助かります」

 莉子は微笑を返す。
 仕事の言葉は滑らかに出てくる。
 それが、自分を保つための唯一の方法だった。

 

 会議後、二人は廊下を並んで歩いた。
 外の空は淡い雲に覆われ、光はやわらかく散っている。

「……昨夜は、遅くまで社内におられましたね」

 城崎が言葉を選ぶように問いかけた。

「ええ。少し、考え事をしていました」

「心配していました」

 それ以上、理由を尋ねない。
 境界線を守る配慮が、逆に胸に沁みる。

 

 ビル一階のカフェラウンジ。
 窓際の席から見える街路樹が、風にそっと揺れている。

 城崎がコーヒーを二つ置き、席に腰を下ろした。

「無理に話さなくていい。でも——
 今は、誰かの言葉を受け止めてほしい気がした」

 マグカップから立ちのぼる湯気が、淡く揺れる。

 

 莉子は少しだけ迷い、口を開いた。

「……昨日、過去に関わっていた人と話しました。
 それで、ひとつの区切りをつけました」

「そうですか」

 城崎はそれ以上踏み込まない。
 ただ、静かに頷く。

「痛かったけれど、間違ってはいないと思っています。
 前に進むために必要な言葉でした」

「“前に進む”という言葉を、自分で口にできている。
 それだけで、充分に強いですよ」

 その言い方は、慰めでも称賛でもなく——尊重だった。

 

 沈黙が落ちる。
 けれど、その沈黙は苦しくなかった。

 コーヒーの表面に店内の灯りが淡く揺れ、
 ガラス越しに、人の行き交う影が流れていく。

 

「歩く速度、速い方ですか」

 不意に、城崎が微笑を含んで尋ねた。

「え?」

「人生の話です。
 自分の歩幅で先へ進むタイプか、誰かに合わせて歩いてしまうタイプか」

 莉子は少しだけ考え、静かに答える。

「……今までは、誰かの速度に合わせていました。
 それが“正しい”と思い込んで」

「では、これからは変えてみましょう」

 城崎はゆっくりカップを置く。

「私は、あなたの歩幅に合わせます。
 急がなくていい。止まる日があってもいい。
 あなたが前を向くその速度で、隣を歩きます」

 告白ではない。
 約束でもない。

 ただ、寄り添うという意思を静かに差し出す言葉。

 

 莉子は視線を伏せ、唇をかすかに噛んだ。

「……ありがとう。
 でも、いまはまだ、誰かの隣に立つ自信がありません」

「分かっています」

 城崎は穏やかに微笑んだ。

「だから、“今はまだ”でいいんです。
 それでも隣にいる人間がいてもいい、ということだけ覚えておいてください」

 胸の奥に、温かくて、少し痛いものが広がる。

 

 ラウンジを出ると、午後の光が淡く差し込んでいた。
 ビルのガラス壁に、二人の影が静かに並ぶ。

 莉子はその影を一瞬見つめ、そっと息を吐いた。

(まだ、空席は消えていない。
 でも——空白のままでは、終わらせない)

 心の奥で、小さくそう呟く。

 

「会議室、戻りましょうか」

「はい。……歩幅を合わせて、ゆっくりと」

 城崎の言葉に、小さく微笑みがこぼれた。

 二人の足音が、静かに並び始める。

——まだ恋ではない。
だが、前へ進むための温度が、確かにそこに灯っていた。