扉が閉まる音は、驚くほど静かだった。
薄い空気の振動だけが、会議室の中に残っている。
蓮は、その場から動けずにいた。
(——綾香さんと、お幸せに)
彼女の声が、胸の奥で何度も反響する。
祝福の言葉。
それなのに、刃のように内側を切り裂いていく。
机の上に置いた指先が、知らず強く力をこめていた。
「……違う」
誰に届くでもない声が、低く零れる。
「俺は、誰とも……」
言葉は続かなかった。
喉の奥が熱くなり、声にならなかった。
ノックの音が響く。
「失礼します」
黒瀬が静かに入室し、蓮の表情を一瞥しただけで察したように口を閉じた。
「——終わりましたか」
「ああ……終わった」
短い答え。
それでも、言葉にした瞬間、胸の奥が軋む。
終わった、と言ったのは自分の方だ。
それでも、終わらせたかったわけじゃない。
黒瀬は数秒黙り、静かに告げる。
「祝福、ですか」
蓮の指先が止まる。
「……聞いていたのか」
「音は聞こえませんでした。ただ——表情で」
黒瀬は視線を伏せる。
「それで、どうなさいますか。
ここから先は、あなたの選択次第です」
蓮は目を閉じ、深く息を吸った。
(彼女は、俺の代わりに“終わり”を引き受けた)
自分の未熟さ、沈黙、選択。
そのすべての代償を、彼女ひとりが背負って別れを言った。
(それなのに、俺は……)
まだ、彼女を手放せていない。
「——綾香とは、歩かない」
静かに、しかし迷いなく口にした。
黒瀬の目がかすかに揺れる。
「そう、ですか」
「彼女は守る対象だった。それ以上でも、それ以下でもない。
……俺の心は、最初からひとりだけだ」
声が震える。
「たとえ、もう俺の隣に立たないとしても」
黒瀬は小さく息を吐いた。
「それでも、篠宮本部長は“祝福”を選びました」
「分かっている」
蓮は視線を落とす。
「だからこそ——踏み越えない」
その言葉には、苦い覚悟が滲んでいた。
「では、どうされますか」
黒瀬の問いは淡々としているのに、どこか温度があった。
蓮は窓の外を見た。
夜の街灯が滲み、遠くで微かな風の音が響く。
(俺は、欲望で動く男じゃない。
彼女の選択を踏みにじることはしない)
(……けれど)
想いだけは、簡単に消えてくれない。
「前に進むのは、俺じゃない。
——彼女だ」
静かに言い切る。
「俺にできるのは、ただ一つ。
彼女が傷つかない世界を、整えることだけだ」
それは、選ばれない愛の形。
黒瀬は深く頷く。
「承知しました。
これから先の後処理、私が担います」
「頼む」
それだけを告げ、蓮は椅子に背を預けた。
手のひらに残る微かな震えを、強く握り込む。
(お幸せに、か)
ゆっくりと目を閉じる。
(——幸せを願えるほど、手放せていない)
それでも、願わずにはいられなかった。
「莉子」
名前を呼ぶ声は、今度は空へ逃げず、胸の奥へ静かに沈んでいく。
(たとえ隣にいられなくても——
俺の愛は、ここで終わらない)
――それは、報われないまま続く一途だった。

