『嘘の浮気、真実の執着』 ――婚約破棄から始まる幼馴染たちの逆転愛

 夜のロビーは、深い静けさを湛えていた。
 高い天井に灯りが淡く反射し、遅くまで残る社員の足音が遠くで消えていく。

 エレベーターの前で立ち止まり、莉子はゆっくりと息を吐いた。
 一日の疲れと、言葉にできない重さが、胸の奥で静かに沈んでいる。

「……篠宮さん」

 背中越しに落ちた声に、指先がわずかに震えた。

 振り返ると、廊下の影の中に蓮が立っていた。
 距離は近くも遠くもない——けれど、その間に横たわるものは、あまりにも深い。

「突然すまない。
 少しだけ……話を、させてほしい」

 声は低く、無理に近づこうとはしていない。

 莉子は視線を伏せ、静かに答えた。

「……私に話す必要は、もうありません」

「それでも、伝えたいことがある」

 彼の声音は、どこまでも静かだった。

 

 二人はロビー脇の小会議室へ移動した。
 ガラス越しに見える街の灯りが、机の上に淡く揺れて落ちている。

 向かい合って座っても、手を伸ばせば触れられそうで——
 それでも、触れてはいけない距離だった。

「……あの夜、俺が何も言わなかった理由を、君は知らないままだ。
 その重さを、君ひとりに背負わせてしまっている」

 蓮の声は掠れていた。

「巻き込まれていた人がいた。
 君を危険から遠ざけるため、沈黙を選んだ。
 ——それが正しかったとは言えない。
 ただ、裏切りために黙ったわけじゃない」

 莉子は目を伏せ、膝の上で手を組む。

「謝罪や理由を聞いても、失われたものは戻らないわ」

「分かっている。
 それでも……誤解だけは、置き去りにしたくなかった」

 その言い方が、ひどく誠実で、ひどく残酷だった。

 

 静かな沈黙が落ちる。

 莉子は、ゆっくりと顔を上げた。

 胸の奥で何かがほどけ、同時に痛みが鋭く浮かび上がる。

「……ひとつだけ、言わせてください」

 声は震えていなかった。
 震えないように、必死に整えていた。

 蓮が、静かに頷く。

「ああ。聞く」

 莉子は息を吸い、ゆっくりと、その言葉を口にした。

「——綾香さんと、お幸せに」

 部屋の空気が、音もなく凍りついた。

 

 蓮の指先が、机の縁で止まる。

「……それは、違う。
 俺は——」

「違わなくて、いいんです」

 かぶせるように、莉子は静かに言った。

「あなたが誰と歩くのかは、もう私の選ぶことじゃない。
 でも……あの人は、あなたに救われた。
 なら、あなたの隣に立てるのは、私より、きっと——」

 言葉が、喉の奥で途切れる。

 痛みを押し込め、微笑を形作る。

「だから、どうか……幸せになってください。
 今度は、誰も傷つかない形で」

 それは祝福であり、
 同時に——最終的な別れの宣告だった。

 

 蓮は何も言わなかった。

 言葉を探しているのではない。
 言ってしまえば、彼女の決意を壊してしまうと知っている沈黙だった。

 その沈黙が、胸に深く刺さる。

 

 莉子はゆっくりと立ち上がる。

「これで、本当に終わりです」

 蓮の瞳が、苦しげに揺れた。

 それでも、彼は止めなかった。
 止める権利を、もう持っていないことを知っていたから。

「——ありがとう」

 ようやく絞り出された声は、祈りのように静かだった。

「君の明日が、どうか……穏やかであるように」

 返事はしなかった。

 代わりに、静かな会釈だけを残し、扉へ向かう。

 

 ドアノブに触れた瞬間、背後で微かな息の音が揺れた。

 名前は呼ばれない。
 呼んではいけない——互いに、分かっていた。

 扉が静かに閉じ、世界が二つに分かたれる。

 

(これでいい。
 ——これで、やっと前に進める)

 そう言い聞かせながら、胸の奥で泣いている自分から目を逸らした。

――祝福という名の別れだけが、静かに残っていた。