『嘘の浮気、真実の執着』 ――婚約破棄から始まる幼馴染たちの逆転愛

 西条グループ第本社ビルの最上階。
 遮音ガラスに囲まれた役員会議室は、夕暮れの光を受けて静かに黄金色へと染まりつつあった。磨き上げられた長卓の表面には、街の灯りが淡く揺れて映り込んでいる。

 その中央に、白い封筒が一枚。
 そして、その封筒を挟んで向かい合うのは——篠宮莉子と、九条蓮だった。

 空調の風が微かに天井を渡る。
 それ以外の音は、どこにもなかった。

「……ここまで来ても、何も言ってくれないのね」

 沈黙に耐えきれず、先に声を発したのは莉子だった。
 指先は膝の上で組まれ、爪が掌に食い込むほど強く握られているのに、声だけは崩れないよう丁寧に整えられている。

 蓮は真正面に座ったまま、視線を落とした。
 端正な横顔は疲れを滲ませながらも、やはり何一つ語らない。

「写真のこと……記事も、全部見ました。
 あなたが、あの人とホテルに入っていくところ」

 莉子の声は静かだ。
 静かすぎて、ひび割れた心の音が逆に響く。

「それでも、私は信じたかったの。
 “違うよ”って、ただ一言……あなたが言ってくれるって」

 室内に淡い夕陽が落ち、蓮の影を長く伸ばしていく。
 彼はその影に身を溶かすように、額へと手を当てた。

 そして——沈黙。

「どうして黙るの? 私に話せない理由があるの?
 それとも、本当に……」

 言葉が喉で止まる。
 “本当に裏切ったの?”
 その問いを口にした瞬間、何かが決定的に壊れてしまいそうで。

 蓮のまぶたが、わずかに震えた。

「……莉子」

 低く、名前だけがこぼれ落ちる。
 けれど、それ以上の言葉は続かない。

 胸の奥が、痛みに軋んだ。

「その人を、守りたいのね。
 だから、何も言わないのよね」

「違う——」

 蓮の声が、かすかに空気を揺らした。
 莉子の心臓が一瞬だけ跳ねる。

「違うなら、言って。
 “私じゃない”って、“愛してるのは私だ”って……それだけでいいの」

 窓の向こうで、街の灯りがひとつ、またひとつと瞬き始める。
 夜の境界が迫る中、彼だけが時間に取り残されたように動かない。

 長い沈黙。

 やがて、蓮は唇を結んだ。

「……わかった」

 短い言葉が落ちる。
 許しでも否定でもない、ただ終わりを告げる音。

 それが返事なのだと、理解した瞬間——
 呼吸が、胸の奥でひび割れた。

「……ええ。そう、でしょうね」

 莉子は微笑みを作った。
 綺麗に、崩れないように。

 封筒をそっと押し出す。
 封筒の上に影が二つ重なる。

「これで、終わりにしましょう。
 九条蓮さん。——婚約の解消に同意します」

 ペンを取る音が響く。
 金属が紙を擦る、乾いた音。

 さらり、と署名が走り、線が完成した。

 終わり。

 そのはずなのに、胸の奥にはまだ形を失わない痛みが残ったままだ。

 莉子は静かに立ち上がり、薬指の指輪を外す。
 机の上へと置かれた小さな金属音が、やけに大きく響いた。

「今まで、お世話になりました」

 それ以上言えば、涙が零れてしまう。
 だから、口を閉じ、背を向ける。

 ドアノブに触れた指先が冷たい。

 振り返らない。
 この男を、幼い頃からずっと好きだった自分に戻ってしまうから。

 扉を開いた、その瞬間——

「……莉子——」

 微かに呼ばれた名前が、夜気に溶けた。

 振り返らなかった。
 振り返れば、きっと泣いてしまうから。

 廊下に出た途端、世界がぼんやりと滲んだ。
 指輪を失った指先が、ひどく軽くて、ひどく寂しい。

(言ってほしかった。
 “違う”って——私だけを選ぶって)

 その願いごとだけを胸に沈めて、莉子は歩き出した。

――こうして、二人の物語は静かに崩れ始めた。