恋は接頭辞、放課後は図書館で

 私、望愛(のあ)。高校二年。
 鏡の前で前髪を一ミリ整えるより、教室で「今の私、見られてる?」を確認する回数のほうが多い。目立つのが好き。拍手も好き。
 でも、もっと好きなのは――誰かの「助かった」を、こっそり自分の胸にしまう瞬間だ。
 *
 月曜の朝。黒板の端に、私は小さく書いた。
 re-=もう一回
 un-=逆
 port=運ぶ
 「英単語って、分解すると筋が見えるよ」
 授業前の三分ミニ講座。勝手に始めたのに、なぜか許されている。たぶん先生も、赤点の山を見たくないから。
 友だちの紗季が、机を指でトントン叩きながら笑った。
 「望愛、今日も目立ってるね」
 「当たり前」
 「で、今日は誰を助けたいの?」
 「……そこまで見抜かないで」
 私がニヤリとした、そのとき。
 太陽みたいな男が、私の机の横に立った。
 陽生(ひなせ)。
 昼休みはバスケ部のボールを追い、休み時間は誰かを笑わせ、帰り道は街の犬にまで挨拶する。エネルギッシュなのに、話すと妙に落ち着いている人。
 「望愛。放課後、時間ある?」
 「あるけど。急にどうしたの?」
 陽生は英単語帳を机に置いた。ページの角が少し折れている。
 「英語の小テスト。前回、赤点ギリギリだった。次は落とせない」
 意外だった。陽生って、何でもできると思ってた。
 「任せて。私、英単語は“演じる派”だから」
 「演じる……?」
 私が両手を広げると、紗季が後ろから囁いた。
 「放課後デートで行く場所は? って、今の流れそうだよね」
 「ち、違うし!」
 顔が熱い。けど陽生は真顔で言った。
 「デートって言うなら、図書館がいい。静かで、集中できる」
 ……そう来たか。情熱と冷静が同居してる。
 *
 放課後。市立図書館は、古い木の匂いがした。階段の踊り場に夕日が斜めに差し込み、カーペットにオレンジの帯が伸びている。
 私たちは窓際の席に座った。机に単語帳を広げ、私はペンで大きく書く。
 re-=もう一回
 con-=一緒に
 spect=見る
 trans-=越えて
 tele-=遠く
 「語源って、単語の“骨格”なんだよ。覚えるより、組み立てる感じ」
 「骨格、いいな。俺、筋トレは得意だから」
 陽生が笑う。そこで私は立ち上がった。
 「じゃあ、開演します! 第一幕、スペクトくん登場!」
 私は本を両手で双眼鏡みたいに持ち、キョロキョロする。
 「スペクトくんは『見る』担当。spectacle(見世物)、inspect(中を見て調べる)、respect(よく見て大切にする)!」
 隣の席の中学生が振り向いた。司書さんが奥からこちらを見た。私は声をぐっと小さくする。
 「第二幕、re-ちゃん! “もう一回”の合図で戻ってくる」
 「replay、restart、review……」
 陽生が指でリズムを刻みながら言う。覚えが早い。
 「第三幕、con-くん。みんなを集めてくっつける」
 私は両手で単語カードを束ねる仕草をした。
 「connect、concentrate、conversation。con-がつくと『一緒に』の気配がある」
 「会話は一緒にするもの、か。たしかに」
 陽生の目がふっと柔らかくなる。
 私の“目立ちたい”が暴走しないよう、彼は空気を整えるのが上手い。笑わせるところは笑わせて、集中するところは集中する。熱さにブレーキがついている感じ。ずるい。
 そこへ、斜め向かいの席から小さな声が飛んだ。
 「すみません……それ、どういう意味ですか?」
 声の主は、同じ学校の一年生の女の子だった。机の上には英単語プリント。端っこに赤い丸が少ない。
 私は条件反射で背筋を伸ばした。ほら、見られてる。目立つ。最高……じゃない。今は違う。
 私は椅子を引いて近づいた。
 「どこが分からない?」
 「transportと、teleportが……」
 おお、良い質問。
 私はノートに書いた。
 trans-=越えて
 port=運ぶ
 tele-=遠く
 「transportは『越えて運ぶ』。電車やバスで運ぶイメージ。teleportは『遠くへ運ぶ』。瞬間移動って意味になる」
 「え、瞬間移動って、ほんとにそのままなんですね!」
 女の子の目が丸くなる。陽生が横で頷いた。
 「じゃあ、importとexportは?」
 私が聞くと、女の子は一瞬考えてから言った。
 「inが中、exが外……中に運ぶが輸入、外に運ぶが輸出?」
「正解!」
 私は小さく拍手した。女の子は顔をぱっと明るくする。
 その表情が、私の胸にすとんと落ちた。
 拍手より、こういうのが欲しかった。
 女の子が席に戻ったあと、陽生がぼそっと言う。
 「望愛、先生みたい」
 「私のほうが派手だけどね」
 「派手でもいい。分かりやすい」
 私は得意げに言いかけて、ふと彼の指先を見た。ペンの握りが、ほんの少しだけ不自然だった。力が入りすぎて、指の関節が白い。
 「陽生、字、書くの苦手?」
 「……ばれた?」
 陽生は苦笑いして、ノートを少し隠した。
 「速く書こうとすると、ぐちゃぐちゃになる。読むのは平気なんだけど、書くと遅い」
 軽い言い方の奥に、長い時間があった。みんなの前で笑うのが得意な人ほど、弱いところを笑いにできない。
 私は視線を落として、単語カードを引き寄せた。
 「じゃあ今日は“書かない勉強”に切り替えよ」
 「そんなの、できるの?」
 「できる。入口を増やす。目と手だけで覚えようとすると、つまずく人がいる。耳と口を使うと、助けになる」
 私はスマホの録音をオンにして、カードをめくりながら言う。
 「私が言う→陽生が言う→最後に二人でまとめて言う。三回」
 「三回?」
 「うん。しかも、一気にやりすぎない。十五分だけ集中して、五分休む。これ、タイマーで区切ると楽」
 「それ、バスケの練習みたいだな」
 「でしょ? 勉強も体の使い方がある」
 さらに、私は続ける。
 「もう一つ。間隔を空けて思い出すと、記憶が強くなる。今日覚えて、明日もう一回、三日後もう一回」
 「筋肉と同じで、回復を挟むと伸びる」
 「そう。陽生、例え上手い」
 「望愛の例えが派手だから、俺も派手になる」
 私たちは小さな声で英単語をリレーした。
 私が走り、陽生が受け取り、最後に二人でゴールする。
 図書館の静けさの中で、それは妙に楽しかった。
 休憩の五分、陽生が自販機で温かい缶のココアを買ってきた。
 「甘いの、いる?」
 「……いる」
 受け取ると、指先がじんわり温まる。
 缶には“COCOA”の文字。私は反射的に言った。
 「cocoaの語源は……」
 「出た、望愛の癖」
 陽生が笑って、私の言葉を遮った。私も笑う。司書さんが遠くで肩をすくめていた。
 *
 夕方。窓の外がオレンジから紫へ変わるころ、陽生がふいに言った。
 「望愛。来週、転校する」
 「……え?」
 頭の中で、単語のキャラたちが一斉に転んだ。
 「父さんの仕事で。急でさ。今日まで黙ってた」
 いつも誰より元気で、誰より落ち着いている陽生が、少しだけ視線を揺らした。
 私は言葉を探した。派手な励ましは、今は違う。
 「だから、次の小テストだけは落としたくない。ここで赤点取ったまま行くの、嫌だ」
 「……陽生らしい」
 私は笑ってみせた。喉の奥が痛い。
 陽生は、缶を握り直しながら言う。
 「俺、転校、これで三回目なんだ。最初は泣いた。次は怒った。三回目は……慣れたふり」
 熱い人の言葉なのに、静かだった。
 私は胸の奥がきゅっと縮むのを感じる。
 「慣れたふり、上手いね」
 「望愛も、目立つふり、上手い」
 「……ふりじゃないし」
 「でも、目立つのって、怖いときもあるだろ?」
 陽生の問いに、私は一瞬だけ黙った。
 みんなに見られるのは好き。でも、見られたぶんだけ、期待も来る。外したら恥ずかしい。だから私は、派手にして、軽くして、笑いに変える。
 「怖いよ。だから派手にする」
 言ってしまった。
 陽生は頷いた。
 「俺は逆。怖いとき、落ち着いたふりをする」
 その会話が、妙にしっくりきた。
 派手と静か。熱と冷静。ふりで守りながら、本当は似ている。
 そのとき、司書さんが近づいてきた。
 「あなたたち、さっきから楽しそうね。声は小さいから、叱りはしないわ」
 え、叱られない?
 司書さんは続けた。
 「面白い覚え方。私も学生の頃、語源に助けられた。よかったら、これ」
 差し出されたのは、古い語源辞典だった。表紙の角が丸くなっている。
 「貸出カード、私が処理するわ。閉館までに戻してね」
 私は、思わず頭を下げた。
 「ありがとうございます!」
 目立つために大声を出したわけじゃない。
 辞典をめくると、紙がさらっと鳴った。
 見慣れた単語が、見慣れない過去を持っている。意味の根っこが見えると、世界が少しだけ広がる。
 その広がりが、いまの私には救いだった。
 閉館のチャイムが鳴る。私たちは辞典を返して外へ出た。
 冬の空気が、頬をきゅっと締めた。
 「最後に、放課後デートっぽい場所、行っていい?」
 陽生が言う。今度は少し照れた顔で。
 「……図書館以上に、デートっぽい場所ってあるの?」
 「ある。屋上」
 首をかしげる私に、陽生は指を一本立てた。
 「図書館の屋上、解放されてる。階段を上がると、町が全部見える」
 屋上に出ると、街灯が点りはじめていた。遠くの川が、細い銀色に光る。
 陽生が息を吸い、吐いた。
 「ここ、気に入ってるんだ。転校しても、たぶん忘れない場所」
 私は手すりに手を置いた。冷たさが掌から心臓へ上がってくる。
 「望愛、さ。目立ちたいって顔に書いてある」
 「……書いてないし」
 「じゃあ読もう。望愛の語源」
 陽生が笑う。私もつられて笑う。
 「望愛は、たぶん“望む”と“愛”。誰かに望まれて、愛されたい。だから光る」
 
 陽生は続けた。
 「でも今日、目立つためじゃなくて、俺を前に進めるために動いてた。そういうの、かっこいい」
 胸の奥がふっと軽くなった。
 私が欲しかったのは拍手じゃない。“役に立てた”という確かな手触りだ。
 「陽生。転校しても、困ったら“演じる”といいよ。単語でも、数学の公式でも。意味をキャラにして、会話させる」
 「うん。向こうでもやる。誰かが困ってたら、教える」
 彼の声には、熱さと落ち着きが同じ温度で入っていた。
 陽生がポケットから小さな紙を出した。
 「これ、今日のまとめ」
 手渡されたのは、しおりサイズのメモ。
 re-:もう一回
 con-:一緒に
 spect:見る
 trans-:越えて
 tele-:遠く
 覚えるより、組み立てる
 十五分集中→五分休み
 今日・明日・三日後に思い出す
 「字、丁寧じゃん」
 「時間かけた。遅くてもいいって、さっき言ったろ?」
 私は笑って、しおりを胸の前に抱えた。
 そのとき、下の通りで信号が青になり、人の流れが一斉に動いた。自転車のライト、コンビニの明かり、誰かの笑い声。
 目の前に広がるのは、ただの街の夕方。
 でも私には、それが「幸せの光景」に見えた。
 誰かが前へ進む瞬間が、光って見える。
 「ねえ、陽生。次に会うとき、私、もっと上手く教えるよ」
 「期待してる。俺も、もっと上手く伝える」
 私たちは並んで、屋上の手すりにもたれた。
 寒いのに、心はあたたかかった。
 帰り道、紗季からメッセージが来た。
 『放課後デート、どうだった?』
 私は返信する。
 『図書館。静かで、うるさかった(心が)』
 送信した瞬間、陽生が横で笑った。
 「それ、意味わかる」
 「でしょ?」
 笑いながら、私は気づく。
 目立つための光じゃなくて、誰かのための光に、私はなりたかったんだって。