「芽生、今日の清掃当番だよね」
背中から声が飛んできて、私は反射的に足を止めた。廊下の角、ちょうど“抜け道”に入ろうとしたところだったのに。
振り向くと、奏太がいた。学年一、生真面目。髪も制服もきちんとしていて、言い方は淡々。でも、人を追い詰める感じがない。むしろ、いつも自分のほうを小さく見積もっている。
「当番表は“掃除のあと、先生にプリント届ける”って書いてあるじゃん。私、いまから先生に届ける係」
私は胸を張る。ルールの隙間は、探したもん勝ち。
奏太は、廊下の掲示板を指でトンと叩いた。
「そのプリント、来週の回収用。今日じゃない。……芽生は、逃げるが勝ち派だよね」
「勝てるところは、勝ちに行く」
「勝ち方が、せこい」
むっとした瞬間、校舎の奥から冷たい風が吹いた。誰もいないはずの三階。窓は閉まっているのに、制服の袖がひらりと揺れる。
「……今の、なに?」
私が言うより早く、奏太が視線を向けた先に、古い木の扉があった。
“数学準備室”。鍵穴の周りだけ、やけに擦れている。
私は思い出してしまった。
放課後にその扉の近くを通ると、チョークの音が聞こえるって噂。
誰もいない教室で、黒板に式が勝手に書かれるって噂。
「確認しておきたいんだ。今日、施錠点検の当番で」
奏太は小さく笑った。冗談にしては、顔が真面目すぎる。
「手伝って。終わったら、清掃、半分やる」
「ほんと?」
「うん。約束は守る」
……半分やってくれるなら。
私は“抜け道”の方向を捨てて、扉の前に立った。
奏太がノブを回す。古い蝶番が、ぐぅ、と呻いた。
中は、薬品棚の匂いと、濡れた黒板消しの匂いが混ざっていた。机の上には、折れたチョークがいくつも転がっている。
「さっと見て、出よう」
奏太が足を踏み入れた瞬間。
バタン。
背後の扉が勝手に閉まり、鍵がカチリと鳴った。
「え、今、閉めた?」
「触ってない」
暗い室内で、黒板の前だけがぼんやり明るくなった。
さっきまで真っ黒だったはずの板に、白い線が走る。
キィ、キィ。
誰もいないのに、チョークが動く音。
黒板に、数字が書かれていく。
――2-1-3
その下に、小さく、ひらがなで。
――のいちご
「……なに、これ」
声が上ずった。私は怖いのに、怖くないふりをしたくて、わざと大きく息を吸う。
「ほら、奏太。リアリストなんでしょ。説明して」
「できたらしてる」
黒板の数字が、にゅう、と伸びて矢印になる。
2-1-3 → ?
そして、黒板の端に、丸い字で追加される。
――“抜け道”は、並べ替えで見つかる。
「並べ替え……?」
奏太が、“のいちご”を見て、眉を寄せた。
「文字を、順番で読む?」
「2番目、1番目、3番目……」
私は指で空をなぞる。“の(1) い(2) ち(3) ご(4)”。
「2番目は“い”。1番目は“の”。3番目は“ち”。……『いのち』」
口に出した瞬間、黒板の表面がぞわっと波打った。
カン。
どこかで、ベルみたいな音。
黒板に、次の文字が浮かぶ。
――命を、どうする?
「どうするって……」
私は笑おうとして、ひきつった。
奏太が、肩をすくめる。
「“守る”か、“捨てる”か。二択っぽい」
「捨てるって書いたら、どうなるのよ」
「やめよう。余計なことは考えない!」
黒板の下から、黒板消しがふわりと浮いた。
そして、私たちの頭上へ。
「うわっ!」
私は咄嗟にしゃがむ。奏太も身をかがめたが、次の瞬間、黒板消しは私の頭に——
ポン。
軽く当たっただけで落ちた。粉はほとんど出ない。まるで、肩を叩くみたいに。
「……脅したいの? 励ましたいの?」
私が口を尖らせると、奏太が小さく息を吐いた。
「先生っぽい。怒り方が、体育の先生じゃない」
黒板の文字がまた変わる。
――逃げるが勝ち。だが、逃げない日もある。
「……私への当てつけ?」
「たぶん、“芽生への”だね」
次に書かれたのは、算数の文章題だった。
――放課後、数学準備室に二人が入った。
――出口は一つ。鍵は外側。
――二人が協力すれば、開く確率は上がる。
――一人が逃げ道だけ探すと、確率は下がる。
――さて、芽生はどっち?
「名指しじゃん!」
私は黒板に向かって叫んだ。
「私、逃げ道探すけど、協力もするってば!」
返事のかわりに、黒板の隅に小さな式が書かれる。
――協力=手を貸す + 手を借りる
「……手を、借りる?」
奏太が私のほうを見た。暗がりでも分かる。彼は平気な顔をしてるけど、指先が少し震えてる。
「芽生、手」
「え」
「怖いなら、素直に言って。俺も、ちょっと怖い」
そういうところが、ずるい。
私はふっと笑って、わざと偉そうに言った。
「じゃあ、私が先に貸してあげる。奏太、手」
手のひらが触れた瞬間、黒板がふわっと明るくなった。
冷たかった室内が、少しだけ温かく感じる。
――愛に触れる時間
その文字を見て、私は目を丸くした。
「ちょ、いまそれ書く? 空気読めてなくない?」
奏太が、耳まで赤くして目をそらす。
「黒板に言って」
カタン、とどこかで音がして、棚の奥から古い出席簿が一冊滑ってきた。
表紙には、擦れた字で“3年2組 数学”。
最後のページに、短いメモが挟まっていた。
――のいちご 2-1-3
――命
――逃げる子は、守れない。
――守りたい子は、逃げない。
私は喉がきゅっとなった。
「……これ、誰の字」
奏太が、メモの裏を見た。
「名前……『白石先生』。十年前、地震で校舎が揺れたとき、ここで生徒をかばって……亡くなったって聞いた」
背中に、ひやりとしたものが走った。
でも、その冷たさは、怖さだけじゃない。誰かの、残った気持ちの温度みたいだった。
黒板に、最後の問題が現れる。
――鍵を開ける言葉を書け。
――答えは、君たちの中にある。
「言葉……」
私は手を握り直す。指の間に、奏太の体温がある。
抜け道は、外にあると思ってた。けど、いまは違う気がした。
私はチョークを拾い、黒板に書く。
――守る
奏太が、隣に続けて書いた。
――一緒に
黒板が、ぱっと白く光った。
そして、鍵の音。
カチリ。
扉が、ゆっくり開いた。
廊下の蛍光灯の明かりが差し込んで、私たちは同時に息を吐いた。
「……生きて出られた」
私が言うと、奏太が苦笑する。
「大げさ。でも、ちょっと泣きそうだった」
「私も」
ふと、振り返ると、黒板の上に最後の一文が残っていた。
――逃げるが勝ちの日もある。
――だが、守る日は、君が選べ。
私は、その字に向かって小さく頭を下げた。
「……白石先生。今日は、逃げませんでした。たぶん、明日も」
隣で奏太も、同じように頭を下げる。
階段を降りる途中、私はわざと明るい声を出した。
「ねえ、奏太。清掃、半分やってくれるんだよね?」
「もちろん。約束した」
「じゃあ私は……残り半分を、抜け道なしでやる」
「成長だね」
「まだ言う?」
掃除用具室の前で、私は一度だけ、奏太の手をぎゅっと握った。
怖いのは、もう少しだけ残ってる。
でもその怖さの中に、ちゃんと温かいものが混ざっていた。
それがたぶん——私が初めて、堂々と見つけた“抜け道”だった。
背中から声が飛んできて、私は反射的に足を止めた。廊下の角、ちょうど“抜け道”に入ろうとしたところだったのに。
振り向くと、奏太がいた。学年一、生真面目。髪も制服もきちんとしていて、言い方は淡々。でも、人を追い詰める感じがない。むしろ、いつも自分のほうを小さく見積もっている。
「当番表は“掃除のあと、先生にプリント届ける”って書いてあるじゃん。私、いまから先生に届ける係」
私は胸を張る。ルールの隙間は、探したもん勝ち。
奏太は、廊下の掲示板を指でトンと叩いた。
「そのプリント、来週の回収用。今日じゃない。……芽生は、逃げるが勝ち派だよね」
「勝てるところは、勝ちに行く」
「勝ち方が、せこい」
むっとした瞬間、校舎の奥から冷たい風が吹いた。誰もいないはずの三階。窓は閉まっているのに、制服の袖がひらりと揺れる。
「……今の、なに?」
私が言うより早く、奏太が視線を向けた先に、古い木の扉があった。
“数学準備室”。鍵穴の周りだけ、やけに擦れている。
私は思い出してしまった。
放課後にその扉の近くを通ると、チョークの音が聞こえるって噂。
誰もいない教室で、黒板に式が勝手に書かれるって噂。
「確認しておきたいんだ。今日、施錠点検の当番で」
奏太は小さく笑った。冗談にしては、顔が真面目すぎる。
「手伝って。終わったら、清掃、半分やる」
「ほんと?」
「うん。約束は守る」
……半分やってくれるなら。
私は“抜け道”の方向を捨てて、扉の前に立った。
奏太がノブを回す。古い蝶番が、ぐぅ、と呻いた。
中は、薬品棚の匂いと、濡れた黒板消しの匂いが混ざっていた。机の上には、折れたチョークがいくつも転がっている。
「さっと見て、出よう」
奏太が足を踏み入れた瞬間。
バタン。
背後の扉が勝手に閉まり、鍵がカチリと鳴った。
「え、今、閉めた?」
「触ってない」
暗い室内で、黒板の前だけがぼんやり明るくなった。
さっきまで真っ黒だったはずの板に、白い線が走る。
キィ、キィ。
誰もいないのに、チョークが動く音。
黒板に、数字が書かれていく。
――2-1-3
その下に、小さく、ひらがなで。
――のいちご
「……なに、これ」
声が上ずった。私は怖いのに、怖くないふりをしたくて、わざと大きく息を吸う。
「ほら、奏太。リアリストなんでしょ。説明して」
「できたらしてる」
黒板の数字が、にゅう、と伸びて矢印になる。
2-1-3 → ?
そして、黒板の端に、丸い字で追加される。
――“抜け道”は、並べ替えで見つかる。
「並べ替え……?」
奏太が、“のいちご”を見て、眉を寄せた。
「文字を、順番で読む?」
「2番目、1番目、3番目……」
私は指で空をなぞる。“の(1) い(2) ち(3) ご(4)”。
「2番目は“い”。1番目は“の”。3番目は“ち”。……『いのち』」
口に出した瞬間、黒板の表面がぞわっと波打った。
カン。
どこかで、ベルみたいな音。
黒板に、次の文字が浮かぶ。
――命を、どうする?
「どうするって……」
私は笑おうとして、ひきつった。
奏太が、肩をすくめる。
「“守る”か、“捨てる”か。二択っぽい」
「捨てるって書いたら、どうなるのよ」
「やめよう。余計なことは考えない!」
黒板の下から、黒板消しがふわりと浮いた。
そして、私たちの頭上へ。
「うわっ!」
私は咄嗟にしゃがむ。奏太も身をかがめたが、次の瞬間、黒板消しは私の頭に——
ポン。
軽く当たっただけで落ちた。粉はほとんど出ない。まるで、肩を叩くみたいに。
「……脅したいの? 励ましたいの?」
私が口を尖らせると、奏太が小さく息を吐いた。
「先生っぽい。怒り方が、体育の先生じゃない」
黒板の文字がまた変わる。
――逃げるが勝ち。だが、逃げない日もある。
「……私への当てつけ?」
「たぶん、“芽生への”だね」
次に書かれたのは、算数の文章題だった。
――放課後、数学準備室に二人が入った。
――出口は一つ。鍵は外側。
――二人が協力すれば、開く確率は上がる。
――一人が逃げ道だけ探すと、確率は下がる。
――さて、芽生はどっち?
「名指しじゃん!」
私は黒板に向かって叫んだ。
「私、逃げ道探すけど、協力もするってば!」
返事のかわりに、黒板の隅に小さな式が書かれる。
――協力=手を貸す + 手を借りる
「……手を、借りる?」
奏太が私のほうを見た。暗がりでも分かる。彼は平気な顔をしてるけど、指先が少し震えてる。
「芽生、手」
「え」
「怖いなら、素直に言って。俺も、ちょっと怖い」
そういうところが、ずるい。
私はふっと笑って、わざと偉そうに言った。
「じゃあ、私が先に貸してあげる。奏太、手」
手のひらが触れた瞬間、黒板がふわっと明るくなった。
冷たかった室内が、少しだけ温かく感じる。
――愛に触れる時間
その文字を見て、私は目を丸くした。
「ちょ、いまそれ書く? 空気読めてなくない?」
奏太が、耳まで赤くして目をそらす。
「黒板に言って」
カタン、とどこかで音がして、棚の奥から古い出席簿が一冊滑ってきた。
表紙には、擦れた字で“3年2組 数学”。
最後のページに、短いメモが挟まっていた。
――のいちご 2-1-3
――命
――逃げる子は、守れない。
――守りたい子は、逃げない。
私は喉がきゅっとなった。
「……これ、誰の字」
奏太が、メモの裏を見た。
「名前……『白石先生』。十年前、地震で校舎が揺れたとき、ここで生徒をかばって……亡くなったって聞いた」
背中に、ひやりとしたものが走った。
でも、その冷たさは、怖さだけじゃない。誰かの、残った気持ちの温度みたいだった。
黒板に、最後の問題が現れる。
――鍵を開ける言葉を書け。
――答えは、君たちの中にある。
「言葉……」
私は手を握り直す。指の間に、奏太の体温がある。
抜け道は、外にあると思ってた。けど、いまは違う気がした。
私はチョークを拾い、黒板に書く。
――守る
奏太が、隣に続けて書いた。
――一緒に
黒板が、ぱっと白く光った。
そして、鍵の音。
カチリ。
扉が、ゆっくり開いた。
廊下の蛍光灯の明かりが差し込んで、私たちは同時に息を吐いた。
「……生きて出られた」
私が言うと、奏太が苦笑する。
「大げさ。でも、ちょっと泣きそうだった」
「私も」
ふと、振り返ると、黒板の上に最後の一文が残っていた。
――逃げるが勝ちの日もある。
――だが、守る日は、君が選べ。
私は、その字に向かって小さく頭を下げた。
「……白石先生。今日は、逃げませんでした。たぶん、明日も」
隣で奏太も、同じように頭を下げる。
階段を降りる途中、私はわざと明るい声を出した。
「ねえ、奏太。清掃、半分やってくれるんだよね?」
「もちろん。約束した」
「じゃあ私は……残り半分を、抜け道なしでやる」
「成長だね」
「まだ言う?」
掃除用具室の前で、私は一度だけ、奏太の手をぎゅっと握った。
怖いのは、もう少しだけ残ってる。
でもその怖さの中に、ちゃんと温かいものが混ざっていた。
それがたぶん——私が初めて、堂々と見つけた“抜け道”だった。


