台所の時計が「カチ、カチ」と言うたび、私の心拍も二倍速になる。
溶かしたチョコに生クリームを混ぜ、つやが出たところで火を止める。冷ます時間を逆算して、型に流し込む。昨日の夜に材料を並べた自分を褒めたい。段取り命、それが私——夏希だ。
だけど今日は、段取りだけじゃ足りない日。
相手が、颯斗だから。
颯斗は右耳の聴こえが弱い。補聴器をつけているけど、教室のざわめきや、背中から投げられる言葉は取りこぼすことがある。
それでも彼は、いつも先回りして気づく。配布プリントが一枚足りないとき、さっと予備を先生に取りに行く。誰かが輪に入り損ねたら、自然に隣へ寄って席をつくる。
気配りって、意志でやるものだと、彼を見て知った。
私が彼に惹かれた理由を、うまく説明できる気はしない。
ただ、放課後までに渡す。今日一日で決める。短期決戦は得意だ。
——そう言い聞かせて、私は固まったチョコを箱に詰めた。
小さなメモも添える。
『放課後、図書室前で。話したいことがある』
そして、練習した手話の絵。簡単な「ありがとう」を丸い線で描いた。文字にすると照れくさいから、絵に逃げた。
*
登校してすぐ、廊下の角で颯斗を見つけた。
彼はスマホを机代わりにして、友だちの話を文字にしていた。最近流行りの文字起こしアプリだ。精度はそこそこだけど、妙に笑える誤変換が出る。
「でさ、昨日の数学、まじ無理だった」
友だちが言う。
スマホ画面には——『でさ、昨日の麦茶、まじ無理だった』。
颯斗が肩を揺らして笑う。友だちも笑う。私も笑う。
颯斗がふと顔を上げた。目が合う。
心臓が、「カチ、カチ」を飛び越えて「ドン、ドン」になった。
彼は口の形で「おはよう」と言った。
私は反射で頷き、手を振ってしまう。やるべきは、笑顔で、はっきり口を動かして挨拶なのに。
私の段取りが、朝一で崩れた。
*
作戦はこうだ。
昼休み、みんなが売店や中庭に散るタイミングで、颯斗の机に箱を入れる。放課後、図書室前で会う。渡した事実があるから逃げられない。完璧。
ところが昼休み直前、担任の矢野先生が言った。
「今日は席替えの最終確認するぞー。荷物、いったん全部机の上に出して!」
席替え。
聞いてない。いや、連絡プリントにあった気もする。でも私は「チョコ」の文字に脳内を占領されて読み飛ばした。
机の中身を全部出すとか、最悪だ。私の箱がバレる。私の心が死ぬ。
私は瞬時に判断した。
チョコは今、渡す。
今ならまだみんな机の上。むしろ紛れ込ませれば、バレない可能性がある。
私は箱を持って立ち上がった。視線が集まる前に、颯斗の机へ——
「夏希! それ、配布用のプリント、職員室から取ってきてくれ!」
矢野先生の声が背中から飛んだ。反射的に「はい!」と返事をして、私は手に持っていた箱を……近くの机の中へ、ポンと入れてしまった。
……今、私は何をした?
プリントを取りに行き、戻ってきたとき、私は自分の席に戻ろうとして、足が止まった。
机の配置が微妙に変わっている。席替えの最終確認が、もう始まっていた。
さっき箱を入れた机——どれだっけ。
そして決定打。
矢野先生が机の上の荷物を見回して言った。
「机の中に残ってた落とし物、回収箱に入れとくぞー。チョコとか入ってたら溶けるから、すぐ持ち主名乗れよー」
チョコ。
私のチョコ。
回収箱。
私は頭の中で、ガラスが割れる音を聞いた。
*
昼休み。
私は走った。廊下を、階段を、職員室の前を、走った。
回収箱は保健室前の棚に置かれることが多い。掃除委員のルールだ。私はその棚を目指した。
息を切らして棚を見る。
あった。段ボール箱が二つ。
片方に「落とし物」とマジックで書いてある。
私は箱を開け——
筆箱。靴下。謎のハンドクリーム。シャーペン。消しゴム。給食袋。
チョコがない。
「ない……」
口に出すと、余計に現実味が増した。
背後から声がする。
「夏希、何探してるの?」
振り向くと、颯斗が立っていた。彼は耳元を軽く指して、次に私の口元を見てくる。「口、動かして」と言いたい仕草。
私は唇を大げさに動かした。
「……だいじな、はこ……茶色い、はこ……」
我ながら怪しすぎる。まるで茶色い箱に人生が詰まっている人。
颯斗はスマホを差し出した。文字起こしアプリが起動している。
私が話すと画面に出る仕組みだ。
『だいじな はこ ちゃいろい はこ』
画面は、なぜか『大事な 箱 チャイロイ 箱』と妙にカタカナで煽ってきた。
颯斗が笑いそうになって、でも真面目な顔で打ち込む。
『誰かに渡すもの? 一緒に探す?』
優しい。
優しすぎて、胸が痛い。
私は正直に打ち込めなかった。
『うん、ちょっと。探す。大丈夫』
颯斗は私の言葉を尊重するみたいに、深追いしないで頷いた。
その頷きが、逆に私の焦りを加速させた。今すぐ見つけないと、彼に「一緒に探そう」と言われる。言われたら、言うしかない。大本命だって。
私は、短期決戦モードに入った。
*
まず情報収集。
私は教室に戻り、掃除委員の佳奈に聞いた。
「今日、落とし物回収した?」
「したよ。あ、茶色い箱なら、矢野先生が職員室に持ってった」
「……茶色い箱!?」
「え、そんなに反応する? 中身は知らないけど、宛名もなくてさー」
宛名。そりゃない。私が入れたのは、メモも箱の中だ。外側は無地。誰のものか分からない。
私は職員室へ向かった。だが職員室の入り口に「会議中」の札。
矢野先生の声が中から聞こえる。ドアは閉まっている。
私は拳を握った。
会議が終わるまで待つ? いや、待てない。チョコは溶ける。しかも、もし先生が開けたら終わる。私の人生も溶ける。
そのとき背後で、車輪のような音がした。
振り向くと、用務員さんが台車を押している。段ボールが積まれている。
「すみません! それ、どこへ?」
私は勢いで聞いた。
「理科準備室だよ。教材の入れ替えでね」
用務員さんが言う。理科準備室。
私の頭にひらめきが走った。職員室が会議中なら、先生は落とし物を別室に避難させるかもしれない。溶けるから。
私は足を進め——
いや、これは推測。推測で突撃しても空振りの可能性がある。
でも、短期決戦は、当たるまで走ることだ。
*
理科準備室の扉をそっと開ける。
薬品の匂い。棚。段ボール。
そして——茶色い箱が、机の上にひとつ。
「……あった!」
私は箱に飛びついた。
その瞬間、背後で扉が閉まる音がした。反射で振り向く。
颯斗が立っていた。
え、なんで。
彼は困ったように眉を下げ、手のひらを見せる。『ついてきた』という合図。
私がさっきから走り回っているのを見て、気になったのだろう。気配りの鬼め。
私は箱を抱えて固まった。
今、ここで渡す? いや、場所が最悪。理科準備室、薬品、棚、ホルマリン。ロマンが死ぬ。
颯斗がスマホを差し出す。
『見つかった? よかった』
私は頷き、口を動かす。
「うん、見つかった。……でも、これは……」
続きが言えない。
颯斗は私の言葉を待つ。焦らせない距離で。
私の中の段取りが崩壊して、別の何かが立ち上がる。
逃げたくない、という気持ちだ。
私は一貫して進める姿勢を持つ——そうだったじゃないか。
私は箱を胸の前に出した。
手が震える。
「颯斗に。渡したかった」
口を大きく動かして、はっきり言う。
颯斗の目が丸くなる。
息が止まった気がした。
そのとき、廊下から足音と声が近づく。
「理科準備室、誰か入ってるのかー?」
矢野先生だ。
私は反射で、颯斗の腕を掴んで棚の影へ引っ張った。
棚と棚の間、ちょうど一人分の隙間。二人で入ると、肩が触れる。
私の鼓動が、相手に伝わりそうだった。
矢野先生が扉を開け、ひょいと顔を出す。
「ん? 誰もいないか……」
棚の影で、私は颯斗と顔を寄せたまま固まっていた。
颯斗の視線が、私の目に刺さる。
見つめ合う二人。
……いや、感想を言ってる場合じゃない。
私は必死で口を閉じる。息まで音になりそうだ。
矢野先生が箱を確認し、「この落とし物、誰のだよ」と独り言を言って、また扉を閉めた。
静寂。
颯斗が、肩を震わせた。
笑っている。声を出さない笑い。私も、つられて笑いそうになる。いや、笑ったらバレる。
颯斗が指で「ごめん」と書く仕草をして、次に私の手元の箱を指す。
『それ、チョコ?』
私は観念した。
箱のふたを少し開け、中を見せる。ハート型のチョコが並んでいる。中央に一つだけ、小さな星の飾りを乗せたやつ。気合いの一粒。
颯斗の表情が、ふっと柔らかくなる。
だけど次の瞬間、彼は自分の耳元を軽く叩き、首をかしげた。
「聴こえないかもしれない」「ここだと口の形が暗くて見えない」
そんな意味だと、私は理解した。
私はポケットからメモを取り出した。
さっきのメッセージと、下手な手話の絵。
颯斗はそれを読み、目を細めた。
そして、指先で、私の描いた「ありがとう」をなぞるように触れた。
『練習したんだ』
スマホ画面に出た文字が、なぜか私の胸を熱くする。
「……うん」
私は口を動かす。声は出さない。
「颯斗のこと、ちゃんと見て話したかった」
颯斗は、少し驚いた顔をして、それから笑った。
いつもの気配りの笑顔じゃない。もっと、無防備な笑顔。
彼がスマホに打ち込む。
『正直、みんな優しい。でも、優しくされすぎると恥ずかしい』
『大きい声でゆっくり言われると、子ども扱いみたいで、ちょっと苦手』
『夏希は、慌ててても、ちゃんと顔を向けてくれる』
私は目の奥がつんとした。
私は短期決戦で突っ走るタイプだ。言い切って、終わらせて、次へ行く。
でも颯斗は、相手のペースを尊重する人だ。今日みたいに、私が追い込まれていても、無理に踏み込まない。
私は、目を逸らさずに口を動かす。
「尊重してくれるところ、好き」
言えた。
段取りは崩れたけど、一貫性は守った。
颯斗は一瞬固まり、次に私の手をそっと取った。
そして、私の手のひらに、指でゆっくり文字を書く。
小指がくすぐったい。
『す』
『き』
私は息を呑んだ。
手のひらが熱い。
彼は照れたように笑い、箱を指さす。
『放課後、図書室前。行く』
私は頷いた。
この棚の影から出たら、何事もなかった顔をする。そう決めた。
*
放課後。
図書室前の廊下は静かで、窓から夕陽が差し込んでいた。
颯斗が先に来ていた。廊下の掲示板を眺めているふりをしながら、私を見つけると、口の形で「こっち」と言う。
私は近づき、箱を差し出した。
「改めて。……これ、颯斗に」
口をはっきり動かす。
颯斗は受け取り、ふたを開けた。
中央の星付きチョコを見て、目がキラッとした。子どもみたいで、可愛い。
彼がスマホに打ち込む。
『星のやつ、特別?』
「うん。大本命用」
言った瞬間、私の顔が熱くなる。
颯斗は声を出さずに笑い、次に指で「待って」と合図した。
カバンから、小さな紙袋を出す。
中には、手作りのクッキー。形が……三角?
スマホ画面に文字が出る。
『昨日の麦茶、まじ無理だった』
『だから三角にした。あの誤変換、忘れられない』
私は吹き出した。
颯斗も肩を揺らして笑う。
笑って、笑って、ふっと静かになる。
目が合う。今度は棚の影じゃない。逃げ場のない、真正面。
見つめ合う二人。
今度は、ちゃんと味わえる。
颯斗が手話で「ありがとう」をした。私の下手な絵より、ずっときれいな動き。
私はぎこちなく真似をする。指が絡まって失敗する。
颯斗がまた笑い、私の手を取って、正しい形に直した。
指先が触れるたび、胸の奥がくすぐったい。
そのとき、図書室の扉が開いて、司書の先生が顔を出した。
「廊下でいちゃいちゃしない。静かに!」
私は顔が真っ赤になり、颯斗は口を手で隠して笑った。
怒られたのに、嬉しい。
颯斗がスマホに打ち込む。
『夏希は短期決戦得意だよね』
『でも、これからは、長めでもいい?』
私は一瞬迷って、でもすぐ頷いた。
一貫して進める。今度は、二人で。
「うん。ゆっくりでも、進めよう」
颯斗は「OK」と親指を立てた。
私はその親指に、自分の親指を軽く当てた。
大本命チョコの行方は、ちゃんとここに落ち着いた。
溶かしたチョコに生クリームを混ぜ、つやが出たところで火を止める。冷ます時間を逆算して、型に流し込む。昨日の夜に材料を並べた自分を褒めたい。段取り命、それが私——夏希だ。
だけど今日は、段取りだけじゃ足りない日。
相手が、颯斗だから。
颯斗は右耳の聴こえが弱い。補聴器をつけているけど、教室のざわめきや、背中から投げられる言葉は取りこぼすことがある。
それでも彼は、いつも先回りして気づく。配布プリントが一枚足りないとき、さっと予備を先生に取りに行く。誰かが輪に入り損ねたら、自然に隣へ寄って席をつくる。
気配りって、意志でやるものだと、彼を見て知った。
私が彼に惹かれた理由を、うまく説明できる気はしない。
ただ、放課後までに渡す。今日一日で決める。短期決戦は得意だ。
——そう言い聞かせて、私は固まったチョコを箱に詰めた。
小さなメモも添える。
『放課後、図書室前で。話したいことがある』
そして、練習した手話の絵。簡単な「ありがとう」を丸い線で描いた。文字にすると照れくさいから、絵に逃げた。
*
登校してすぐ、廊下の角で颯斗を見つけた。
彼はスマホを机代わりにして、友だちの話を文字にしていた。最近流行りの文字起こしアプリだ。精度はそこそこだけど、妙に笑える誤変換が出る。
「でさ、昨日の数学、まじ無理だった」
友だちが言う。
スマホ画面には——『でさ、昨日の麦茶、まじ無理だった』。
颯斗が肩を揺らして笑う。友だちも笑う。私も笑う。
颯斗がふと顔を上げた。目が合う。
心臓が、「カチ、カチ」を飛び越えて「ドン、ドン」になった。
彼は口の形で「おはよう」と言った。
私は反射で頷き、手を振ってしまう。やるべきは、笑顔で、はっきり口を動かして挨拶なのに。
私の段取りが、朝一で崩れた。
*
作戦はこうだ。
昼休み、みんなが売店や中庭に散るタイミングで、颯斗の机に箱を入れる。放課後、図書室前で会う。渡した事実があるから逃げられない。完璧。
ところが昼休み直前、担任の矢野先生が言った。
「今日は席替えの最終確認するぞー。荷物、いったん全部机の上に出して!」
席替え。
聞いてない。いや、連絡プリントにあった気もする。でも私は「チョコ」の文字に脳内を占領されて読み飛ばした。
机の中身を全部出すとか、最悪だ。私の箱がバレる。私の心が死ぬ。
私は瞬時に判断した。
チョコは今、渡す。
今ならまだみんな机の上。むしろ紛れ込ませれば、バレない可能性がある。
私は箱を持って立ち上がった。視線が集まる前に、颯斗の机へ——
「夏希! それ、配布用のプリント、職員室から取ってきてくれ!」
矢野先生の声が背中から飛んだ。反射的に「はい!」と返事をして、私は手に持っていた箱を……近くの机の中へ、ポンと入れてしまった。
……今、私は何をした?
プリントを取りに行き、戻ってきたとき、私は自分の席に戻ろうとして、足が止まった。
机の配置が微妙に変わっている。席替えの最終確認が、もう始まっていた。
さっき箱を入れた机——どれだっけ。
そして決定打。
矢野先生が机の上の荷物を見回して言った。
「机の中に残ってた落とし物、回収箱に入れとくぞー。チョコとか入ってたら溶けるから、すぐ持ち主名乗れよー」
チョコ。
私のチョコ。
回収箱。
私は頭の中で、ガラスが割れる音を聞いた。
*
昼休み。
私は走った。廊下を、階段を、職員室の前を、走った。
回収箱は保健室前の棚に置かれることが多い。掃除委員のルールだ。私はその棚を目指した。
息を切らして棚を見る。
あった。段ボール箱が二つ。
片方に「落とし物」とマジックで書いてある。
私は箱を開け——
筆箱。靴下。謎のハンドクリーム。シャーペン。消しゴム。給食袋。
チョコがない。
「ない……」
口に出すと、余計に現実味が増した。
背後から声がする。
「夏希、何探してるの?」
振り向くと、颯斗が立っていた。彼は耳元を軽く指して、次に私の口元を見てくる。「口、動かして」と言いたい仕草。
私は唇を大げさに動かした。
「……だいじな、はこ……茶色い、はこ……」
我ながら怪しすぎる。まるで茶色い箱に人生が詰まっている人。
颯斗はスマホを差し出した。文字起こしアプリが起動している。
私が話すと画面に出る仕組みだ。
『だいじな はこ ちゃいろい はこ』
画面は、なぜか『大事な 箱 チャイロイ 箱』と妙にカタカナで煽ってきた。
颯斗が笑いそうになって、でも真面目な顔で打ち込む。
『誰かに渡すもの? 一緒に探す?』
優しい。
優しすぎて、胸が痛い。
私は正直に打ち込めなかった。
『うん、ちょっと。探す。大丈夫』
颯斗は私の言葉を尊重するみたいに、深追いしないで頷いた。
その頷きが、逆に私の焦りを加速させた。今すぐ見つけないと、彼に「一緒に探そう」と言われる。言われたら、言うしかない。大本命だって。
私は、短期決戦モードに入った。
*
まず情報収集。
私は教室に戻り、掃除委員の佳奈に聞いた。
「今日、落とし物回収した?」
「したよ。あ、茶色い箱なら、矢野先生が職員室に持ってった」
「……茶色い箱!?」
「え、そんなに反応する? 中身は知らないけど、宛名もなくてさー」
宛名。そりゃない。私が入れたのは、メモも箱の中だ。外側は無地。誰のものか分からない。
私は職員室へ向かった。だが職員室の入り口に「会議中」の札。
矢野先生の声が中から聞こえる。ドアは閉まっている。
私は拳を握った。
会議が終わるまで待つ? いや、待てない。チョコは溶ける。しかも、もし先生が開けたら終わる。私の人生も溶ける。
そのとき背後で、車輪のような音がした。
振り向くと、用務員さんが台車を押している。段ボールが積まれている。
「すみません! それ、どこへ?」
私は勢いで聞いた。
「理科準備室だよ。教材の入れ替えでね」
用務員さんが言う。理科準備室。
私の頭にひらめきが走った。職員室が会議中なら、先生は落とし物を別室に避難させるかもしれない。溶けるから。
私は足を進め——
いや、これは推測。推測で突撃しても空振りの可能性がある。
でも、短期決戦は、当たるまで走ることだ。
*
理科準備室の扉をそっと開ける。
薬品の匂い。棚。段ボール。
そして——茶色い箱が、机の上にひとつ。
「……あった!」
私は箱に飛びついた。
その瞬間、背後で扉が閉まる音がした。反射で振り向く。
颯斗が立っていた。
え、なんで。
彼は困ったように眉を下げ、手のひらを見せる。『ついてきた』という合図。
私がさっきから走り回っているのを見て、気になったのだろう。気配りの鬼め。
私は箱を抱えて固まった。
今、ここで渡す? いや、場所が最悪。理科準備室、薬品、棚、ホルマリン。ロマンが死ぬ。
颯斗がスマホを差し出す。
『見つかった? よかった』
私は頷き、口を動かす。
「うん、見つかった。……でも、これは……」
続きが言えない。
颯斗は私の言葉を待つ。焦らせない距離で。
私の中の段取りが崩壊して、別の何かが立ち上がる。
逃げたくない、という気持ちだ。
私は一貫して進める姿勢を持つ——そうだったじゃないか。
私は箱を胸の前に出した。
手が震える。
「颯斗に。渡したかった」
口を大きく動かして、はっきり言う。
颯斗の目が丸くなる。
息が止まった気がした。
そのとき、廊下から足音と声が近づく。
「理科準備室、誰か入ってるのかー?」
矢野先生だ。
私は反射で、颯斗の腕を掴んで棚の影へ引っ張った。
棚と棚の間、ちょうど一人分の隙間。二人で入ると、肩が触れる。
私の鼓動が、相手に伝わりそうだった。
矢野先生が扉を開け、ひょいと顔を出す。
「ん? 誰もいないか……」
棚の影で、私は颯斗と顔を寄せたまま固まっていた。
颯斗の視線が、私の目に刺さる。
見つめ合う二人。
……いや、感想を言ってる場合じゃない。
私は必死で口を閉じる。息まで音になりそうだ。
矢野先生が箱を確認し、「この落とし物、誰のだよ」と独り言を言って、また扉を閉めた。
静寂。
颯斗が、肩を震わせた。
笑っている。声を出さない笑い。私も、つられて笑いそうになる。いや、笑ったらバレる。
颯斗が指で「ごめん」と書く仕草をして、次に私の手元の箱を指す。
『それ、チョコ?』
私は観念した。
箱のふたを少し開け、中を見せる。ハート型のチョコが並んでいる。中央に一つだけ、小さな星の飾りを乗せたやつ。気合いの一粒。
颯斗の表情が、ふっと柔らかくなる。
だけど次の瞬間、彼は自分の耳元を軽く叩き、首をかしげた。
「聴こえないかもしれない」「ここだと口の形が暗くて見えない」
そんな意味だと、私は理解した。
私はポケットからメモを取り出した。
さっきのメッセージと、下手な手話の絵。
颯斗はそれを読み、目を細めた。
そして、指先で、私の描いた「ありがとう」をなぞるように触れた。
『練習したんだ』
スマホ画面に出た文字が、なぜか私の胸を熱くする。
「……うん」
私は口を動かす。声は出さない。
「颯斗のこと、ちゃんと見て話したかった」
颯斗は、少し驚いた顔をして、それから笑った。
いつもの気配りの笑顔じゃない。もっと、無防備な笑顔。
彼がスマホに打ち込む。
『正直、みんな優しい。でも、優しくされすぎると恥ずかしい』
『大きい声でゆっくり言われると、子ども扱いみたいで、ちょっと苦手』
『夏希は、慌ててても、ちゃんと顔を向けてくれる』
私は目の奥がつんとした。
私は短期決戦で突っ走るタイプだ。言い切って、終わらせて、次へ行く。
でも颯斗は、相手のペースを尊重する人だ。今日みたいに、私が追い込まれていても、無理に踏み込まない。
私は、目を逸らさずに口を動かす。
「尊重してくれるところ、好き」
言えた。
段取りは崩れたけど、一貫性は守った。
颯斗は一瞬固まり、次に私の手をそっと取った。
そして、私の手のひらに、指でゆっくり文字を書く。
小指がくすぐったい。
『す』
『き』
私は息を呑んだ。
手のひらが熱い。
彼は照れたように笑い、箱を指さす。
『放課後、図書室前。行く』
私は頷いた。
この棚の影から出たら、何事もなかった顔をする。そう決めた。
*
放課後。
図書室前の廊下は静かで、窓から夕陽が差し込んでいた。
颯斗が先に来ていた。廊下の掲示板を眺めているふりをしながら、私を見つけると、口の形で「こっち」と言う。
私は近づき、箱を差し出した。
「改めて。……これ、颯斗に」
口をはっきり動かす。
颯斗は受け取り、ふたを開けた。
中央の星付きチョコを見て、目がキラッとした。子どもみたいで、可愛い。
彼がスマホに打ち込む。
『星のやつ、特別?』
「うん。大本命用」
言った瞬間、私の顔が熱くなる。
颯斗は声を出さずに笑い、次に指で「待って」と合図した。
カバンから、小さな紙袋を出す。
中には、手作りのクッキー。形が……三角?
スマホ画面に文字が出る。
『昨日の麦茶、まじ無理だった』
『だから三角にした。あの誤変換、忘れられない』
私は吹き出した。
颯斗も肩を揺らして笑う。
笑って、笑って、ふっと静かになる。
目が合う。今度は棚の影じゃない。逃げ場のない、真正面。
見つめ合う二人。
今度は、ちゃんと味わえる。
颯斗が手話で「ありがとう」をした。私の下手な絵より、ずっときれいな動き。
私はぎこちなく真似をする。指が絡まって失敗する。
颯斗がまた笑い、私の手を取って、正しい形に直した。
指先が触れるたび、胸の奥がくすぐったい。
そのとき、図書室の扉が開いて、司書の先生が顔を出した。
「廊下でいちゃいちゃしない。静かに!」
私は顔が真っ赤になり、颯斗は口を手で隠して笑った。
怒られたのに、嬉しい。
颯斗がスマホに打ち込む。
『夏希は短期決戦得意だよね』
『でも、これからは、長めでもいい?』
私は一瞬迷って、でもすぐ頷いた。
一貫して進める。今度は、二人で。
「うん。ゆっくりでも、進めよう」
颯斗は「OK」と親指を立てた。
私はその親指に、自分の親指を軽く当てた。
大本命チョコの行方は、ちゃんとここに落ち着いた。


