チャイロイ箱の大本命

 台所の時計が「カチ、カチ」と言うたび、私の心拍も二倍速になる。
 溶かしたチョコに生クリームを混ぜ、つやが出たところで火を止める。冷ます時間を逆算して、型に流し込む。昨日の夜に材料を並べた自分を褒めたい。段取り命、それが私——夏希だ。

 だけど今日は、段取りだけじゃ足りない日。
 相手が、颯斗だから。

 颯斗は右耳の聴こえが弱い。補聴器をつけているけど、教室のざわめきや、背中から投げられる言葉は取りこぼすことがある。
 それでも彼は、いつも先回りして気づく。配布プリントが一枚足りないとき、さっと予備を先生に取りに行く。誰かが輪に入り損ねたら、自然に隣へ寄って席をつくる。
 気配りって、意志でやるものだと、彼を見て知った。

 私が彼に惹かれた理由を、うまく説明できる気はしない。
 ただ、放課後までに渡す。今日一日で決める。短期決戦は得意だ。

 ——そう言い聞かせて、私は固まったチョコを箱に詰めた。
 小さなメモも添える。
『放課後、図書室前で。話したいことがある』
 そして、練習した手話の絵。簡単な「ありがとう」を丸い線で描いた。文字にすると照れくさいから、絵に逃げた。

     *

 登校してすぐ、廊下の角で颯斗を見つけた。
 彼はスマホを机代わりにして、友だちの話を文字にしていた。最近流行りの文字起こしアプリだ。精度はそこそこだけど、妙に笑える誤変換が出る。

「でさ、昨日の数学、まじ無理だった」
 友だちが言う。
 スマホ画面には——『でさ、昨日の麦茶、まじ無理だった』。
 颯斗が肩を揺らして笑う。友だちも笑う。私も笑う。

 颯斗がふと顔を上げた。目が合う。
 心臓が、「カチ、カチ」を飛び越えて「ドン、ドン」になった。

 彼は口の形で「おはよう」と言った。
 私は反射で頷き、手を振ってしまう。やるべきは、笑顔で、はっきり口を動かして挨拶なのに。
 私の段取りが、朝一で崩れた。

     *

 作戦はこうだ。
 昼休み、みんなが売店や中庭に散るタイミングで、颯斗の机に箱を入れる。放課後、図書室前で会う。渡した事実があるから逃げられない。完璧。

 ところが昼休み直前、担任の矢野先生が言った。

「今日は席替えの最終確認するぞー。荷物、いったん全部机の上に出して!」

 席替え。
 聞いてない。いや、連絡プリントにあった気もする。でも私は「チョコ」の文字に脳内を占領されて読み飛ばした。
 机の中身を全部出すとか、最悪だ。私の箱がバレる。私の心が死ぬ。

 私は瞬時に判断した。
 チョコは今、渡す。
 今ならまだみんな机の上。むしろ紛れ込ませれば、バレない可能性がある。

 私は箱を持って立ち上がった。視線が集まる前に、颯斗の机へ——

「夏希! それ、配布用のプリント、職員室から取ってきてくれ!」

 矢野先生の声が背中から飛んだ。反射的に「はい!」と返事をして、私は手に持っていた箱を……近くの机の中へ、ポンと入れてしまった。

 ……今、私は何をした?

 プリントを取りに行き、戻ってきたとき、私は自分の席に戻ろうとして、足が止まった。
 机の配置が微妙に変わっている。席替えの最終確認が、もう始まっていた。
 さっき箱を入れた机——どれだっけ。

 そして決定打。
 矢野先生が机の上の荷物を見回して言った。

「机の中に残ってた落とし物、回収箱に入れとくぞー。チョコとか入ってたら溶けるから、すぐ持ち主名乗れよー」

 チョコ。

 私のチョコ。

 回収箱。

 私は頭の中で、ガラスが割れる音を聞いた。

     *

 昼休み。
 私は走った。廊下を、階段を、職員室の前を、走った。
 回収箱は保健室前の棚に置かれることが多い。掃除委員のルールだ。私はその棚を目指した。

 息を切らして棚を見る。
 あった。段ボール箱が二つ。
 片方に「落とし物」とマジックで書いてある。

 私は箱を開け——
 筆箱。靴下。謎のハンドクリーム。シャーペン。消しゴム。給食袋。

 チョコがない。

「ない……」

 口に出すと、余計に現実味が増した。

 背後から声がする。
「夏希、何探してるの?」

 振り向くと、颯斗が立っていた。彼は耳元を軽く指して、次に私の口元を見てくる。「口、動かして」と言いたい仕草。
 私は唇を大げさに動かした。

「……だいじな、はこ……茶色い、はこ……」
 我ながら怪しすぎる。まるで茶色い箱に人生が詰まっている人。

 颯斗はスマホを差し出した。文字起こしアプリが起動している。
 私が話すと画面に出る仕組みだ。

『だいじな はこ ちゃいろい はこ』
 画面は、なぜか『大事な 箱 チャイロイ 箱』と妙にカタカナで煽ってきた。

 颯斗が笑いそうになって、でも真面目な顔で打ち込む。

『誰かに渡すもの? 一緒に探す?』

 優しい。
 優しすぎて、胸が痛い。
 私は正直に打ち込めなかった。

『うん、ちょっと。探す。大丈夫』

 颯斗は私の言葉を尊重するみたいに、深追いしないで頷いた。
 その頷きが、逆に私の焦りを加速させた。今すぐ見つけないと、彼に「一緒に探そう」と言われる。言われたら、言うしかない。大本命だって。

 私は、短期決戦モードに入った。

     *

 まず情報収集。
 私は教室に戻り、掃除委員の佳奈に聞いた。

「今日、落とし物回収した?」
「したよ。あ、茶色い箱なら、矢野先生が職員室に持ってった」
「……茶色い箱!?」
「え、そんなに反応する? 中身は知らないけど、宛名もなくてさー」

 宛名。そりゃない。私が入れたのは、メモも箱の中だ。外側は無地。誰のものか分からない。

 私は職員室へ向かった。だが職員室の入り口に「会議中」の札。
 矢野先生の声が中から聞こえる。ドアは閉まっている。

 私は拳を握った。
 会議が終わるまで待つ? いや、待てない。チョコは溶ける。しかも、もし先生が開けたら終わる。私の人生も溶ける。

 そのとき背後で、車輪のような音がした。
 振り向くと、用務員さんが台車を押している。段ボールが積まれている。

「すみません! それ、どこへ?」
 私は勢いで聞いた。

「理科準備室だよ。教材の入れ替えでね」
 用務員さんが言う。理科準備室。
 私の頭にひらめきが走った。職員室が会議中なら、先生は落とし物を別室に避難させるかもしれない。溶けるから。

 私は足を進め——
 いや、これは推測。推測で突撃しても空振りの可能性がある。
 でも、短期決戦は、当たるまで走ることだ。

     *

 理科準備室の扉をそっと開ける。
 薬品の匂い。棚。段ボール。
 そして——茶色い箱が、机の上にひとつ。

「……あった!」

 私は箱に飛びついた。
 その瞬間、背後で扉が閉まる音がした。反射で振り向く。

 颯斗が立っていた。

 え、なんで。
 彼は困ったように眉を下げ、手のひらを見せる。『ついてきた』という合図。
 私がさっきから走り回っているのを見て、気になったのだろう。気配りの鬼め。

 私は箱を抱えて固まった。
 今、ここで渡す? いや、場所が最悪。理科準備室、薬品、棚、ホルマリン。ロマンが死ぬ。

 颯斗がスマホを差し出す。

『見つかった? よかった』

 私は頷き、口を動かす。

「うん、見つかった。……でも、これは……」

 続きが言えない。
 颯斗は私の言葉を待つ。焦らせない距離で。

 私の中の段取りが崩壊して、別の何かが立ち上がる。
 逃げたくない、という気持ちだ。
 私は一貫して進める姿勢を持つ——そうだったじゃないか。

 私は箱を胸の前に出した。
 手が震える。

「颯斗に。渡したかった」
 口を大きく動かして、はっきり言う。

 颯斗の目が丸くなる。
 息が止まった気がした。

 そのとき、廊下から足音と声が近づく。
「理科準備室、誰か入ってるのかー?」
 矢野先生だ。

 私は反射で、颯斗の腕を掴んで棚の影へ引っ張った。
 棚と棚の間、ちょうど一人分の隙間。二人で入ると、肩が触れる。
 私の鼓動が、相手に伝わりそうだった。

 矢野先生が扉を開け、ひょいと顔を出す。
「ん? 誰もいないか……」

 棚の影で、私は颯斗と顔を寄せたまま固まっていた。
 颯斗の視線が、私の目に刺さる。

 見つめ合う二人。

 ……いや、感想を言ってる場合じゃない。
 私は必死で口を閉じる。息まで音になりそうだ。

 矢野先生が箱を確認し、「この落とし物、誰のだよ」と独り言を言って、また扉を閉めた。

 静寂。

 颯斗が、肩を震わせた。
 笑っている。声を出さない笑い。私も、つられて笑いそうになる。いや、笑ったらバレる。

 颯斗が指で「ごめん」と書く仕草をして、次に私の手元の箱を指す。

『それ、チョコ?』

 私は観念した。
 箱のふたを少し開け、中を見せる。ハート型のチョコが並んでいる。中央に一つだけ、小さな星の飾りを乗せたやつ。気合いの一粒。

 颯斗の表情が、ふっと柔らかくなる。
 だけど次の瞬間、彼は自分の耳元を軽く叩き、首をかしげた。
 「聴こえないかもしれない」「ここだと口の形が暗くて見えない」
 そんな意味だと、私は理解した。

 私はポケットからメモを取り出した。
 さっきのメッセージと、下手な手話の絵。

 颯斗はそれを読み、目を細めた。
 そして、指先で、私の描いた「ありがとう」をなぞるように触れた。

『練習したんだ』

 スマホ画面に出た文字が、なぜか私の胸を熱くする。

「……うん」
 私は口を動かす。声は出さない。
「颯斗のこと、ちゃんと見て話したかった」

 颯斗は、少し驚いた顔をして、それから笑った。
 いつもの気配りの笑顔じゃない。もっと、無防備な笑顔。

 彼がスマホに打ち込む。

『正直、みんな優しい。でも、優しくされすぎると恥ずかしい』
『大きい声でゆっくり言われると、子ども扱いみたいで、ちょっと苦手』
『夏希は、慌ててても、ちゃんと顔を向けてくれる』

 私は目の奥がつんとした。
 私は短期決戦で突っ走るタイプだ。言い切って、終わらせて、次へ行く。
 でも颯斗は、相手のペースを尊重する人だ。今日みたいに、私が追い込まれていても、無理に踏み込まない。

 私は、目を逸らさずに口を動かす。

「尊重してくれるところ、好き」

 言えた。
 段取りは崩れたけど、一貫性は守った。

 颯斗は一瞬固まり、次に私の手をそっと取った。
 そして、私の手のひらに、指でゆっくり文字を書く。
 小指がくすぐったい。

『す』
『き』

 私は息を呑んだ。
 手のひらが熱い。

 彼は照れたように笑い、箱を指さす。

『放課後、図書室前。行く』

 私は頷いた。
 この棚の影から出たら、何事もなかった顔をする。そう決めた。

     *

 放課後。
 図書室前の廊下は静かで、窓から夕陽が差し込んでいた。

 颯斗が先に来ていた。廊下の掲示板を眺めているふりをしながら、私を見つけると、口の形で「こっち」と言う。
 私は近づき、箱を差し出した。

「改めて。……これ、颯斗に」
 口をはっきり動かす。

 颯斗は受け取り、ふたを開けた。
 中央の星付きチョコを見て、目がキラッとした。子どもみたいで、可愛い。

 彼がスマホに打ち込む。

『星のやつ、特別?』

「うん。大本命用」
 言った瞬間、私の顔が熱くなる。

 颯斗は声を出さずに笑い、次に指で「待って」と合図した。
 カバンから、小さな紙袋を出す。
 中には、手作りのクッキー。形が……三角?

 スマホ画面に文字が出る。

『昨日の麦茶、まじ無理だった』
『だから三角にした。あの誤変換、忘れられない』

 私は吹き出した。
 颯斗も肩を揺らして笑う。

 笑って、笑って、ふっと静かになる。
 目が合う。今度は棚の影じゃない。逃げ場のない、真正面。

 見つめ合う二人。
 今度は、ちゃんと味わえる。

 颯斗が手話で「ありがとう」をした。私の下手な絵より、ずっときれいな動き。
 私はぎこちなく真似をする。指が絡まって失敗する。

 颯斗がまた笑い、私の手を取って、正しい形に直した。
 指先が触れるたび、胸の奥がくすぐったい。

 そのとき、図書室の扉が開いて、司書の先生が顔を出した。

「廊下でいちゃいちゃしない。静かに!」

 私は顔が真っ赤になり、颯斗は口を手で隠して笑った。
 怒られたのに、嬉しい。

 颯斗がスマホに打ち込む。

『夏希は短期決戦得意だよね』
『でも、これからは、長めでもいい?』

 私は一瞬迷って、でもすぐ頷いた。
 一貫して進める。今度は、二人で。

「うん。ゆっくりでも、進めよう」

 颯斗は「OK」と親指を立てた。
 私はその親指に、自分の親指を軽く当てた。

 大本命チョコの行方は、ちゃんとここに落ち着いた。