「大野さん、お久しぶりです。そして娘が大変お世話になりました」
長い黒髪の女性との会話が終わったのを見計らって、中年のご夫婦が大野店長に話しかけてきた。
「まあ! 桑子さん、お久しぶりです……ごめんなさい。ご夫妻には真っ先にお詫びしなければならないことがありましたね。……本当にあの時は、騙すような真似をしてしまって……いや、ホントに騙しちゃって……」
「いえいえ、とんでもない! 確かに、後になって娘から話を聞いて腰を抜かすほどびっくりしました……でも、そうしていただいたからこそ、今のエミがあると思っています」
「そう言っていただけると、いくぶん心の荷が降ります。でも、実際にエミちゃんと向きあってくれたのは、そこにいる今日の花嫁さんですから、お祝いの言葉をかけてあげてくださいね」
そう言って大野店長は、こっちを見て手を振った。エミのご両親は店長に会釈をし、僕たち、というよりスミレに近づく。いつの間にか、エミがご両親の背後につけている。
「スミレさん、ヨウさん。このたびはご結婚おめでとうございます」
「ご丁寧に、ありがとうございます」
僕たちは頭を下げる。
「それから……」
エミのお父さんが言葉を続けようとすると、エミがそれをさえぎった。
「パパ、わかってるよね! 余計なことは言わないのよ」
もともと目力の強いエミが、いつもに増して鋭い視線で父親に訴える。「……ああ、わかっているよ」
娘を手で制し、再び僕らに向き直って言葉を続ける。
「わが家にお二人から結婚披露パーティーの招待状をいただいて、真っ先に娘から釘を刺されましてね。絶対お詫びをしたり、暗い話をしちゃいけないって。それから、若がえ、イテテ!……約束しないと連れて行かないって。」
お父さんが言葉を中断したのは、エミにお尻をつねられたからだ。エミパパは苦笑いして頭を掻き、背後では娘が腕組みをして、わざとそっぽを向いている。
エミの母親が替わる。
「でも、お礼だけは言わせてください……スミレさん、ヨウさん、エミに出会ってくれて、ありがとうございます。エミの友だちになってくれて、本当にありがとうございます」
ご夫婦は揃って深々と頭を下げた。その後ろでライトブルーのパーティードレスを着飾ったエミが歯を見せて笑いながら、僕らにピースサインを送っている。
エミはご両親を大野店長の立っている方に再び誘導したあと、僕たちに近づいてきた。
「スミレ、いやスミレさん、ご結婚おめでとう」
「ありがとう……でも、スミレでいいわよ」
「あの……スミレの結婚相手は僕なんだけど?」
「あら、そうだったわね。じゃあ、ついでにおめでとう」
僕とエミのやりとりを聞いて、スミレはクスクスと笑う。
「もうひとつ、ヨウに言っておくとね、アンタにはこの花嫁さんは、もったいなさ過ぎ!」
そばでグラスを傾けていた大学のサークル「笑かせ屋」のOB連中が『そうだそうだ!』と加勢する。
僕が言うのもなんだけど、こんなやりとりをにこやかに眺めているスミレは、本当に綺麗だ。
アイボリー色のマーメイドドレスは、スカートを引きずらない丈のシンプルなデザインで、オフショルダーの首や肩に亜麻色の美しい髪が揺れる。
「当店が全力で人魚のお姫様の美しさを引き立てました!」
パーティーが始まる前、ヘアサロン、アルレッキーノの大野店長が自慢げに会場にスミレを連れてきた。僕と目が合い、少し照れるスミレ。
ロンドン郊外からわざわざ孫娘のお祝いにかけつけた、スミレの母方のお婆さんは、会場に佇んでいる彼女を一目見るなり、言葉を失い、涙を浮かべた。そして彼女を抱き、僕には理解不能な早口の英語で褒めちぎった。かと思うとしきりにスマホで写真を撮ってはSNSか何かアップしていた。大丈夫だろうか?
僕は完全に引き立て役だ。パーティーの前、笑かせ屋OBの連中からは、いっそクラウンの恰好をすればいいじゃんと言われたが、それは勘弁してもらって、紺ブレザーにグレーのパンツという無難な服装で出席している。
このパーティー会場は、ヘアサロン・アルレッキーノの常連さんでスミレが担当している、神田碧さんの叔父が営むお店だ。アオイさんはさっき大野店長と話していた綺麗な黒髪の女性。スミレがアオイさんの予約を受け持った時、近々結婚することと、こじんまりとしたパーティー会場を探していることを話したら、お祝いの言葉とともに、よかったら叔父の店を使ってやってくれませんかと申し出てくれた。
町田駅からやや離れた住宅街にある一軒屋のレストランで、普段はワインとカレーとコーヒーを出すお店だそうだ。そのメニューの頭文字をとって、お店の名前は『Wakako』。奥さんの名前でもあるらしい。
下見方々、スミレと僕とでランチの時間にお邪魔したが、カレーを出す店とは思えない佇まいで、天井が高く欧風な造り。デザインや空気感はスミレの家に通じるものがある。
アオイさんは、このお店を手伝いながらも演奏活動をしているプロのピアニストで、今日のパーティを音楽で引き立ててくれている。何と、彼女の演奏仲間である、ヴァイオリンのスイさん、ヴィオラのルリさん、チェロのアサギさんとともに、贅沢にもピアノと弦楽のカルテットで会場を心地よい音色で満たしてくれている。立食形式で参加者が気軽にお話ができる時間にしたい、そんなスミレのリクエストに応えて、アオイさんの叔父さんは、ささやかだけど和気あいあいとしたパーティーの場づくりをしてくれた。
今日、来てくださったメンバーは……
スミレの母方の祖母と、彼女にイギリスから付き添ってくれたスミレの従妹。そして岩手に住んでいるスミレの父方の祖父母。
ウチの両親と姉。姉からも『あんたが何でこんな素敵なお嫁さんと一緒になれるのか不思議でならない、まったく理解できないわ』と言われた。
エミとご両親。エミからは、自分のお父さん、お母さんとスミレを会わせたいとの要望があり、スミレもそれを喜んだ。
ヘアサロン・アルレッキーノの大橋店長とオールスタッフ。常連のお客さんからも、ぜひお祝いしたいとの要望があったようだが、すごい人数になりそうなので、今日とは別にお店でプチ・パーティを開くことにしたそうだ。不思議なことに、僕はそちらに招待されていない。
大学のサークル『笑かせ屋』で一緒に活動した先輩、後輩。このパーティは特に肩肘の張った式次第も余興もないが、ヘアサロンのスタッフさんたちと話し込んでなんかいないで、自分たちの使命を思い出し、彼らが場を盛り上げてくれることを期待している。
そして。
このお店自慢の大きな一枚板のカウンターの上に家族写真を飾り、スミレのご両親にはそこから参加してもらっている。取り分けた料理とともに、お二人が好きだった白ワインとロゼのスパークリングワインがカウンターに載せられている。
エミが、鮮やかなブルーの液体が入ったロンググラスを手に戻ってきた。
「エミ、それアルコールは入ってない?」
「ホントはアルコール入りのカクテルらしいけど、特別にノンアルで作ってもらったよ。ここの店長のご説明によりますと……ピーチシロップとブルーシロップとグレープフルーツジュースのカクテルでございます」
エミは十八歳。まだお酒を飲める年齢ではないのでスミレは心配している。あ、年齢のことで思い出した。
「エミ、高校卒業と専門学校の入学、おめでとう」
「お、やっと思い出してくれたか」
僕のグラスとカチンと合わせ、ブルーのジュースを一口飲み、エミはニヒヒと笑う。
エミはこの春、無事高校を卒業し、江戸川区にある専門学校に進学し、水族館への就職を目指す。
「『無事卒業』は余計だろ!」
いかん、心の中を読まれた。
「まあ、専門学校を出ても水族館で働けるかはぜんぜんわかんないけどね」
とつぶやきながらも、遠くを見つめる彼女の目には、本気さがうかがわれる。
「エミちゃんのドレス、可愛い」
スミレがエミのスカートを撫でながら褒める。彼女の本気度がここにも現れているのか、マリンブルーの鮮やかなドレスだ。そういえは、ドリンクもブルーだ。
「ありがとう……海のクラゲをイメージしてみました」
「ほんと、そんな雰囲気ね。オーダーして作ったの?」
「あはは、ネタバレすると、Amazonで割と安く買えた」
エミは、ブルーのグラスを再び僕に差し出す。
「そういえば、あんたもようやっと、まともな仕事に就いたんでしょう? おめでとう」
「あ、ありがとう」
僕は持っていたワイングラスをコツンとぶつける。
『ようやっと、まともな』は余計だが、僕は指定の大学院を修了し、心理療法士の資格を取った。その後、病院で実習し、まだ弟子入りといった段階だが、今年の春から心理カウンセラーとしての一歩を踏み出すことなった。
「あんたが勉強ばっかしてたから、スミレの婚期が遅れたじゃないのさ……イテッ!」
さすがにこれには、スミレからゲンコツが飛んだ。まあ、確かに、戸籍上はスミレの年齢は三十歳だが。年齢のことを迂闊に口にしたら、スミレだけでなく全世界の女性を敵に回すことになる。早くこの話題を終わらせたい。
「まああんたさ、お世辞にもスパダリとは言えないけどさ、今日の花嫁さんにとっては世界一の旦那様だね。そのことだけは自慢していいよ」
「なんだい、『スパダリ』って?」何かの略語だろうか?
「いいよ、わかんなくったって」
そんな会話を横で聞いていたスミレが、ほんのりと頬を赤らめた。
その後エミは、スミレと居候時代のなつかし話をした後、ご両親のいる一角に戻った。
それを待っていたかのように、僕たち二人が立っているカウンター脇に、多くの人がお祝いの言葉を届けに来てくれた。
イタリアンとフレンチ折衷の綺麗で美味しい料理。初めて出会った人々が打ち解けて話せるお店の雰囲気。
そして、その空気を創り出してくれる素敵なピアノと弦楽アンサンブル。
曲目として選ばれたのは、チャップリンの映画で生み出された名曲。
ライムライト、テリーのテーマ。
街の灯、The flower girl。
そして、モダンタイムスのスマイル。
我が「笑かせ屋」のOBは、その音楽に会わせ、パントマイムを演じる。
先輩が、マジックもアレンジし、一輪のバラを手元に出現させ、スミレのお婆さまにプレゼントした。お婆さまは早口英語で礼を言い、先輩にキスをした。彼にとって、今夜一番の思い出だろう。
今は、スミレの部屋のベッドの中にいる。
大学院を終えてからは、僕もスミレの家に引っ越し、居候させてもらっていた。
「今夜から、ここは『私たちの家』なんだから。遠慮しないで。気兼ねなく使ってね」
「うん、ありがとう」
暗闇の中でスミレが僕を見つめているのを感じる。
一言欲しそうだ。
「今日は楽しかったね。僕たちの仲間が、みんなでお祝いしてくれた」
「ほんと。すごくいい時間。素敵な時間だった」
「でも疲れちゃったね。ずっと立ちっぱなしで、ずっと喋りっぱなしで」
「ほんと。疲れたね……でも……まだ大丈夫よ」
そして僕を見つめ続ける。その意味はわかっている。
僕は彼女を抱き寄せ、唇を重ねる。
その瞬間。
部屋は、ほとんどまっ暗なのに、柔らかな光に包まれたような気がした。
スミレも少し驚いた表情で目を開けた。
そして見つめ合って笑った。
「なんか、神様に見られているようで、恥ずかしいね」僕が思ったことが、そのまま彼女の言葉となった。
僕たちは再び唇を重ねる。ゆっくりと時間をかけてキスを交わす。
やがて。
彼女の柔らかな唇から、僕の口に何かが伝わってきた。
二つの卵。
イメージしたのは、透明で柔らかく、中に暖かい火が灯っている卵。
それは僕の喉を通って体の中に消えていった。
僕たちはゆっくり時間をかけて愛し合う。
それは、祝福された儀式。
そんな言葉がしっくりとくる時間。
僕たちが一緒に昇り詰めたとき。
二人の繋がりから、さっきの卵が二つ、スミレに還っていくのを感じた。ただの錯覚だろうか。いや、
「……お帰りなさい」
確かにスミレはそうつぶやいた。
そして、僕たちは祝福の空気に包まれたまま、優しく穏やかな眠りについた。



