大学院の学位授与式が近づいたころ、僕はスミレの家に招待された。彼女の家はしょっちゅう訪ねているので、今さらそれがどうしたっていう話でもあるが、大学院を出ていよいよこの春社会人になるのでお祝いをしてくれるという特別な日のようだ。ノーネクタイだけどワイシャツにジャケットを羽織って彼女の家のチャイムを押す。
「ようこそ、お食事処、霧島亭へ」
そう言って彼女はにこやかに迎え入れてくれた。
リビングのダッシュボードやダイニングのテーブルの花瓶にも白とピンクのスイートピーがたっぷりと飾られ、いつもにも増して華やかの雰囲気だ。
テーブクロスも薄いピンク、その上に載っているワインクーラーで冷やされているお酒も淡いピンク色。そしてスミレはやはりピンク色のワンピースに薄いブルーのエプロンを着けていた。今日のテーマカラーはピンク色らしい。
「なんだ、事前に言ってくれれば色をあわせたのに」
「え? 陽君、ピンク色のシャツとかジャケットとか持ってるの?」
「……いや、ない。」
じゃあ前もって伝えても意味ないじゃんと笑って僕を席に案内した。
「なんか、緊張するなあ」
「フフフ、でも晴れて大学を卒業して社会に出るんだから、きっちりお祝いして区切りをつけなきゃ」
「社会に出ると言ったって、心理カウンセリングの研修生なんだから、正確には……」
「いえいえ、プロとしての一歩を踏み出したんだから、ちゃんと門出を祝わないと」
そう言ってスミレはワインクーラーからロゼのスパークリングワインを取り出し、トーションに巻いて僕に手渡す。
「この手のお酒の栓を開けるの、なんだか怖いし、泡だらけにしちゃったことがあるから。開けてくれる?」
「僕もそんなにやってことないから、うまくいくか保証できないよ」
ポン! とやや大きな音をたてたが無事開いてくれた。淡いピンクの液体をシャンパングラスに注ぐ。
外では大学時代から何度か一緒にお酒を飲んだことがあるが、家の中で二人で飲むのは初めてかもしれない。
「学位授与、おめでとう、乾杯!」
席についてグラスを上げたのもつかの間、スミレはグラスに口をつけるとすぐに立ち上がり、料理の盛り付けにとりかかる。
サラダやローストビーフなどのオードブルに、小ぶりの鯛の塩焼きなどが並ぶ。和洋折衷、いや『和英折衷』というところか。ひと際目を引いたのは、巨大な餃子のような形をしたパイだ。
「これは、コーニッシュ・パスティという、母方の母、つまりロンドンいるおばあちゃんの得意料理なの。別にお祝いの料理じゃないんだけど、というよりファストフードみたいなものね。ママと一緒にロンドンに帰るといつも作ってくれたの。私も作り方をママから教わってレパートリーにしちゃった」
パリサクとした生地の中に詰められている牛肉や色々な野菜の餡がしみじみと優しい。
「うん、これすごく美味しい! イギリスのソウルフードだね」
「気に言ってくれた? よかった」
キッチンに目を遣ると、母娘で立って楽しそうに料理を作るスミレとお母さんの幻が見えたような気がした。
料理とお酒を十分に堪能したあと、僕はコーヒーで、スミレは紅茶でデザートをいただいた。おわん型のガラスの器にイチゴとメレンゲ、生クリームが綺麗に盛りつけられている。
「これはね『イートン・メス』という夏向きのデザート。一応綺麗に盛りつけてあるんだけど、食べる時はこうやってグチャグチャニまぜるのよね……その方がずっと美味しいの」
そう言って彼女はフォークとスプーンを使って混ぜ始めたので、僕も真似する。
「!…… 確かに美味しい」
「でしょ!」
普段あまり意識したことはなかったけど、今夜初めて自分の味覚を通じてスミレはイギリスの文化、家族の愛情をしっかりと受け止め、引き継いでいるんだと実感した。
僕もその中に入っていきたい。
「今も昔も、世界中で『もう一度若い時に戻れたら、人生をやり直せたら』と思っている人は、いっぱいいると思うの」
手に持つティーカップを見つめながら彼女がつぶやく。
「でも本当にそうなった人はいるのかな……もしかして私、たった一人だけ?」
もちろん僕はその問いに答えられなかった。彼女が感じている寂しさを受け止める術もなかった。
「もしそれがスミレ一人だったとしても、独りにはしない」
「ありがとう。一人と独りか」
漢字の違いをわかってくれた。
「……今の言葉、どう受け取ればいいのかしら?」
「どうって……」
「フフフ、ごめん。ちょっと意地悪した」
僕たちは、再びシャンパングラスにロゼのスパークリングを注ぎ、リビングのソファに移動する。
スミレは僕の肩に頭を預けてきた。
「大丈夫。確かにちょっと寂しいけど、君がいてくれるから」
「……それはよかった」
気の利いた言葉をかけてあげられないのがもどかしい。かえって僕がフォローされているような気がする。
「でね、子供に戻った時、いろいろ思い出せたんだ」
「?」
「小さい頃、自分が考えていたこと……例えば、将来何になりたいとか」
「へえ、何になりたかったの?」
「聞きたい?」
「うん、すごく」
「でも笑わないでよ」
「もちろん」
「えとね……宇宙飛行士」
「へえ! ちょっとびっくり」
「でしょ」
「でもどうして?」
「中学の時にね、女性宇宙飛行士の人の講演会があってね。その人のお話を聞いてからかな……どんな話だったのかよく覚えてないけど。印象に残ってるのは、その人の目がすごく輝いていたこと」
「宇宙飛行士という夢を実現した人の目?」
「いいこと言うね。うん、でもそれだけじゃなくて、宇宙に行ってお星さまをいっぱい見てきた人の目なんだって思って」
もちろん僕もその宇宙飛行士を知っている。その人の瞳が星型にキラキラ輝いているのを想像してみた。
「フフッ、可笑しいでしょ? でもね、なんかいいなあ、素敵だなあって思ったの……それで私もそうなりたいって」
僕は、スミレがオレンジのスーツを着て颯爽と打ち上げロケットに乗りこむ姿を思い浮かべる。
「それから一年くらい、ああ宇宙飛行士になりたいって思って、その人がスペースシャトルに乗っている動画や宇宙ステーションで仕事をしている動画なんかを夢中になって見てたんだ……でもね、諦めた」
「え、どうして?」
「宇宙飛行士の訓練であるじゃない? シミュレーターとか言うマシンに閉じ込められてグルグル回されるのとか、飛行機を急降下させて無重力を体験させるのとか……あれ、ぜったいダメ」
「え、でも富士急ハイランドの絶叫マシンは平気だったじゃない」
「……多分あんなもんじゃないと思う。それにね、小さい頃遊園地で母親と一緒にティーカップに乗ってね、小さい子のアルアルだけど、調子にのってグルグル回し過ぎて。ママも巻き込んでトラウマになっちゃった」
「……それは残念だったね」
「フフッ、所詮その程度の夢だったのよね……でもね、今回の件であの頃に戻って、憧れや熱い気持ちを思い出せてよかった」
「そうなんだ。少し羨ましいな。子供の頃からそんな夢を持てていたなんて。僕なんかはボーっと漫然と生きてて、夢なんて……」
「えーっ、でも今は素敵な夢があるじゃない。人を笑わせたい、笑顔にしたいって……しかもその夢が、かないつつあるし」
「確かにそうだね。ありがとう」
そう言えば、そんな夢を持ち始めたのはいつからだろうか。
「ところでスミレはいつ美容師さんになりたいと思ったの?」
「そうね、高校に入ってすぐかな。お洒落心に目覚め、自分でネットで探したヘアサロンに行ってみたの」
「ひょっとしてそのお店、アルレッキーノ?」
「ううん、違うお店なんだけど……そこで出会ったんだ。大野さんに」
「そうだったんだ」
「うん、自分の髪が綺麗になっていくのが嬉しかったし、それから大野さんと話すのがすごく楽しかった」
「話すことが?」
「そう。学校のこととか、友達のこととか、ちょっとした悩みとか色々聞いてくれてね、言葉少なだけど、アドバイスももらえた」
「あの人が言葉少な?」
「ハハッ、反応するとこ、そこ? まあわかるけど。大野さんはね、なんか自信をつけさせてくれるっていうか。見た目も、気持ちも」
「……それ、よくわかる。スミレに髪をやってもらった時、僕もそうだった」
「ありがとう。それすごく嬉しい。わたしも大野店長みたいなりたくて、あの人に憧れて美容師になったから」
そう言って、彼女は僕の髪を触る。
「専門学校に行って卒業する頃、ちょうど大野さんが独立してアルレッキーノができて、ぜひ働かせてくださいって頼み込んで採用してもらったの……ほんと、いい人と出会えた。今回の件も大野さんにすごく助けられたし」
つくづくその通りだと思う。でも店長さんに改めてお礼の言葉なんか贈っても『なーに言ってんのよ、照れるからそういうのやめてよ』とか突き返されそうだ。
スミレは話し続ける。
「だから何を言いたいかというと」
「?」
「私は、人生の一部を二度経験した」
「そういうことになるね」
「昔、自分が思っていたこと、感じていたことを振り返ることができた。そして人生って、ちょっとしたことで大きく変わるんだろうなって思った……でも同時に、変えられない運命もあるんだろうなとも思ったの。現に、また大人になっても、母と父はいなし……」
「確かに残念だけど、そこは変わっていない」
「でも、悪いことばかりじゃないと思う」
「それは何だろう?」
「陽君、あなたに出会えたこと」
「……僕も偶然スミレと出会えてよかったと思う」
「偶然じゃないよ! ……これはきっと、どんな人生でも『変わらない運命』なんだって信じている」
「変わらない?」
「そう、私が美容師をやっていても、宇宙飛行士になっていても……必ずあなたと出会う。そういう運命」
「そうだといいなと僕も思う……でも、君が宇宙飛行士になっていたら、僕たちはどこで出会ったんだろう?」
「……そうね、あなたは、ロケット打ち上げのプロジェクトチームのメンバーかもしれないし、ひょっとして一緒に乗り込む宇宙飛行士だったかもしれないし」
「それは、無理かな。絶叫マシン全然ダメだし」
「じゃあ、宇宙空間で遭遇する、地球外生命体」
「何それ、もうそれ人間じゃないじゃん!」
「アハハハ!」
「……ところで、スミレ、今日はよく喋るし笑うね?」
「そうかしら? そうね、ちょっと緊張してる」
「緊張?」
「……だってこれから、言わなくちゃいけないことがあるんだから」
「それって?」
「本当は、陽君が言いたいんだろうけど、遠慮しちゃって言えないこと」
え!?
彼女はシャンパングラスをローテーブルに置いて僕と向き合う。
「高野陽君、私と結婚してください」
まっすぐ背を伸ばし、まっすぐ僕を見つめている。
「ありがとう、スミレ。僕も君と結婚したい……ずっと一緒にいるよ」
彼女は僕の体に細い腕を優しく回す。僕も真似する。
「ありがとう、断られたらどうしようって心配してたの」
「え、本当!?」
「フフッ、ウソよ……絶対OKしてくれるって信じてた」
「でも、それならわざわざスミレから言ってくれなくても」
「……だって、陽君から言いにくそうだったんだもん、顔には書いてあるんだけど」
「そうかな、バレてた?」
「……以前はあなたの方が年下だったし、切り出しにくいんだろうなって。だからこれは私からはっきり言わなくちゃって思ったの」
「そうなんだ……ごめん」
「そこで謝らないの! ……でもよかった、これでちゃんと母と父に報告できる」
スミレは壁に架かっているご両親の写真に向き直り、小さいけど、しっかりとした声で伝えた。
「ママ、パパ。私、この人、高野陽君と結婚します。祝ってね」
僕も伝える。
「スミレとずっと一緒にいます。必ず幸せにします……なります!」



