僕は霧島さんを抱えたまま、動けないでいた。
パーカーからデニム、靴の中までずぶ濡れ、僕にしがみついている女の子の服も濡れてしまっている。水気を含んだ布地から体温が伝わってくる。
再び雷鳴が鳴った。
霧島さんの抱きつく力が一層強まる。雨音もさらに強まる。今は本当に二月なのか?
「あがって」
彼女は僕の胸に押しつけていた頭を話し、見上げてそう言った。弱々しく、幼い声で。
僕の体には霧島さんの腕と脚がしっかりと巻きついている。それをほどいて、とお願いするのは酷に感じた。なんとか足だけで靴を脱ぎ家の中に入る。富士急ハイランドの帰りにしがみついてきた彼女よりも小さく、軽くなっている。間違いない。
「あの、タオルをお借りできますか?」
「うん。……じゃあ、こっち」
しがみついたまま廊下の右手を指し、僕を誘導する。洗面所に入ると、ようやく霧島さんは自分から床に降りた。
棚からバスタオルを二枚取り出し、一枚を僕に渡す。さらに、開き戸がついた収納棚からライトブルーのタオル地の衣類を取り出し、僕に手渡した。バスローブだ。
「これ、父のだけど、よかったら上着とデニム脱いで着替えて。靴下も。脱いだ服は、洗濯しちゃうから、そこのカゴに入れておいて……あ、向こう向いてる……ていうか、霧島君もあっち向いて」
僕は差し出されたタオルとバスローブを化粧台横のカウンターに置くと、霧島さんと背中合わせになり、パーカーとデニム、それにTシャツと靴下も脱いで白い洗濯かごに入れた。バスタオルで慌てて体を拭き、バスローブを着る。ゆっくり振り返ると、何と霧島さんも部屋着からバスローブに着替えていた。彼女の物か亡くなったお母さんの物かはわからないけど、薄ピンクのバスローブはオーバーサイズ気味で、だぶっとしている。僕は胸元から視線をそらす。
彼女は洗濯かごから僕が脱いだものを回収し、脱いで床に置いていた自分の衣類やバスタオルと一緒にドラム式の洗濯機に入れ、洗剤と柔軟剤を注入し、スイッチを入れた。
「乾燥までしてくれるから、帰るときには着られると思う」
「すみません、ありがとうございます」
この流れで『帰るとき』がいつになるのか見当がつかないが、とにかく雷と夕立が収まるまでは一緒にいてあげよう。僕の服と霧島さんの服が一緒に洗濯機に入って洗われているのは気恥ずかしく、不思議な気分だ。
「取り敢えず、休んでいって」
霧島さんは僕のバスローブの裾を掴み、引っ張っていく。
リビングに入ると、カウチソファを勧める。僕が座ると、彼女はぴたりとくっついて並んで座る。
そして、前にここに座った時と同じように、僕にもたれかかる。その時と違うのは、霧島さんが一回り小さくなって、頭の位置が低くなっていることだ。色々と聞きたいことはあったが、今はそのタイミングではない。
「雷が収まるまで、こうしていていい?」
「もちろんです」
青い瞳が僕を見上げて言葉を続ける。
「来てくれて、本当にありがとう。それから、ごめんね……LINEではひどいメッセージ送っちゃって」
「……全然大丈夫です。気にしないでください」
僕たちはそうやって、部屋の明かりもつけずに寄り添い合ったままでいた。時々雷が鳴り、そのたびに彼女の体がびくりと硬直し、僕にしがみつく。雷は、なかなか鳴り止みそうにない。このトラウマから彼女が解放される時が来るのだろうか?
「もう気づいてると思うけど……私、だんだん小さくなっているの」
十分ほど経ったころ、霧島さんがつぶやいた。
「……そうみたいですね。店長の大野さんも心配してました……何か心当たりはあるんですか?」
「店長は、あの事故が関係あるんじゃないかって言うんだけど、私にはよくわからない。確かにその時から、少しずつ自分の体が変化しているのは気づいていた」
そう話す声も、少しトーンが高く幼さが混じっている。霧島さんが感じている変化がどんなものなのかわからないけど、初めて会った時の『大人の女の人』という雰囲気を今はまったく感じられない。ただ、僕を見つめる瞳だけは変わらず、透明で深淵な青さをたたえたままだ。
「実はね、クリスマスや正月に霧島君に会うときに着ていく服、苦労した。家にあるもので、なるべくブカブカじゃないのを選んだつもりだったけどね」
そう言うと少し笑みを浮かべたが、また元の表情にもどる。
「ああ、私……これからどうなっちゃうのかな」
悔しいけど僕はそれに何も答えられない。彼女も答えなんて求めていないだろう。僕はその答えの代わりに彼女の肩に手を回し、軽くぽんぽんと叩いた。だいぶ遠くなったが、雷はまだ鳴っている。
雷が一旦鳴り止むと、不意に彼女が顔を上げる。
「ねえ……キスしてもらってもいい?」
「え?「唐突な問いに面食らう。
「い、いいんですか?」
バカ!お前何言ってんだ?霧島さんは今、それが必要だからリクエストしたんだろう……ほら、下を向いて恥ずかしがっているじゃないか。
「あ、すみません、今の無しです……はい、わかりました」
彼女は再び顔を上げ、不思議そうな表情を浮かべたが、やがて目を閉じた。
僕は、ゆっくり顔を近づける。
その小さな唇は、冷たかった。
そこからは霧島さんの心の中にある淋しさや不安が、透き通った氷の丸い玉になって僕に入ってきたように錯覚した。
何秒、いや何分そうしていたか定かではない。やがて彼女は体を起こし、僕の体に両腕を回し抱きつくと、胸の上に頭を載せた。僕もその小さくて冷たい体を包み込む。
雷はどうやら完全に収まったようだった。微かに聞こえていた、洗濯機が衣類を乾燥する回転音も止まった。僕が上体を起こすと、霧島さんがハッと顔を上げ、不安そうな表情を浮かべる。この後、どうするのが正解かわからないが、とにかく彼女を不安がらせちゃだめだ。
ふと床に転がっているショルダーバックが目に留まり、忘れていたことを思い出した。
「あの、チャップリンの映画のDVD持ってきたんですけど、観ます?」
「うん、観たい」
彼女は安堵の色を見せ、微笑んだ。
僕がバッグからDVDを取り出し、テレビとDVD機の設定に奮闘していると、霧島さんはキッチンに向かった。
DVDのセットが終わるころ、彼女はトレーを手に載せて戻ってきた。ローテーブルに、お皿とカップとスプーンを置く。カップに入ったスープはミネストローネのようだが、皿に載っている食べ物は何だろう?今川焼きのようにも見える。
「冷凍食品ばっかりだけど、映画観ながら食べようね」
「ありがとうございます。……あの、これは?」
僕は今川焼きのようなものを指す。
「これはね、お好み焼き。片手で食べられて、こんな時便利なの」
僕らはカウチソファに座り直し、チャップリンの上映会を開始する。間接照明だけの薄暗いリビングで、二人ともバスローブを着て、お好み焼きを片手に持ちながら。不思議な感じだが、霧島さんの気分はだいぶ良くなっているようだ。
『ヴェニスの子供自動車競走』。
まずは、チャップリンの初期の小編。
後の作品に比べるとストーリー性は低いが、『トランプ』としての表情やしぐさは是非とも盗みたい。この作品で、ダブダブのズボンと対照的にピッチリとした上着にドタ靴、チョビ髭にステッキに山高帽というチャップリンのシンボルとなる衣装が初めて登場したという。子供の自動車競走の模様を撮影しているカメラにしつこく収まろうとしている『放浪紳士』の様子が描かれている短編で、オチがいまいち分からないが、歩き方、カメラを覗く表情を見ていると自然に笑いが湧き上がってくる。テレビモニターを見つめる霧島さんの表情も少し和らいでいる。
『キッド』。
この映画の冒頭に出てくる言葉。「僕、すごく好きなんだ」と隣りの女の子に映し出されたテロップ文字を指さす。涙と微笑み。両方あるから人生は面白いのだろう。
「いい言葉ね……ほんと、そうありたい」
霧島さんが共感してくれた。捨てられ、チャップリンに育てられた子供役の名演技。二人の息の合ったコンビネーション。チャップリンがその子をしっかり抱きしめるシーンは涙を誘う。台詞の無い映画だが、二人の心情がしっかり伝わってくる。
『街の灯』。
目が見えない花売りの娘に、目の手術のお金を手渡したのは誰か?皮肉な顛末ではあるが、最後は後味のいい余韻を残してくれる。
『モダン・タイムス』。
資本主義、機械文明への風刺映画の色合いが濃いが、しっかり笑わせ、チャップリンとヒロインのラブストーリーも素敵だ。自動食事マシーン?の実験台にされ、高速回転するトウモロコシに翻弄されるシーンは霧島さんのツボにもハマったようだ。
「『スマイル』ってこの映画のテーマ曲だったのね」
「そうなんです。チャップリン自身が作曲したらしいです。ジャズのスタンダードナンバーになったり、有名なアーティストが何人もカバーして歌っていますよね」
「素敵なメロディー。あ、それからね……」
彼女は僕の手をとり、てのひらに指で文字を書いた。Smile ……と読めた。
「母がね、私の名前を英文字にする時、いつもこう書いてたの。ホントは、Sumireなんだけどね」
と再び僕の掌にその文字も書いた。
「『すみれ』って、母がつけた名前なんだ。いつもスマイルでいて欲しいって。でも……」
僕の手を離し、霧島すみれさんは、小さくため息をついた。そしてミネストローネをスプーンですくって一口飲んだ。
「ねえ、チャップリン、もっと見せてくれる?」
リクエストにお応えして『ライムライト』『独裁者』と立て続けに再生した。ライムライトの主人公のカルヴェロ。僕は密かに彼の生き様に憧れている。
『独裁者』。
チャップリン扮する『床屋』がヒロインの髪を整えるシーンでは『私たちみたいね。』霧島さんがつぶやいた。彼女がお店に戻れる日は来るのだろうか。
そして、ラストの大演説シーン。それは兵士達に向けられたものだが、長い演説の最後にラジオを通じてヒロインにメッセージを送る。霧島さんは、テレビモニターを凝視し、そのメッセージを聞き逃すまいとしている。僕は彼女の手をとる。
この作品が伝えたい本来の意味に比べると、ささやかなことだろう。でも、魔法の言葉だ。
『空を見上げよう』と。『魂の翼を使って、希望の光へと飛び立とう』と。
僕が霧島さんに伝えなければいけないことを、チャップリンが全て代わりに語ってくれたような気がする。
そして、彼女は顔を上げた。
僕らは深夜まで微笑みと涙の物語を観たあと、ソファの上で手をつないだまま、朝まで眠ってしまった。



