未来に続く、未完成な恋

春は、何かが始まる音がする。
それはドアが開く音だったり、
黒板にチョークが当たる音だったり、
あるいは――
自分でも気づかないうちに、
心の奥が少しだけ動く音だったりする。
教室の窓から見える桜は、今年も変わらず咲いていた。
薄いピンク色が風に揺れて、
新しいクラスのざわめきに溶け込んでいく。
「春輝、席こっち!」
少し大きめの声で呼んできたのは孝太だった。
中学からの付き合いで、
気づけば一番長く一緒にいるやつだ。
「また隣かよ」
そう言いながら、俺は孝太の横の席に腰を下ろす。
「いいじゃん。安心感あるだろ?」
「それ、悪口?」
「褒めてる」
くだらないやりとり。
でも、この空気が嫌いじゃない。
こういう何気ない会話が、
俺の高校生活の中心だった。
そのとき、前の席の女の子がくるりと振り返った。
「おはよ、春輝」
菜々だった。
一瞬、言葉に詰まる。
ほんの一瞬なのに、胸の奥がぎゅっとなる。
「おはよ」
できるだけ普通に返したつもりだった。
でも、自分の声が少しだけ硬かった気がした。
菜々は俺の様子なんて気にも留めず、
にこっと笑って前を向く。
菜々は、いつもそうだ。
誰にでも同じ距離で、同じ笑顔。
特別扱いされていないことは、
ずっと前からわかっている。
それなのに、
その“特別じゃない”態度に、
俺だけが勝手に意味を見つけてしまう。
「なあ春輝」
孝太が小声で話しかけてくる。
「今年、菜々と同じクラスだな」
「……そうだな」
「部活も同じだし、結構一緒にいる時間増えるんじゃね?」
そう言われて、
胸が少しだけ跳ねた。
部活。
俺と孝太、菜々は同じ部活だ。
それだけで、理由もなく嬉しくなってしまう自分がいる。
「何ニヤけてんだよ」
「ニヤけてない」
「いや、してた」
図星で、何も言い返せなかった。
先生が入ってきて、ホームルームが始まる。
名前が呼ばれ、出席を取られ、
新しい一年がゆっくりと動き出す。
その間も、
俺の意識は何度も前の席に向いていた。
菜々がノートを取る仕草。
髪を耳にかける動き。
小さく伸びをする背中。
全部、どうでもいいはずなのに、
どうしても目に入ってしまう。
放課後。
部活の時間になり、
三人で並んで体育館へ向かう。
「今年もよろしくね」
菜々がそう言って笑う。
「こちらこそ」
孝太が即答する横で、
俺は少し遅れて言った。
「……よろしく」
言葉にした瞬間、
なぜか胸が少し苦しくなった。
この春が、
ただ楽しいだけの季節で終わらないことを、
俺はもう、どこかで感じ始めていたのかもしれない。
でもそのときは、
その予感から目を逸らすように、
俺は笑っていた。
未来のことなんて、
何も考えずに。