さよならの代わりに授かった宝物

身元不明の「彼」を引き取るという萌香の申し出は、佐倉の裏工作によって速やかに受理された。
 都心の喧騒から少し離れた新しいマンション。記憶を失った勇気との生活は、まるで壊れ物を扱うような静かな日々から始まった。


 彼は自分の名前すら「高畑勇気」という響きに違和感を持つほどに、過去を喪失していた。けれど、一つだけ変わらないことがあった。

 それは、萌香に向ける視線の異常なまでの「深さ」だ。


「……勇気さん、お風呂の準備できたわよ」

 リビングのソファで、ぼんやりと窓の外を眺めていた勇気が、萌香の声にゆっくりと反応する。彼は立ち上がり、萌香のすぐ目の前で足を止めた。


 記憶がないはずなのに、彼は萌香との距離感を全く取ろうとしない。むしろ、無意識のうちに彼女のパーソナルスペースを侵し、追い詰めるような立ち位置に収まるのだ。
「……萌香」


「えっ、何……?」


 突然名前を呼ばれ、萌香の肩が跳ねる。勇気の大きな手が、迷いなく萌香の腰を引き寄せた。

 あの日々のような冷徹な計算はない。ただ、飢えた獣が己の餌を確認するかのような、本能的な動作。

「君が他の誰かと話しているのを見ると、イライラするんだ。……なぜだか分からないが、視界から消えるのが耐えられない」

 低く、掠れた声。その瞳には、記憶を失う前よりもさらに剥き出しになった、ドロりとした執着が渦巻いている。
 勇気は萌香を壁際に追い詰めると、逃げ場を塞ぐように覆いかぶさった。

「勇気さん、まだ傷が治りきってないんだから、無理しちゃ……っ」

「黙って。……身体が、君を欲しがっている」
 彼の手が、萌香の頬を包み込み、そのまま指先が唇を強引に割り込んでいく。

 記憶は白紙。けれど、指先の動き、首筋に落とされる鼻先、服の上からなぞる愛撫の軌道は、かつて萌香のすべてを支配した「警視・高畑勇気」そのものだった。

 勇気は萌香のうなじに顔を埋め、深く息を吸い込む。

「……知っている匂いだ。脳は覚えていないのに、指先が君の肌の柔らかさを、腕が君を抱く角度を覚えている。……俺は、君の何だったんだ?」

 問いかけながら、彼は萌香の華奢な手首を片手で纏めて頭上に固定した。
 強引で、容赦のない、独占欲に突き動かされた愛撫。

萌香の身体は、彼の熱い舌に、そして記憶を失ってもなお変わらない執拗な攻めに対して、裏切るように歓喜の声を上げる。

「あ……っ、勇気……さん……」

「いい声だ。……その声も、きっと俺だけが知っていたはずだ」

 勇気の瞳に、一瞬だけ鋭い「狩人」の光が過る。
 記憶を失ったことで、理性のブレーキが外れた彼は、より純粋な執着の塊となって萌香を蹂躙していく。
(この人は……記憶があってもなくても、私を逃がしてはくれないんだ……)

 萌香は彼の背中に爪を立て、熱い波に身を任せた。
 嘘から始まった契約。失踪と隠し子。そして死の淵からの生還。

 どんなに形を変えても、二人の魂は「独占」し合う運命から逃げられないことを、萌香はその熱い抱擁の中で確信していた。