さよならの代わりに授かった宝物

雪が解け、都会の街角に春の匂いが混じり始めた、一ヶ月後。

佐倉の尽力により、萌香は父にかけられていた汚職の嫌疑を晴らし、
かつての「社長令嬢」ではなく、一人の静かな市民としての日常を取り戻していた。

父が遺した証拠は正式に受理され、
政界を揺るがす大スキャンダルへと発展し、組織は完全に壊滅した。

――けれど。

その代償は、あまりにも大きかった。

「……パパ、まだお仕事終わらないの?」

春の日差しが差し込む公園のベンチ。
蓮が、少し寂しそうに空を見上げる。

萌香は胸の奥がきゅっと締めつけられるのを堪えながら、
息子の柔らかな髪を撫でた。

「あのね……パパはね、今もお仕事してるの。
遠いところで、とても大事なお仕事」

そう言いながら、萌香自身の瞳にも、拭いきれない孤独が滲んでいた。

公安から突きつけられたのは、「殉職」という二文字。
遺体は見つからないまま――
勇気の行方は、今も闇の中だった。

その時。

「……あ!」

蓮が、急に立ち上がり、入り口の方を指差した。

「ママ、あの人……」

萌香が顔を上げた、その瞬間。

時間が、止まった。

歩道の柵に寄りかかり、こちらをぼんやりと見つめる一人の男。
使い古されたトレンチコートの襟を立て、
帽子を深く被り、顔の傷を隠すように俯いている。

胸の奥が、音を立てて脈打ち始める。

「……勇気……さん……?」

声は、風に溶けるほど小さかった。

萌香は震える足で、一歩、また一歩と男に近づく。

男が、ゆっくりと顔を上げる。

帽子の庇の下から覗いた瞳は、
かつての冷徹な警視のものでも、
甘い執着を向けてきた恋人のものでもなかった。

そこにあるのは、何も映していない、静かな眼差し。

「……すみません」

穏やかな声。

「俺に、何か用でしょうか」

――声だけは、確かに彼だった。

「勇気さん……生きていたのね……」

萌香の瞳から、堪えきれず涙が溢れる。

「私よ。萌香よ……。
ほら、蓮も……ここにいるの」

「……モエカ……? ハス……?」

男は眉を寄せ、困ったように微笑んだ。

「すみません……どこかで、お会いしましたか」

その時、彼の隣に立っていた医療関係者が、静かに口を挟む。

「申し訳ありません。
この方は一ヶ月前、北の海岸で保護されまして……
お名前も、ご自身の過去も、すべて記憶を失われているんです」

萌香は、足元が崩れ落ちる感覚を必死で堪えた。

あれほどまでに自分を追い、
世界の果てまで執着した人が、
今、目の前で自分を“知らない人”として見ている。

神様が与えたのは、
命と引き換えの――残酷な忘却だった。

「……パパ?」

蓮が、そっと男のコートの裾を引っ張る。

男は驚いたように視線を落とし、
蓮の顔をじっと見つめた。

その瞬間。

無意識に、左の耳たぶに触れる指先。
――変わらない、癖。

「……不思議だ」

男の声が、わずかに震えた。

「君たちを見ていると……
胸の奥が、ぎゅっと痛くなる」

一筋の涙が、男の頬を伝う。

記憶は消えても、
魂に刻まれた想いだけが、彼を突き動かしていた。

「……大丈夫」

萌香は、優しく微笑み、彼の手を包み込む。

「生きていてくれただけで……それで、いいの」

傷だらけの大きな手が、萌香の指を無意識に握り返す。

二年前、彼は嘘をついて近づいた。
二年半前、萌香は逃げた。

そして今。

「今度は……私の番」

萌香は、はっきりと言った。

「あなたが誰でもいい。
記憶がなくても、名前が違っても」

蓮を抱き寄せ、もう一度、彼を見る。

「今度は、私があなたを離さない」

それは、過去の執着とは違う。
恐怖でも、支配でもない。

静かで、甘く、逃げ場のない愛の契約。

萌香の瞳には、
これまでになかったほど、強く、優しい光が宿っていた。