公安の追っ手と、父を狙う組織の双方から逃れるために、
勇気が選んだ潜伏先は、北の果てにある寂れた漁村の古民家だった。
安物のパーカーを羽織り、
かつてエリート警視だった面影をすべて脱ぎ捨てた勇気が、
慣れない手つきで古いストーブに薪をくべている。
「……勇気さん、無理しないで。私が代わるから」
「いや」
短く答えて、彼は首を振った。
「こういうことくらい……俺にやらせてくれ。
君は、蓮と一緒にいろ」
その声は、不器用だがどこか優しい。
先日の銃撃戦で負った傷は、まだ完全には癒えていない。
萌香は彼の隣にそっと腰を下ろし、包帯の巻かれた手を両手で包み込んだ。
「……痛むでしょう」
「君が触れると、不思議と痛くない」
小さく笑う勇気に、胸がきゅっと締めつけられる。
地位も、権力も、磨き上げられた靴も、今の彼には何もない。
それでも――
今の勇気の瞳は、二年前の「完璧な講師」だった頃よりも、
ずっと温かく、人間らしい光を宿していた。
「……後悔してない?」
萌香は、恐る恐る尋ねる。
「公安というキャリアも……すべて捨ててしまったこと」
勇気は少し考え、それから静かに首を振った。
「後悔なんて、していない」
包み込むように、萌香の手を握り返す。
「むしろ……ようやく呼吸ができている気がする」
そのまま彼女を引き寄せ、額を軽く寄せた。
「君がいなくなってからの俺は、ただの機械だった。
任務という燃料がなければ動けない、冷たい塊だ」
低い声が、胸の奥に染み込む。
「でも今は違う。
君の体温を感じて、蓮の寝息を聞いて……
ようやく、生きてる人間に戻れた」
勇気は萌香の首筋に顔を埋め、深く息を吸う。
「萌香……俺はもう、君を道具だなんて思えない」
一拍置いて、正直に続けた。
「……いや。最初から、そう思えなかったんだ。
だから自分の気持ちを殺すために
『便宜上の妻』なんて言葉で、自分を騙していた」
その不器用な告白に、萌香の瞳から静かに涙が溢れる。
(この人は、嘘をついていたんじゃない……
ただ、愛し方を知らなかっただけ)
「パパ……ママ……?」
奥の部屋から、眠たそうな声。
蓮が小さな目をこすりながら、二人の元へ歩いてくる。
勇気は驚いたように顔を上げ、すぐに柔らかく笑った。
「ああ、蓮。起こしてしまったか」
「パパ……いっしょに、ねよう……?」
その言葉に、勇気は一瞬も迷わなかった。
「……ああ。来い」
小さな手を取り、蓮を抱き上げる。
その眼差しには、かつての冷徹さは微塵もない。
「三人で寝よう」
小さな布団を並べ、身を寄せ合う三人。
外では雪が激しく降り積もっている。
けれど、この古い家の中だけは、
世界で一番あたたかな場所のように感じられた。
勇気は暗闇の中で、萌香の手を決して離さない。
(たとえ明日、すべてを失っても――)
胸の内で、静かに誓う。
(この二人だけは、命に代えても守る)
――しかし。
そのささやかな平穏に、忍び寄る影が、
すぐそこまで迫っていることを、まだ三人は知らなかった。
勇気が選んだ潜伏先は、北の果てにある寂れた漁村の古民家だった。
安物のパーカーを羽織り、
かつてエリート警視だった面影をすべて脱ぎ捨てた勇気が、
慣れない手つきで古いストーブに薪をくべている。
「……勇気さん、無理しないで。私が代わるから」
「いや」
短く答えて、彼は首を振った。
「こういうことくらい……俺にやらせてくれ。
君は、蓮と一緒にいろ」
その声は、不器用だがどこか優しい。
先日の銃撃戦で負った傷は、まだ完全には癒えていない。
萌香は彼の隣にそっと腰を下ろし、包帯の巻かれた手を両手で包み込んだ。
「……痛むでしょう」
「君が触れると、不思議と痛くない」
小さく笑う勇気に、胸がきゅっと締めつけられる。
地位も、権力も、磨き上げられた靴も、今の彼には何もない。
それでも――
今の勇気の瞳は、二年前の「完璧な講師」だった頃よりも、
ずっと温かく、人間らしい光を宿していた。
「……後悔してない?」
萌香は、恐る恐る尋ねる。
「公安というキャリアも……すべて捨ててしまったこと」
勇気は少し考え、それから静かに首を振った。
「後悔なんて、していない」
包み込むように、萌香の手を握り返す。
「むしろ……ようやく呼吸ができている気がする」
そのまま彼女を引き寄せ、額を軽く寄せた。
「君がいなくなってからの俺は、ただの機械だった。
任務という燃料がなければ動けない、冷たい塊だ」
低い声が、胸の奥に染み込む。
「でも今は違う。
君の体温を感じて、蓮の寝息を聞いて……
ようやく、生きてる人間に戻れた」
勇気は萌香の首筋に顔を埋め、深く息を吸う。
「萌香……俺はもう、君を道具だなんて思えない」
一拍置いて、正直に続けた。
「……いや。最初から、そう思えなかったんだ。
だから自分の気持ちを殺すために
『便宜上の妻』なんて言葉で、自分を騙していた」
その不器用な告白に、萌香の瞳から静かに涙が溢れる。
(この人は、嘘をついていたんじゃない……
ただ、愛し方を知らなかっただけ)
「パパ……ママ……?」
奥の部屋から、眠たそうな声。
蓮が小さな目をこすりながら、二人の元へ歩いてくる。
勇気は驚いたように顔を上げ、すぐに柔らかく笑った。
「ああ、蓮。起こしてしまったか」
「パパ……いっしょに、ねよう……?」
その言葉に、勇気は一瞬も迷わなかった。
「……ああ。来い」
小さな手を取り、蓮を抱き上げる。
その眼差しには、かつての冷徹さは微塵もない。
「三人で寝よう」
小さな布団を並べ、身を寄せ合う三人。
外では雪が激しく降り積もっている。
けれど、この古い家の中だけは、
世界で一番あたたかな場所のように感じられた。
勇気は暗闇の中で、萌香の手を決して離さない。
(たとえ明日、すべてを失っても――)
胸の内で、静かに誓う。
(この二人だけは、命に代えても守る)
――しかし。
そのささやかな平穏に、忍び寄る影が、
すぐそこまで迫っていることを、まだ三人は知らなかった。

