さよならの代わりに授かった宝物

降り注ぐ陽光が、大学の古い図書資料室に金色の塵を舞わせていた。
三限の講義が終わったあとの静寂の中、桐生萌香は、トク、トク、と耳の奥で響く自分の鼓動を意識していた。

「……ここ、理解できたかな。少し難解な判例だけど」

すぐ隣から落ちてくるのは、低く理性的で、それでいて微かに熱を含んだ声。
萌香の視線の先には、特別講師として教壇に立つ高畑勇気の、形の整った指先があった。開かれた六法全書のページをなぞるその指が、ふとした拍子に萌香の指先と触れる。

「っ……は、はい。先生の説明、とてもわかりやすいです」

慌てて顔を上げると、至近距離に勇気の整った横顔があった。
縁なしの眼鏡の奥、知性を湛えた切れ長の瞳が、穏やかに細められる。

二十八歳。
学生たちとは明らかに一線を画す、大人の男の余裕。仕立ての良いスーツに包まれた身体からは、清潔感のあるシトラスに、僅かな煙草の香りが混じって漂っていた。その匂いだけで、萌香の思考は緩やかに痺れていく。

「君は、いつも一生懸命だね。……そういうところ、嫌いじゃない」

囁きは、耳元で秘密を分かち合う共犯者のように落とされた。
萌香の頬が、瞬く間に熱を帯びる。

彼は講師で、自分は教え子。
そう何度も言い聞かせているのに、勇気が向けてくる「特別」は、二十歳の萌香にとって、抗いがたい甘い毒だった。

勇気の腕が、萌香の背後の書架へと伸びる。
まるで抱き込まれるような体勢になり、彼の体温が逃げ場なく迫ってくる。
――ここは、彼だけの檻だ。

「萌香さん。……もし、俺が講師を辞めて、別の場所へ行くと言ったら」

「え……?」

「そのときは、俺についてきてくれないか」

大きな手が、萌香の頬を包み込む。
親指の腹でなぞられる唇が、じんわりと熱い。

その瞳の奥に、一瞬だけ冷徹な光が過ったことを、恋に盲目な萌香は気づかなかった。

「君を、俺の妻にしたいんだ」

その言葉は、萌香にとって世界で一番甘美な福音だった。
この完璧な男に選ばれ、愛されている。そう信じて疑わなかった。

――けれど、まだ知らない。
彼の差し出した手のひらに、冷たい銀色の手錠が隠されていることを。
そして、自分に与えられた役割が、愛される「妻」ではなく、公安警察が任務を遂行するための、ただの使い捨ての〈看板〉にすぎないことを。

「……はい。私、先生となら、どこへでも」

夢心地のまま、萌香は彼の胸に顔を埋めた。
勇気はその背を優しく撫でながら、視線だけは窓の外――冷徹な現実と、自身の任務へと向けていた。

――これが、嘘から始まった恋の幕開け。
そして二年半後、彼女が「自分だけの宝物」を抱いて再び彼の前に現れるまで、残された時間は、あまりにも短い偽りの春だった。