夢の中だろうか?
気付くと忍は何もない空間にいた。
明るくも暗くもない。上も下もない。自分の体でさえどこにあるのか心もとない。なのに不思議と怖くはなかったのは、どこか優しい空気を感じたからだろうか。
そこに何かが現れ、話しかけてきた。それは忍が知る言葉ではなかったが、なぜか理解できた。
その何かは、忍に子どもを育ててほしいと必死に頼んでいた。
事情の部分はまるで理解できないものだったが、それだけは分かった。
この子どもが成人するまで育ててほしいこと。
成人したら迎えに来ること。
「かぐや姫みたい」
そう呟いた忍に、その何かは肯定も否定もしなかった。
成人したこの子どもが忍のもとから消えたとき、世界からその子の記憶も記録もすべて消えるという。もちろん忍の記憶からも。
子どもが成人するまでに起こった出来事は、すべて何かしら辻褄が合う結果になる。何も心配しなくていい。ただ大事に育ててくれればいいと。
このままではこの子の命が危ないのだと――その必死さが伝わってくる。
そっと抱かせてくれた赤ん坊の確かな重さと温かさに震えた。
「可愛い……」
娘が帰ってくるのだと思った。
違うのは理解していた。けど、違わない。
スゴイ速さで脳みそが回転するのを感じる。
育てても、手元には残らない子。将来自分も、ほかの誰も覚えていないことになる子。そんなことありえないと思うのに、実際そうなることがはっきりと理解できた。
それでもこの手にこの子抱きたい、育てたいという願望が、抑えきれないほどにあふれてくる。
自分自身が未熟なくせに。救いようもないほど愚かなくせに。
でも、でも!
私はこの子のママになりたい!
「いいわ、育てる。育てたい。でも条件があるわ」
忍の心は、その何かにとって丸見えだったかもしれないが、つとめて冷静な口調でそう言った。
一生懸命一生懸命考えた。
「日本では、二十歳の誕生日と成人式の両方を迎えて初めて成人なの……」
思わずこぼれた言葉は、その年の一月に自分自身の成人式があったからだろうか。参加はできなかったが、友人たちの写真をたくさん見せてもらった。
何かの言う「成人」がとても曖昧なことに気が付いたから、一秒でも長くこの子どもと一緒にいられる方法をひねりだしたのだ。
「だから、それまでは私が育てるから、それまで勝手に連れて行かないでね」
その何かは、少し逡巡した後了承してくれるので、少しだけほっとした。
「あともうひとつ。これは絶対守っってほしいんだけど。私の記憶は、絶対に消さないと約束して」
不思議なことに、その何かが忍を気遣うのを感じる。
――ああ、そうね。
その優しい空気に、忍は我知らず微笑む。
世界からこの子の記憶も記録も消えたなら、何もかもを覚えている忍は、空想の世界で生きる哀れな女になるだろう未来が見えた。その何かが見せてくれたのかもしれない。
「それでも構わないわ」
だって、お母さんだよ? 親が我が子を忘れるなんてありえないでしょう?
「私はこの子の母親になりたい。なる! だからこの条件を飲んで」
子どもを腕に抱いたまま必死に訴える忍を、何か温かいものが包み込んだ。
理解できない様々なこともあるが、訴えは聞き入れられたのだとわかった。
「大丈夫。大切に育てるから。任せてくれたことを、後悔なんてさせないからね。安心して……」
安堵して目が覚めたとき、忍は産院のベッドに寝ていた。前日に普通に出産したことになっていたのだ。
ベッドの横の小さなベビーベッドでは、確かな命がスヤスヤと安らかな寝息を立てていて、忍の目から涙が一筋だけこぼれた。



