〈狐の窓の作り方〉
一、両手で狐の形を作ります。
二、右の甲を裏にして、人差し指と小指を重ねます。
三、両手の中指と薬指を伸ばして、人差し指に重ねま
す。
四、中指と薬指に親指を引っ掛けます。
五、呪文を3回唱えます。
「けしやうものか、ましやうものか」
「けしやうものか、ましやうものか」
「けしやうものか、ましやうものか」
これらの工程を間違えずにやれば、この窓からこの世のものでない何かが見えるでしょう。
雨の日にすれば、狐の嫁入りが見れるかもしれません。
ですが、決して、こちらの存在がバレてはいけません。
バレてしまえば、きっとーーー
*****
「けしやうものか、ましやうものか。けしやうものか、ましやうものか。けしやうものか、ましやうものか。」
いつも通り狐の窓を手でつくり、そう唱えて窓を覗く。
見えるのは部屋の白い壁だけ。
無意識にため息が漏れる。
今日もダメだったか。
何度目かもわからない、期待が裏切られるような胸の痛みを抱えながらベッドに潜った。
"狐の窓"
それは、人間に化けた妖怪や狐の正体を見破るために使われる呪術の一つである。特定の形に指を組み、呪文を唱えることで、異界を覗くことができるとも言われている。
しかし、妖怪や魔物に正体を見破ったことを気づかれてはいけない。気づかれてしまえばこちらの身に危険が及んでしまう。そんなおまじないである。
私、佐狐牡丹(さこぼたん)は、この狐の窓を習慣的に行っている。
オカルトが特別好きだとか、妖怪や魔物をこの目で見てみたいからだとかそのような理由ではない。妖怪や魔物に多少は興味はあるが、私がこんなにも狐の窓に思いを寄せている理由、それは”異世界に行きたい”という夢があるからだ。
くだらない、子供じみた夢であることはわかっている。この憧れを抱いたとき、自分のロマンチストさに驚いたくらいだ。けど、決して思い付きで言っているわけではない。私はただひたすらに、この汚く、息苦しい世界から逃げ出したいだけだ。
そう自分の意思を指でなぞるように、四角い夜空を眺めながら再確認した。
この世界の好きなところといったら夜くらいかもしれない。
夜は心地いい。
窓から見える星の瞬きと、藍色で澄んだ夜空の美しさが、幻想的な気持ちにさせる。まるで、この世界に私とこの美しい空しか存在しないのではないかと錯覚したくなるほどだ。夜に窓を覗いているこの時間だけが、一瞬でもあの世界から逃れられた気分になれる。
なのにおかしい。なぜ人間はこんなにも美しい夜を差し置いて、眠りに誘われなければならないのだ。そして、暑苦しい太陽の照らす、昼間に活動しなきゃならないのだ。
夜になると自動的にくるこの眠気もうざったい。早く眠れ、と急かされている気分だ。
私はただ夜空の下でゆっくりと時間を過ぎるのを感じていたいだけなのに。夜が終わって朝がくることを、この時間だけでも否定したいだけなのに。
毛布に潜り、頭に流れてくる不満の数々を考えては消え、考えては消えと繰り返しているうちに、いつの間にか眠りの世界に引きずり込まれていた。
鳥のさえずりが耳から脳に伝わった頃、顔面に強烈な光が当たった。反射的に毛布で顔を守ろうとしたが、もう遅かった。脳みそは一気に活動モードに切り替わっていた。
私の心を煽るように眩しく輝く太陽は元々嫌いだったが、今回の一件でさらに嫌いになった。
スマホの画面を触ると、太陽とは異なる青白い光が目を照らし、反射的に目を瞑った。
画面に表示された、”5:50”の数字を見て思わずため息をつく。起床時間の十分前だ。まだ十分も眠れたというのに、太陽、許さない。
無理矢理眠りの世界へ引きずった挙句、起きる時間の十分前という絶妙な時間に起こしやがって、私の意志などお構いなしに、なんと無慈悲なのだろう。せめて目覚めの良くなる夢でも見せてくれればいいが、そんな記憶もない。
枕元にあった牡丹模様の手鏡を手に取る。くっきりとした目に長いまつ毛、すっと通り主張しすぎない可愛らしい小鼻、分厚すぎず薄すぎずちょうどいいバランスで成立している唇、顎まで伸びたサラサラで真っ黒な黒髪。少々寝癖が気になるが、それを除けば完璧な美少女が、そこに映っていた。その美少女はもちろん私だ。今日も私可愛い。
「朝ご飯できてるから、早く降りてきなさい!」
櫛を取り、鼻歌を歌いながら寝癖を直していると、お母さんの声で我に返った。そうか、今日も学校があるんだった。
学校という名の監獄が。
*****
「おはよー!」
『おはよー牡丹』
得意の作り笑顔で明るく挨拶をする。
『ねー見たー?昨日のテレビ』
「あー見た見た!森健!かっこよかったよねー」
『月6のドラマの最新話もやばかったよね!ガチメロい…』
「わかるーイケメンだった!」
相手に話を合わせる。
森健こと森健太郎は、最近若者に人気な俳優兼アイドルで、今年の国宝級イケメンランキングでトップ5に入るほどの人気っぷりである。
友達の舞美は、この森健の地下アイドル時代からの大ファンで、遠征してイベントに通うほどの森健オタクなのだ。
このように私も話を合わせているが、実際のところ森健になんて興味はないし、そのテレビ番組も大して面白くなかった。ドラマもまだ見れていない。
だが舞美の中で私は”森健ファン”ということになっている。私がそう言及した記憶はないが、適当に相槌を打っているうちにそうなってしまったのだ。
だから私は、舞美からの認識から外れないように、自分の時間を削ってまで見たくもないテレビを毎週見ているのだ。
自分への護身法として。
『うわ…見てあそこ。根暗本また独り言言ってる。きも…』
「あ…ホントだ」
クラスで除け者扱いされている倉本さん。みんなに嫌われていること知っているくせに、なぜ自分を変えようとしないかわからない。周りに合わせれば、今よりは息がしやすくなるだろうに。
私はああはなりたくない。
「おはようー牡丹」
「おはよー!昨日さー」
「牡丹おっは~」
「よっ!牡丹」
「おはよう、牡丹ちゃん」
いろんな声があたりを飛び交う。流れ作業で一つ一つの声を処理していく。
道を歩けば誰かしら声をかけてくる。私はいわゆる人気者だ。
その原因はこの可愛すぎる美貌のせいだろう。みんな”可愛い牡丹と友達”というポジションが欲しいだけ。私はこの顔を誇りに思っているし、可愛さで得をしたこともあったけれど、大体は私の首を絞めることばかり。
みんな本当の私のこと知らないくせに。都合のいいようにレッテルを貼り付けているくせに。
『佐孤、少し頼みがあるんだが』
担任の山田先生。私を都合のいい、いい子ちゃんだと思い込んでいる人。
この人は距離が近すぎるのが好きではないから、礼儀正しく、丁寧な言葉遣いで接さなければならない。
『体育館倉庫から、空いた段ボールを持ってきてほしんだ。お願いできるか』
「わかりました。職員室に届けておきます!」
ペコっと軽く一礼する。先生が職員室に入るのを見送った後、深々とため息をこぼした。
あの担任はなぜいつも私に頼るのだ。ほかにもそこらへんに生徒がゴロゴロいるだろう。てか自分で取りに行けよ。
よりにもよって体育館倉庫なんて。あんな埃っぽいところ行きたくない。が、理由もなく断って機嫌を損ねされるのは極力避けたい。面倒事ほど、関わりたくないものはない。
ゴホゴホッ
体育館倉庫は思っていた以上にじめじめとして埃っぽく、空気が汚染されていた。息を肺に送り込むだけで、咳が止まらなくなる。何年掃除してないんだここ。
この学校の体育館倉庫は校舎から地味に遠くて、ボーボーと生い茂った青臭い草の中を通らなければならない。虫も多いし、植物独特の癖のある匂いがとにかく不快だ。良いところといえば、人気が少ないところくらいだろう。
辺りをざっくり見渡すと、錆びた机といす、昔体育祭で使われていたであろう大玉や大繩、チアダンスで使うようなポンポンが目に入った。ほかにも行事で使われていたらしきものが、息を引き取ったように物寂しく集められていた。
こんなにたくさんものがあるのに、肝心な空の段ボールがない。どの段ボールにも何かしら物が入っている。
適当にひっくり返して持っていけばよいのではと思ったが、埃で手を汚すのは癪なので時間をかけてでも探すことにした。
何分か経ったとき、やっとたたまれた段ボールの束を見つけた。最近置かれたばかりなのか、ほかのものと比べてやけに埃は少ない。昼休みだから時間はあったものの、授業間の休み時間に頼まれていたらきっと見つからなかったに違いない。
すぐにでもこんな空気の悪いところから抜け出そう、そう思い段ボールに手を伸ばした時、「牡丹ちゃん」と背後から声がした。その声と、落ち着いた口調を聞いただけで、心に不快感を覚えた。なんでここに。
恐る恐る後ろを振り返ると、思っていた通りの人がそこにいた。顔を見るとますます嫌悪感が増した。
「祐希…くん…どうしてここに?」
”中村祐希”
学年で一、二を争うと言われているイケメン男子で、モテ男だ。一日最低五人に告白されているという噂もたっているくらいだ。
なぜそんなモテ男が私の目の前にいるのかというと、多分先週の出来事が関係しているのだろう。私は彼に告白されたのだ。もちろん振った。顔がいいという理由だけでも妬まれるのに、人気男子を彼氏にするなんて、言語道断だ。
『あーえっと…君が体育館倉庫に向かうところをたまたま見つけて。ここ物が崩れたりして危ないっていうから、心配でついてきちゃったんだ。勝手についてきて、ごめん…』
「あ…そー…なんだ。心配してくれてありがとう。それじゃあもう用事終わったから…行くね。じゃあね」
動揺がバレないように、いつも通りを演じながら段ボールを手に取って、逃げるように体育館倉庫を後にした。
なぜ彼は私に絡んでくるのだ。断り方が悪かったのか?避けていることにどうして気づかないのだ。もうそろそろ諦めてほしい。未練たらしいのが目に見える。
別に彼のことが嫌いなわけではない。でもできれば関わりたくない。彼はモテ男なのもあってファンが多い。よって私が近くにいたり、彼が私に告白したことを知られると、厄介事に巻き込まれる可能性がある。
それに彼もどうせ、みんなと同じだろう。私の顔だけを見て告白してきたに違いない。私という彼女がいるというステータスを求めているだけだろう。
とにかく彼とは距離を保たなければならない。
*****
『牡丹、じゃあねー』
「じゃあね!また明日」
舞美と別れた後、やっと肩の力が抜けた。作り笑いのしすぎで、顔の筋肉がはちきれそうだ。
それに今日はいろいろ災難だった。いつも以上に気疲れする。
これだから学校は嫌なのだ。気を張ってまで気を遣わなければならない。少しでも周りと違うことをすれば、白い目で見られて、その日のお笑いトークとしてティッシュのように消費される。学校という世界では、浮いた行動をすることが罰に値する。だからみんなと同じ行動をして、砂糖のように周りに溶け込まなければならない。本当に息が詰まる。
これは一種の刑務作業であり、私たちは学校という名の監獄に囚われているのだと、私はそう認識している。
部屋に着くと、私はバッグを放り投げ、ベッドに飛び込んだ。体は鉛のように重く、心も体もひどく疲れ切っていた。
外では私の心を移すように、水が地面を叩く音が鳴り響いていた。さっきまでサンサンと輝いていた太陽は、役目を取った雨雲を嫉むように顔を覗いていた。この水の音が今の私には心地よかった。
水の音を耳に入れ、ボーッとただ月の浮かぶ白い天井を見つめる。すると今日起きた不快な出来事が自然と頭に浮かんでくる。
みんなからの期待に満ちた視線、陰でされる根も葉もない噂、私を都合よく使う先生、未練ったらしい祐希くん、私を嘲笑う冷たい視線。
どれだけ身を削って、どれだけ慎重に言葉選びをして、どれだけ気を遣えばあの空間で呼吸が楽になるのだろう。いったい私の何がいけないのだろう。そんなにみんなとはずれた行動をしていたのだろうか。
明日からも続くあの空気感、あの雰囲気、あの眼差し、あの視線、あの騒がしさ、あの居心地の悪さ、あの場所、あの地獄、あの、あの、あの!
学校に行きたくない。あんなやつらに身を削ってまで気を遣いたくない。もうやだ。なんで私ばかりこんな。あんな何も考えず猿みたいに声を上げて笑ってるやつが羨ましい。
あー異世界に行きたい。
そう心の中で呟いたとき、私の両手は無意識のうちに狐の窓を作っていた。
「けしやうものか、ましやうものか。けしやうものか、ましやうものか。けしやうものか、ましやうものか」
瞬きをして目を開いたとき、私は自分の目を疑いそうになる光景を目にした。
指の間に作られた小さな窓に、森のような山のような雪景色が広がっていたのだ。しとしとと雪が降り積もっている。木々の間には小さく列が見えて、こちらに向かってきているようだった。
今は7月。雪など降っているはずがない。降っていたとして、今自分の部屋の天井を向いている私の指の間に、普通はこのような景色が見えるわけない。
私は声にならない声をあげ、胸いっぱいに満ちた喜びと安堵が涙となって体内から溢れた。
私はとうとう夢にまで見た異世界につながることができたのだ。
いろいろ思うことはあるが、私は黙って狐の窓から見える、一つの参列を見つめた。20~30人程度で構成された行列でゆっくりと一定にペースでこちらに近づいてくる。
先頭に歩く人の様子が見えるほど近づいてきたとき、私は息をのんだ。
そこには白無垢に身を包んだ、黄褐色の狐と、黒五つ紋付き羽織袴を着た、クリーム色に黒が混ざった毛の狐が二足歩行で横に並び歩いていた。後ろには二匹(二人?)を雪から守るように狐が野点傘を差していた。その前には、狐の体の半分くらいの大きさの小孤が、明かりのついた提灯を持って列を率いていた。
狐なのに人間のようなことをするなと、現世とのギャップを感じ、無性にわくわくした。
しばらく狐の行列を見つめていた。非現実な状況を少しでも長く楽しみたかったからだ。
長い狐の行列が、私が覗く窓には見向きもせず(あちらからは見えないのかもしれないが)私の前を通り過ぎていくと、最後尾に一際異なったオーラを放つ白狐がいた。
ほかの狐と異なり、スカイブルーのグラデーションの華やかな袴を身に纏っていた。結晶の模様が刺繡された羽織は、周りの雪が引き立てるように輝いていた。堂々とした雰囲気に、上品な佇まいは、やはりはっきりと周りとの差を見せつけた。
ビクッ
え?
今目が合った?
いやいやそんなまさか…
気のせいだと思いたいのに、体全体の血の気が引き、心拍数は上昇していた。杭に打たれたかのように、その場から動けなかった。
脳にははっきりと残っていたのだ。あの白狐の睨み顔が。獲物を見るような、すべて見透かされているような、鋭さがあった。一瞬たりとも目が離せなかった。
狐の行列が小さくなるまで、私は固まって動けなかった。
真っ白な雪と木と草だけが残ったとき、不気味なほどに静まり返っていた。雨の音も消えていた。
ほっと安堵して、両手を話そうとしたときだった。
目の前を色白い光が包んだ。
何が起きたのかわからず、目をつぶっていることしかできなかった。
頬に冷たい感覚がしたとき、私は目を覚ました。さっきまでベッドの上にいたのに、気づけばふかふかの雪の上に横になっていた。
むくっと立ち上がり、周りを見渡す。服は制服のままだ。まさか、と一つの可能性が頭をよぎったが、私は自分で首を横に振った。
いや、そんなわけがない。少し似ているだけで、どうせ別の場所だろう。”窓の景色”に似ているなんて、あんな場所きっとそこら中にあるはずだ。
でもベッドにいた私が雪の上にいるなんて、これしか考えられない。
いやいや、まさか、本当に叶っちゃうなんて。私、異世界にこれたんだ。やっと夢が叶ったんだ。
けれどどうして、目が合ってしまったからか?
嬉しいはずなのに、どうしてだろう。こんなに不安なのは。こんなに孤独を感じるのは。
「寒い…」
凍える。このままだとやばい。
私はその場にへたりと座り込んだ。
「ここで何している!」
声に反応し顔を上げる。そこには狐の行列で最後尾を歩いていた、あの白狐が立っていた。
声を発しようと口を動かすが、声が出ない。聞きたいことがたくさんあるのに。
視界がぐらつく。パタンとその場に倒れこんでしまったようだ。視界がぼんやりとしている。あの狐が何か言っている気がするけど、何も聞こえない。
ああ、せっかく異世界にこれたのに、私、ここで。
一、両手で狐の形を作ります。
二、右の甲を裏にして、人差し指と小指を重ねます。
三、両手の中指と薬指を伸ばして、人差し指に重ねま
す。
四、中指と薬指に親指を引っ掛けます。
五、呪文を3回唱えます。
「けしやうものか、ましやうものか」
「けしやうものか、ましやうものか」
「けしやうものか、ましやうものか」
これらの工程を間違えずにやれば、この窓からこの世のものでない何かが見えるでしょう。
雨の日にすれば、狐の嫁入りが見れるかもしれません。
ですが、決して、こちらの存在がバレてはいけません。
バレてしまえば、きっとーーー
*****
「けしやうものか、ましやうものか。けしやうものか、ましやうものか。けしやうものか、ましやうものか。」
いつも通り狐の窓を手でつくり、そう唱えて窓を覗く。
見えるのは部屋の白い壁だけ。
無意識にため息が漏れる。
今日もダメだったか。
何度目かもわからない、期待が裏切られるような胸の痛みを抱えながらベッドに潜った。
"狐の窓"
それは、人間に化けた妖怪や狐の正体を見破るために使われる呪術の一つである。特定の形に指を組み、呪文を唱えることで、異界を覗くことができるとも言われている。
しかし、妖怪や魔物に正体を見破ったことを気づかれてはいけない。気づかれてしまえばこちらの身に危険が及んでしまう。そんなおまじないである。
私、佐狐牡丹(さこぼたん)は、この狐の窓を習慣的に行っている。
オカルトが特別好きだとか、妖怪や魔物をこの目で見てみたいからだとかそのような理由ではない。妖怪や魔物に多少は興味はあるが、私がこんなにも狐の窓に思いを寄せている理由、それは”異世界に行きたい”という夢があるからだ。
くだらない、子供じみた夢であることはわかっている。この憧れを抱いたとき、自分のロマンチストさに驚いたくらいだ。けど、決して思い付きで言っているわけではない。私はただひたすらに、この汚く、息苦しい世界から逃げ出したいだけだ。
そう自分の意思を指でなぞるように、四角い夜空を眺めながら再確認した。
この世界の好きなところといったら夜くらいかもしれない。
夜は心地いい。
窓から見える星の瞬きと、藍色で澄んだ夜空の美しさが、幻想的な気持ちにさせる。まるで、この世界に私とこの美しい空しか存在しないのではないかと錯覚したくなるほどだ。夜に窓を覗いているこの時間だけが、一瞬でもあの世界から逃れられた気分になれる。
なのにおかしい。なぜ人間はこんなにも美しい夜を差し置いて、眠りに誘われなければならないのだ。そして、暑苦しい太陽の照らす、昼間に活動しなきゃならないのだ。
夜になると自動的にくるこの眠気もうざったい。早く眠れ、と急かされている気分だ。
私はただ夜空の下でゆっくりと時間を過ぎるのを感じていたいだけなのに。夜が終わって朝がくることを、この時間だけでも否定したいだけなのに。
毛布に潜り、頭に流れてくる不満の数々を考えては消え、考えては消えと繰り返しているうちに、いつの間にか眠りの世界に引きずり込まれていた。
鳥のさえずりが耳から脳に伝わった頃、顔面に強烈な光が当たった。反射的に毛布で顔を守ろうとしたが、もう遅かった。脳みそは一気に活動モードに切り替わっていた。
私の心を煽るように眩しく輝く太陽は元々嫌いだったが、今回の一件でさらに嫌いになった。
スマホの画面を触ると、太陽とは異なる青白い光が目を照らし、反射的に目を瞑った。
画面に表示された、”5:50”の数字を見て思わずため息をつく。起床時間の十分前だ。まだ十分も眠れたというのに、太陽、許さない。
無理矢理眠りの世界へ引きずった挙句、起きる時間の十分前という絶妙な時間に起こしやがって、私の意志などお構いなしに、なんと無慈悲なのだろう。せめて目覚めの良くなる夢でも見せてくれればいいが、そんな記憶もない。
枕元にあった牡丹模様の手鏡を手に取る。くっきりとした目に長いまつ毛、すっと通り主張しすぎない可愛らしい小鼻、分厚すぎず薄すぎずちょうどいいバランスで成立している唇、顎まで伸びたサラサラで真っ黒な黒髪。少々寝癖が気になるが、それを除けば完璧な美少女が、そこに映っていた。その美少女はもちろん私だ。今日も私可愛い。
「朝ご飯できてるから、早く降りてきなさい!」
櫛を取り、鼻歌を歌いながら寝癖を直していると、お母さんの声で我に返った。そうか、今日も学校があるんだった。
学校という名の監獄が。
*****
「おはよー!」
『おはよー牡丹』
得意の作り笑顔で明るく挨拶をする。
『ねー見たー?昨日のテレビ』
「あー見た見た!森健!かっこよかったよねー」
『月6のドラマの最新話もやばかったよね!ガチメロい…』
「わかるーイケメンだった!」
相手に話を合わせる。
森健こと森健太郎は、最近若者に人気な俳優兼アイドルで、今年の国宝級イケメンランキングでトップ5に入るほどの人気っぷりである。
友達の舞美は、この森健の地下アイドル時代からの大ファンで、遠征してイベントに通うほどの森健オタクなのだ。
このように私も話を合わせているが、実際のところ森健になんて興味はないし、そのテレビ番組も大して面白くなかった。ドラマもまだ見れていない。
だが舞美の中で私は”森健ファン”ということになっている。私がそう言及した記憶はないが、適当に相槌を打っているうちにそうなってしまったのだ。
だから私は、舞美からの認識から外れないように、自分の時間を削ってまで見たくもないテレビを毎週見ているのだ。
自分への護身法として。
『うわ…見てあそこ。根暗本また独り言言ってる。きも…』
「あ…ホントだ」
クラスで除け者扱いされている倉本さん。みんなに嫌われていること知っているくせに、なぜ自分を変えようとしないかわからない。周りに合わせれば、今よりは息がしやすくなるだろうに。
私はああはなりたくない。
「おはようー牡丹」
「おはよー!昨日さー」
「牡丹おっは~」
「よっ!牡丹」
「おはよう、牡丹ちゃん」
いろんな声があたりを飛び交う。流れ作業で一つ一つの声を処理していく。
道を歩けば誰かしら声をかけてくる。私はいわゆる人気者だ。
その原因はこの可愛すぎる美貌のせいだろう。みんな”可愛い牡丹と友達”というポジションが欲しいだけ。私はこの顔を誇りに思っているし、可愛さで得をしたこともあったけれど、大体は私の首を絞めることばかり。
みんな本当の私のこと知らないくせに。都合のいいようにレッテルを貼り付けているくせに。
『佐孤、少し頼みがあるんだが』
担任の山田先生。私を都合のいい、いい子ちゃんだと思い込んでいる人。
この人は距離が近すぎるのが好きではないから、礼儀正しく、丁寧な言葉遣いで接さなければならない。
『体育館倉庫から、空いた段ボールを持ってきてほしんだ。お願いできるか』
「わかりました。職員室に届けておきます!」
ペコっと軽く一礼する。先生が職員室に入るのを見送った後、深々とため息をこぼした。
あの担任はなぜいつも私に頼るのだ。ほかにもそこらへんに生徒がゴロゴロいるだろう。てか自分で取りに行けよ。
よりにもよって体育館倉庫なんて。あんな埃っぽいところ行きたくない。が、理由もなく断って機嫌を損ねされるのは極力避けたい。面倒事ほど、関わりたくないものはない。
ゴホゴホッ
体育館倉庫は思っていた以上にじめじめとして埃っぽく、空気が汚染されていた。息を肺に送り込むだけで、咳が止まらなくなる。何年掃除してないんだここ。
この学校の体育館倉庫は校舎から地味に遠くて、ボーボーと生い茂った青臭い草の中を通らなければならない。虫も多いし、植物独特の癖のある匂いがとにかく不快だ。良いところといえば、人気が少ないところくらいだろう。
辺りをざっくり見渡すと、錆びた机といす、昔体育祭で使われていたであろう大玉や大繩、チアダンスで使うようなポンポンが目に入った。ほかにも行事で使われていたらしきものが、息を引き取ったように物寂しく集められていた。
こんなにたくさんものがあるのに、肝心な空の段ボールがない。どの段ボールにも何かしら物が入っている。
適当にひっくり返して持っていけばよいのではと思ったが、埃で手を汚すのは癪なので時間をかけてでも探すことにした。
何分か経ったとき、やっとたたまれた段ボールの束を見つけた。最近置かれたばかりなのか、ほかのものと比べてやけに埃は少ない。昼休みだから時間はあったものの、授業間の休み時間に頼まれていたらきっと見つからなかったに違いない。
すぐにでもこんな空気の悪いところから抜け出そう、そう思い段ボールに手を伸ばした時、「牡丹ちゃん」と背後から声がした。その声と、落ち着いた口調を聞いただけで、心に不快感を覚えた。なんでここに。
恐る恐る後ろを振り返ると、思っていた通りの人がそこにいた。顔を見るとますます嫌悪感が増した。
「祐希…くん…どうしてここに?」
”中村祐希”
学年で一、二を争うと言われているイケメン男子で、モテ男だ。一日最低五人に告白されているという噂もたっているくらいだ。
なぜそんなモテ男が私の目の前にいるのかというと、多分先週の出来事が関係しているのだろう。私は彼に告白されたのだ。もちろん振った。顔がいいという理由だけでも妬まれるのに、人気男子を彼氏にするなんて、言語道断だ。
『あーえっと…君が体育館倉庫に向かうところをたまたま見つけて。ここ物が崩れたりして危ないっていうから、心配でついてきちゃったんだ。勝手についてきて、ごめん…』
「あ…そー…なんだ。心配してくれてありがとう。それじゃあもう用事終わったから…行くね。じゃあね」
動揺がバレないように、いつも通りを演じながら段ボールを手に取って、逃げるように体育館倉庫を後にした。
なぜ彼は私に絡んでくるのだ。断り方が悪かったのか?避けていることにどうして気づかないのだ。もうそろそろ諦めてほしい。未練たらしいのが目に見える。
別に彼のことが嫌いなわけではない。でもできれば関わりたくない。彼はモテ男なのもあってファンが多い。よって私が近くにいたり、彼が私に告白したことを知られると、厄介事に巻き込まれる可能性がある。
それに彼もどうせ、みんなと同じだろう。私の顔だけを見て告白してきたに違いない。私という彼女がいるというステータスを求めているだけだろう。
とにかく彼とは距離を保たなければならない。
*****
『牡丹、じゃあねー』
「じゃあね!また明日」
舞美と別れた後、やっと肩の力が抜けた。作り笑いのしすぎで、顔の筋肉がはちきれそうだ。
それに今日はいろいろ災難だった。いつも以上に気疲れする。
これだから学校は嫌なのだ。気を張ってまで気を遣わなければならない。少しでも周りと違うことをすれば、白い目で見られて、その日のお笑いトークとしてティッシュのように消費される。学校という世界では、浮いた行動をすることが罰に値する。だからみんなと同じ行動をして、砂糖のように周りに溶け込まなければならない。本当に息が詰まる。
これは一種の刑務作業であり、私たちは学校という名の監獄に囚われているのだと、私はそう認識している。
部屋に着くと、私はバッグを放り投げ、ベッドに飛び込んだ。体は鉛のように重く、心も体もひどく疲れ切っていた。
外では私の心を移すように、水が地面を叩く音が鳴り響いていた。さっきまでサンサンと輝いていた太陽は、役目を取った雨雲を嫉むように顔を覗いていた。この水の音が今の私には心地よかった。
水の音を耳に入れ、ボーッとただ月の浮かぶ白い天井を見つめる。すると今日起きた不快な出来事が自然と頭に浮かんでくる。
みんなからの期待に満ちた視線、陰でされる根も葉もない噂、私を都合よく使う先生、未練ったらしい祐希くん、私を嘲笑う冷たい視線。
どれだけ身を削って、どれだけ慎重に言葉選びをして、どれだけ気を遣えばあの空間で呼吸が楽になるのだろう。いったい私の何がいけないのだろう。そんなにみんなとはずれた行動をしていたのだろうか。
明日からも続くあの空気感、あの雰囲気、あの眼差し、あの視線、あの騒がしさ、あの居心地の悪さ、あの場所、あの地獄、あの、あの、あの!
学校に行きたくない。あんなやつらに身を削ってまで気を遣いたくない。もうやだ。なんで私ばかりこんな。あんな何も考えず猿みたいに声を上げて笑ってるやつが羨ましい。
あー異世界に行きたい。
そう心の中で呟いたとき、私の両手は無意識のうちに狐の窓を作っていた。
「けしやうものか、ましやうものか。けしやうものか、ましやうものか。けしやうものか、ましやうものか」
瞬きをして目を開いたとき、私は自分の目を疑いそうになる光景を目にした。
指の間に作られた小さな窓に、森のような山のような雪景色が広がっていたのだ。しとしとと雪が降り積もっている。木々の間には小さく列が見えて、こちらに向かってきているようだった。
今は7月。雪など降っているはずがない。降っていたとして、今自分の部屋の天井を向いている私の指の間に、普通はこのような景色が見えるわけない。
私は声にならない声をあげ、胸いっぱいに満ちた喜びと安堵が涙となって体内から溢れた。
私はとうとう夢にまで見た異世界につながることができたのだ。
いろいろ思うことはあるが、私は黙って狐の窓から見える、一つの参列を見つめた。20~30人程度で構成された行列でゆっくりと一定にペースでこちらに近づいてくる。
先頭に歩く人の様子が見えるほど近づいてきたとき、私は息をのんだ。
そこには白無垢に身を包んだ、黄褐色の狐と、黒五つ紋付き羽織袴を着た、クリーム色に黒が混ざった毛の狐が二足歩行で横に並び歩いていた。後ろには二匹(二人?)を雪から守るように狐が野点傘を差していた。その前には、狐の体の半分くらいの大きさの小孤が、明かりのついた提灯を持って列を率いていた。
狐なのに人間のようなことをするなと、現世とのギャップを感じ、無性にわくわくした。
しばらく狐の行列を見つめていた。非現実な状況を少しでも長く楽しみたかったからだ。
長い狐の行列が、私が覗く窓には見向きもせず(あちらからは見えないのかもしれないが)私の前を通り過ぎていくと、最後尾に一際異なったオーラを放つ白狐がいた。
ほかの狐と異なり、スカイブルーのグラデーションの華やかな袴を身に纏っていた。結晶の模様が刺繡された羽織は、周りの雪が引き立てるように輝いていた。堂々とした雰囲気に、上品な佇まいは、やはりはっきりと周りとの差を見せつけた。
ビクッ
え?
今目が合った?
いやいやそんなまさか…
気のせいだと思いたいのに、体全体の血の気が引き、心拍数は上昇していた。杭に打たれたかのように、その場から動けなかった。
脳にははっきりと残っていたのだ。あの白狐の睨み顔が。獲物を見るような、すべて見透かされているような、鋭さがあった。一瞬たりとも目が離せなかった。
狐の行列が小さくなるまで、私は固まって動けなかった。
真っ白な雪と木と草だけが残ったとき、不気味なほどに静まり返っていた。雨の音も消えていた。
ほっと安堵して、両手を話そうとしたときだった。
目の前を色白い光が包んだ。
何が起きたのかわからず、目をつぶっていることしかできなかった。
頬に冷たい感覚がしたとき、私は目を覚ました。さっきまでベッドの上にいたのに、気づけばふかふかの雪の上に横になっていた。
むくっと立ち上がり、周りを見渡す。服は制服のままだ。まさか、と一つの可能性が頭をよぎったが、私は自分で首を横に振った。
いや、そんなわけがない。少し似ているだけで、どうせ別の場所だろう。”窓の景色”に似ているなんて、あんな場所きっとそこら中にあるはずだ。
でもベッドにいた私が雪の上にいるなんて、これしか考えられない。
いやいや、まさか、本当に叶っちゃうなんて。私、異世界にこれたんだ。やっと夢が叶ったんだ。
けれどどうして、目が合ってしまったからか?
嬉しいはずなのに、どうしてだろう。こんなに不安なのは。こんなに孤独を感じるのは。
「寒い…」
凍える。このままだとやばい。
私はその場にへたりと座り込んだ。
「ここで何している!」
声に反応し顔を上げる。そこには狐の行列で最後尾を歩いていた、あの白狐が立っていた。
声を発しようと口を動かすが、声が出ない。聞きたいことがたくさんあるのに。
視界がぐらつく。パタンとその場に倒れこんでしまったようだ。視界がぼんやりとしている。あの狐が何か言っている気がするけど、何も聞こえない。
ああ、せっかく異世界にこれたのに、私、ここで。
