通学路にある神社の階段を、1段ずつ駆け上がっていく。
 ここの階段は角度が急らしいが、私はもうすっかり慣れてしまって、何も感じない。

 生まれた時からずっと見てきた景色だから仕方ないね。

「あー、部活疲れたなぁ……」

 そう言って大きく伸びをすると、隣で笑い声が聞こえた。

「忙しいって言ってたくせに、いざ入部したら毎回出席するとか夕芽(ゆうめ)は律儀すぎ」 
「まぁ…そう言われちゃったら、否定できませんね!」
「潔いのか悪いのか」  
 
 時刻は既に夕暮れ。私とこの人──同じ部に所属する湊先輩は、仲良く下校中ってところだ。
 
 家はこっちの方向じゃないのに毎回部活終わりは、わざわざ送ってくれる。律儀すぎるのは私じゃなく、間違いなく湊先輩の方。
  
「また明日の参加もお待ちしてますよ、夕芽さん」
「何の真似ですか、湊先輩」  
「…よくいる感じの先輩?」
「ふふっ」 

 そんな“いつも通り”を繰り返すみたいに演じ続ける私を、見ないようにしていた現実が引き止めた。

 辺りの空気が、少し澱んだ気配。
 
 次の瞬間、他人の強い絶望の感情が、私に流れ込んでくる。
 真下にできた深い深い沼に、引きずり込まれるかのような不快感に息を呑み込んだ。
 
 ここまで強い感覚は久しぶりだからか、そりゃあもう気分は良くない。
 
 致命傷にもなり得るような泥の重みに、改めて確信を持った。
 これは……、一刻も早く何とかしなければ。

 今日のところは急いで解散して、帰った方が良さそうだ。

 そう思って顔を上げると、私を不安そうに覗き込む湊先輩と目が合った。

「──夕芽? 顔色悪いよ」
「あ、湊先輩。すみません、お話の途中だったのに」
「そんなことはいいよ。それより夕芽、また“悪夢”?」
「はい…、見苦しいところをお見せしました」
 
 平気な顔をして誤魔化そうとしていたのに、湊先輩にはバレバレだったみたい。


 …気づかれてしまった。

 
 湊先輩の言った“悪夢”は、私がさっき感知した 沼のような心の傷(トラウマ) のことだ。
 酷いものだと、命に関わることもある。

 
 本当は“悪夢”のことは部外者たる湊先輩に、話すつもりなんてなかった。
 …のに、以前同じ状況になった時にものすごく心配されたから、ついつい口を滑らせてしまった。


 そこからは、こうして毎回“悪夢”を感知したことを見破られてしまっている。

「夕芽。無理して笑わないで」
「…っ何言ってるんですか? 私は」 
「嘘」
 
 湊先輩は、いっつも私が必死に積み上げてきた私を壊す。

 無理なんかしていない。確かに強い“悪夢”ではあるけれど、この程度じゃ負けない。
 
 私は至って平気だし、笑いたくて笑ってるんだ。

 
 なのに。それすら、湊先輩のたったひとことで揺らぐのだ。
 
「その…、俺、夕芽が好きだよ。ずっと前から好きだった。だから、俺の前でだけは、そんな顔させたくない」
「ごめんなさい」 

 若干の罪悪感を覚えながらも、先輩の告白をばっさりと切り捨てる。
 先輩が暗に作り笑顔だと言ったものは、既に私の顔から抜け落ちていた。
 
「…夕芽はそう言うと思った」
「そうですか、湊先輩には全部お見通しですね」 
「そうだよ、お見通しだよ」
 
 もちろん、湊先輩のことは大切に思っている。

 だけど、だからこそ、好きになるのが怖い。

 
 この気持ちに恋という名前をつけてしまったら、誰にも見つからないように隠して守ってきた自分が、弱くなってしまいそうで。脆くなってしまいそうで。

 私は先輩の気持ちに応える訳にはいかない。

「俺さ、夕芽が思うより夕芽のこと知ってる。…()()のことも知ってるよ」
「──え」

 どうして、どうして、その名前を、どうして、湊先輩が。

 他の人の口からは聞くはずのない単語に、体が強張った。
 夢乃という2文字に詰まった記憶が、一気にフラッシュバックする。

 ほんの一瞬の間にすれ違った風景たちに、ありもしない古傷が痛んだ。気がした。
 
 
 まさか、仮にも振られたのに傷つく様子もなく、いつもと同じ態度なのは、そこまで見抜いていたから…?

「ねえ、夕芽。俺といる時間は、君の生きたいように生きてよ」

 遠い昔にしか向けられたことのない、真っ直ぐな愛情に、私はどうしていいか分からずに立ち尽くすことしかできなかった。