ベルと同時に魚屋のおじさんが黄色い「半額」シールを次々と貼り付け始めた。
 低い男性の興奮の声が上がり、待ち構えていた人々の手が、一斉に商品へと伸びる。

「おい、押すなって」
「待って、それ。私の!」
 先ほどまでの沈黙が嘘のように鮮魚コーナーは大パニックに。
 
 綾香もハイヒールの底に力を込め、カニのパックに手を伸ばした。
 指先が冷たいプラスチックと、カニのトゲトゲの感触に触れた瞬間、強い力で突き飛ばされる。

「……え?」
 綾香の頭の中は一瞬で真っ白になった。
 この予期せぬ危機に対処する方法がまったく思いつかない。
 バランスを崩した綾香は、さらに前後左右から押され、ハイヒールが地面についているのかついていないのか、それさえわからない状態になってしまった。

 マズい。転ぶ!
 わずかな隙間を身体がすり抜け、綾香はひっくり返りそうに。
 尻もちをつくことを覚悟した綾香はギュッと目を閉じた。

「危ない!」
 耳元で低い男性の声が響いた瞬間、強引に身体の向きが変えられ、綾香の目の前はネイビーに。
 綾香の頬は、男性のニット越しの温かい胸板に押し付けられた。

「大丈夫か? 怪我は?」
 彼から漂う匂いは、香水の冷たさではなく、石鹸とコーヒー豆のような清潔で生活感のある匂い。
 そんな冷静な分析をしたあと、綾香はようやく我に返った。

「……靴が」
 ない気がする。
 気のせいでなければ、片足だけ低くて足が冷たい。

 ゆっくり振り返ると、戦場で踏み潰された綾香の10センチヒールは無惨な姿になっていた。

「ここで待っていろ」
 男性は戦場から綾香のヒールを取ってきてくれる。
 ポッキリ折れたヒールを見せながら気まずそうにする男性を見た綾香は、予期せぬ出来事が多すぎてもう笑うしかなかった。