向こう側の人はきっと刺身狙い。
 こちら側でカニを狙いそうなのは、あの男性くらい?

 年齢は綾香と同じか少し年上。
 ネイビーのシンプルなニットにチノパン。前髪はやや長めだけれど清潔感がある。
 このスーパーの中では少し異質かもしれない。
 ハイヒールにスーツの私ほど異質ではないけれど。
 
 ジッと観察してしまったせいで、綾香は彼と目が合ってしまった。
 彼の瞳は静かで、競争心とは無縁。
 綾香は彼をライバルではない人に分類し、すぐに視線をカニに戻した。

 半額シールが貼られるまであと二分。
 あのカニは誰にも渡さない!
 綾香は腕時計を確認すると、大きく深呼吸をした。

    ◇

 スーパー『フレッシュ・マート』の鮮魚コーナーは、異様なほどの静寂に包まれていた。
 黄色い光が分厚いガラスケースの中の魚介類をぼんやりと照らしている。
 この静寂は、狩りを始める前のハンターたちが互いを牽制し合う、戦意の沈黙だ。

 悠斗は少し離れた場所からハンターたちを見つめた。
 このスーパーはローカルだが鮮魚コーナーに力を入れていて、内臓やエラの除去はもちろん、臭みや水っぽさを防ぐ工夫をする丁寧な店だという印象だった。
 魚の状態に合わせた温度管理はもちろん、血抜きなどの一次処理も丁寧、刺身は切り方が均一で美しく、食べる時の食感を考慮している。
 
 さらに魅力なのはこの夜8時の半額セール。
 この時間まで売れ残ってしまったもの限定だが、その日半額で買ったものを思い付きの方法で調理し、SNSに投稿する。
 それが仕事のあとの悠斗の趣味であり、楽しみだった。
 
 なんとなくいつも見慣れた人たち。
 のはずが、悠斗は場違いなほど完璧なスーツ姿の女性の姿に驚いた。
 彼女のハイヒールは冷たいタイルにしっかりと根を張り、獲物であるボイルズワイガニのパック一点を射抜いている。
 
「すごい集中力だな」
 カニひとつに、そこまで必死になるのか?

 悠斗は肩をすくめると、腕を組みながら近くの陳列棚に寄りかかった。
 
 視線を感じた悠斗が顔を上げると、うっかり女性と目が合う。
 女性はすぐにカニに視線を戻したが、深呼吸する姿が妙におかしかった。

「まさか、初心者?」
 悠斗は慌てて背中を棚から離す。
 女性に忠告しに行こうとした瞬間、8時のタイムセールのベルが鳴り響いた。