公園の展望台には、ほかに誰の姿もなかった。
風が木々を揺らす音と、遠くの車の流れるような走行音だけが聞こえる。

まるで、世界の光と音がふたりのためだけに残っているような夜だった。

「……相沢、ちょっとこっち」

宏樹が、カメラのファインダーを覗きながら手招きした。

優花はそっと近づく。
すると、予想以上に近い距離だった。
肩が触れるか触れないか——いや、少し触れた。

冷たい風が吹いた瞬間、逆にその触れ合った部分だけ温かく感じた。

「この構図、見てみる?」

宏樹はカメラの背面モニターを指さし、
それを優花が覗き込めるように身体を寄せてきた。

画面には、優花の視界とはまったく違う世界が広がっていた。

光の筋が流れ、街の灯が宝石のように散りばめられ、
夜が息を呑むほど美しく切り取られていた。

「……すごい。こんなふうに見えるんですね」

「うん。
 でも相沢が言った“雨の日の路面の光”も、ちゃんと入る位置を探してみたんだ」

「えっ……私のために?」

宏樹は少しだけ、照れたように目を逸らした。

「まあ……相沢が喜ぶかなって思って。
 今日の撮影は、相沢に楽しんでほしかったから」

胸の奥がじんわり熱くなった。
風で冷えた指先とは対照的に、心の中心が温かく灯る。

(宏樹……こんなふうに思ってくれていたんだ。)

優花が言葉を探していると、
宏樹がカメラを彼女の手にそっと触れさせた。

「触ってみる? 怖くないよ。落としても怒らないから」

「え、落とさないです!」

「はは、知ってるよ」

彼の冗談に優花が笑うと、
宏樹は、優花がカメラを構えやすいように、
彼女の手に自分の手を添えた。

——瞬間、空気が変わった。

肩よりも、手の触れ合いよりも、
その温度が胸に直接伝わってくる。

「……こう持つと安定する。
 指はここ。息を止めて——はい、撮ってみて?」

「は、はい……」

優花はシャッターを押した。

——カシャ。

画面には、先ほど見た世界とはまた違う、
優花自身の視点で切り取られた夜景が写っていた。

「すごい……私が撮ったのに、私の目じゃないみたい」

「それが写真の面白いところ。
 ……相沢の感性は、俺、結構好きだよ」

その言葉は、夜景のどんな光よりも眩しかった。

優花は思わず横顔を見た。
宏樹も、ちょうど優花の方を見ていた。

目が合った瞬間——
冷たい夜気の中で、ほんの一秒、時が止まったような気がした。

宏樹はほんの少し、声を低くして続けた。

「相沢と一緒に来てよかった。
 ……今日、誘って本当に正解だったと思う」

優花の呼吸が浅くなる。

(そんなこと……言われたら。)

夜景の光も、風の音も、今はすべて背景になっていく。

二人を包むのは、静かな夜と、互いの鼓動だけ。

「俺、こうやって好きなことを誰かと共有したの……初めてなんだ。
 相沢だから、話したくなった」

(……宏樹。)

優花は答えようとした。
でも声にならなかった。

胸が熱く、その温度が喉の奥にまで満ちてしまったから。

宏樹は、優花が俯いたのを心配したのか、少しだけ覗き込むようにして言った。

「寒い? それとも……疲れた?」

「い、いえ……違います。
 ただ……嬉しくて、ちょっとドキドキしてるだけです」

言った瞬間、空気がまた変わった。
今度は——さらに近く、やわらかい。

宏樹の表情がゆっくりほどけていく。

「……そうか。
 俺も、同じ気持ちかもしれない」

夜景がきらめく中、
ふたりの距離は、確かに一歩……いや、半歩、近づいた。