土曜日の夜。
電車を降りた瞬間、空気の温度が一段下がったように感じた。

優花は、駅前に広がる静かな高台の街並みを見渡した。
都心から少し離れただけで、空気が澄んでいる。
どこか、物語が始まる前触れのような匂いがした。

黒のタートルネックに落ち着いた色のフレアスカート、
その上にトレンチコートを羽織った自分の姿は、鏡で何度も確認してきたものだ。
しかし、改札を抜ける瞬間だけは、どうしても胸が高鳴ってしまう。

(……いる。)

五分前。
指定された改札を出ると、すぐに宏樹の姿が目に入った。

柱のそばに立ち、
人混みの向こうを探すように視線を向けている。

黒のジャケット、グレーのチノパン。
そして胸元には、あの日と同じ、小型の一眼レフ。

彼が優花に気づいた瞬間——
ふっと、表情が緩んだ。

「相沢!」

あの、優しく名前を呼ぶ声。
二次会よりもずっと自然で、親しい響きだった。

「宏樹、お待たせしました」

「いや、俺の方が早く来ただけ。……寒くない? 今日、思ったより風が強いから」

そう言うと、宏樹は自分の横に置いていた紙袋を差し出した。

「これ、よかったら」

優花が受け取ると、中には新品の貼るカイロと、厚手のふわふわしたストール。

「……こんなに準備してくれたんですか?」

「相沢、寒がりだろ? 高台は冷えるって聞いたからさ。
風邪ひかれたら、俺、美咲に本気で怒られるから」

冗談めかして言いながらも、
その表情はまっすぐで、気遣いが滲み出ていた。

優花はストールを肩にかけ、そっと身体を包み込む温かさに微笑む。

「ありがとう。すごく……暖かいです」

「よかった。……それに」

宏樹は少しだけ視線を上下に滑らせ、穏やかに言った。

「相沢、その服……すごく似合ってる。
夜景、きっと映えると思う」

一瞬、胸が跳ねる。
準備に費やした時間がすべて報われた気がした。

「ありがとうございます。宏樹も、とても素敵です。
その……カメラ、今日も一緒なんですね」

「うん。今日は相沢と撮るために持ってきた。
あ、もしよかったら——これ」

リュックから取り出されたのは、小型の三脚。

「昔使ってたやつだけど、相沢が自分で撮りたくなった時に便利だと思って。
手ブレもしにくいし、初心者でも綺麗に撮れる」

(……どうしてこんなに。)

準備の細やかさ。
言葉の端々から感じる、“この時間を大事に思っている”気持ち。

優花の胸が、じんわりと熱くなる。

「ありがとうございます。
実は……少しだけカメラの勉強してきたんです」

宏樹の目が驚きで見開かれ、次の瞬間、ふわりと笑った。

「そうなのか。……それは嬉しいな。
じゃあ、一緒に色々試そう。ほら」

宏樹は駅から伸びる坂道を指さす。

「あの坂を抜けると、今日のメインスポット。
雨の日の路面が綺麗に光る場所——探したんだ。
相沢が好きって言ってたから」

胸の奥で、静かに何かがほどけた。

「……ありがとうございます。
行きましょう」

並んで歩き始めると、
肩が触れるか触れないかの距離が心地よかった。

都会の喧騒から離れた、静かな夜の高台。
足音と、風に揺れる木々の音だけが二人の空間を満たす。

その一歩一歩が、
新しい関係へ進むための階段のように感じられた。