健太が別のテーブルに戻り、
にぎやかな空間の中で、優花と宏樹だけが取り残された。

音楽も笑い声も、確かに聞こえているはずなのに、
二人の周囲だけ、どこか別の空気が流れている。

宏樹はウィスキーを飲み干し、
グラスを置くと、ゆっくりと優花に向き直った。

「さっきは……ごめん。健太、悪い癖なんだ。
 あいつ、ああいう“昔話”をやたら掘り返すから」

「大丈夫ですよ。少し懐かしかったですし」

優花が穏やかに返すと、宏樹は短く息を吐き、
何かを決めたように口を開いた。

「……でも、俺、ああいう“モテたとかモテないとか”の話、
 本当に興味ないんだ。学生の頃は自分のことなんてわかってなくてさ。
 今思えば、全然中身がなかった」

彼は一度テーブルを見つめ、
それから、ゆっくりと優花の瞳に視線を戻す。

「今の俺が求めてるものは、昔とは全然違う」

優花は息をのんだ。
核心に踏み込む予感がしたからだ。

「……昔と、求めるものが変わった、ということですか?」

その言葉に、宏樹は驚いたように目を丸くし、
やがて、静かに頷いた。

「そう。
 今欲しいのは、ただ一緒に笑って騒げる相手じゃない。
 仕事で疲れて帰った時、静かに隣にいてくれる、
 心の平穏なんだ」

優花の心臓が、ゆっくりと音を立てる。

「昔は、刺激的な女性に惹かれてたかもしれない。
 でも今は違う。
 俺の言葉を全部理解しなくていい。
 励まさなくていい。
 ただ“そこにいてくれる”……そんな安定感を持つ人がいい」

その横顔は、
披露宴で見た仕事の責任を背負う大人の顔ではなく、
どこか弱さをさらした、等身大の宏樹だった。

(安定感……心の平穏……)

優花は、自分の胸の奥で何かが柔らかく灯るのを感じた。
宏樹が求めているのは、
華やかな誰かではない。

むしろ――
優花がずっと悩んでいた「地味で真面目な自分」そのものだった。

「そういう女性なら……
 宏樹の周りにも、たくさんいると思いますけど」

試すような言い方になった。
勇気と不安が入り混じっていた。

宏樹は苦笑し、グラスの氷を回す。

「どうだろうな。
 周りは皆、自分のことでいっぱいで、
 俺の弱音なんて重荷にしかならないと思ってしまう。
 ……それに、俺は昔から、誰かに甘えるのが苦手なんだ」

甘えたい。
でも甘え方がわからない――
そんな孤独が、言葉の隙間から滲んだ。

優花は、そっと息を吸い、勇気を出して言った。

「話すだけで少し楽になるなら……
 私は、いつでも話を聞きますよ。
 ただ、聞いてあげるだけでしたら」

宏樹は一瞬、言葉を失ったように優花を見つめた。

そして――
ゆっくりと、堪えるように微笑んだ。

「……ありがとう、相沢。
 本当に……その言葉、心強い」

その声音は、
冗談でも、礼儀でもない。

“相沢は、自分にとって特別な存在だ”
そう静かに告げる響きを含んでいた。

二人の距離が、またひとつ縮まっていく。



その時だった。

宏樹が、
指先でそっと優花のカクテルグラスの縁を触れた。

「……相沢。
 さっきから、俺の話ばかり聞かせて悪いな。
 でも……もう少しだけ……話してもいいか?」

その声音は、
“この人に甘えてもいいんだろうか”
という迷いと、
“本当はもっと一緒にいたい”
という願いが混ざり合っていた。

優花は、その揺らぎごと、微笑みで受け止めた。

「もちろんです。
 宏樹の話なら、もっと聞きたいです」

宏樹は、小さく息を吐いた。

その表情は、
“誰かに心を預ける準備が整った人の顔”
だった。