優花と宏樹が、昔の失敗談で笑い合い、
二人だけの穏やかな空間に浸っていたちょうどその時――。

「おーい! 二人だけ世界入ってんぞ!」

健太(友人)がビール片手にずいっと割り込んできた。
軽い冗談のはずなのに、優花は思わず肩を跳ねさせる。

「馬鹿言うなよ。ちょっと仕事の愚痴を聞いてもらってただけだ」
宏樹は笑って答えたが、どこか照れたような声音だった。

「へぇ〜? 宏樹が愚痴る相手なんて、美咲か俺くらいだと思ってたけど?
 優花にはいい顔するよな、昔から」

その一言に、優花の胸は一瞬でざわついた。
からかい半分の言葉なのに、妙に核心を刺す。

そして――健太は優花の耳元にしか届かないほどの、低い声で。

「そういやさ宏樹、ちょっと真面目な話していい?
 お前、学生時代けっこうモテてただろ。
 優花も含めて、お前のこと好きだった奴、割といたんだぜ?」

――心臓が止まった。

カクテルの甘さで温まっていた頬が、
一気に冷えるのが分かった。

(健太……どうして今それを言うの……?)

優花は呼吸を忘れ、宏樹の表情を必死に追った。
彼は、驚いたように優花を一瞬だけ見たが、
すぐに視線を逸らし、グラスに口をつける。

「やめろよ、健太。そんな昔話、覚えてないし」
笑いながら否定した声は、少しだけ硬い。

「またまた〜! バレンタインの数、すごかったじゃん!」

「忘れたって言ってるだろ」

明らかに、話題を打ち切るための調子だった。
それ以上は掘らせない――そんな静かな強張り。

(……守ってくれてる?
 それとも、本当に覚えていないの?)

優花の心は、ざわめきと安堵の狭間で揺れた。

宏樹はすぐに話題を切り替える。

「それよりさ、健太。二次会のサプライズって何を仕込んだわけ?」

「あ、そうそう! 聞いてくれよ宏樹!」

健太はあっさり話題に飛びつき、
ふざけたテンションで仲間の方へ戻っていった。

残されたのは、優花と宏樹、
そしてさっきの言葉の余韻。

優花は、小さく息を吐いた。

(助けてくれた……のかな?
 “忘れた”って、本当?
 それとも……思い出したくなかっただけ?)

宏樹の横顔を見ると、
彼はグラスの氷をゆっくり回しながら、
明らかにさっきより静かな表情をしていた。

その横顔には――
優花の想いに気づいた過去を、軽く触れられたくなかったような繊細さ
があった。



✦ 数行の続き(感情の「揺れ」が恋へ転じる導入口) ✦



そんな宏樹が、不意に小さく笑って言った。

「……健太のやつ、ほんっと空気読まねえよな。
 相沢、嫌な思いさせたなら、ごめん」

優花は、胸の奥がぎゅっと温かくなるのを感じた。

「いえ……大丈夫です。
 むしろ、宏樹が……守ってくれたように聞こえたから」

そう言うと、宏樹は一瞬だけ動きを止め、
ゆっくりと優花の方を向いた。

柔らかい照明が、彼の瞳に落ちる。

「……さっきのは、そういうつもりじゃなかったけど。
 でも……相沢が嫌がることは言わせたくなかった」

その言葉はとても静かで、
けれど冗談ではなく、はぐらかしでもなく、
真っ直ぐに優花に向けられていた。

優花は気づく。

――宏樹は「過去」には触れたくなかった。
――けれど「今の優花」を傷つけたくない気持ちは、はっきりとある。

その違いが、胸の奥でじわりと熱を広げた。