優花がカメラの話題を振った――ただそれだけで、
宏樹の表情は驚くほど鮮やかに変わった。

ほんの数分前まで、仕事の重圧を抱えた大人の顔をしていたのに、
今は、興味の話題に心を奪われた少年のような眼差しになっている。

「よく気づいたね、相沢。あれ……最近ハマってるんだ。
始めたのは、去年の冬くらいかな」

宏樹は自然と優花の方へ体を向け、話しながら前のめりになる。

「仕事で頭が疲れすぎた時期があってさ。
もう何もかも嫌になりそうで……。
だから、“誰にも邪魔されない時間”が欲しくて、思い切って一眼レフを買ったんだ」

「へえ……宏樹にしては意外です。ずっとスポーツのイメージが強かったから」

「そうだろ?」
宏樹は苦笑しながらも、どこか誇らしげだ。

「でも、これが想像以上に面白くて。特に夜景が。
三脚立てて長時間露光すると、街の光が線になって流れていくんだ。それが……妙に癒されるんだよ。
静かで、誰もいない時間。今の俺には、それが必要だった」

その言葉に、優花の胸が静かに揺れた。

(静かで、誰にも邪魔されない時間……)

それは、仕事に追われる人間なら誰もが欲しがる“避難場所”。
その感覚を、優花も痛いほどわかっていた。

「夜景って、素敵ですよね」
優花はそっと言葉を返した。

「私も、深夜のオフィスビルから見下ろす街の光が好きで……。
人の気配が薄れて、光だけが残っていくあの感じ、なんだか心に沁みるんです」

宏樹の目が、ぱっと見開かれた。

「相沢も……? ほんとに?」

「はい。好きです」

すると宏樹は、堪えきれないように微笑み、グラスを置いた。

「俺も、人の動きじゃなくて“生活の光”が好きなんだ。
雨の日の路面とか、タクシーのテールランプの反射とか……
ああいう、一瞬なのに美しいものを撮れると、気持ちが軽くなる」

「あ……それ、わかります!
雨の日のネオンが水たまりに揺れるの、私も大好きで……!」

二人の声が自然と重なる。

同じ“夜の光”を美しいと思う感覚が、
まるで秘密を共有したみたいに二人を近づけていく。

宏樹は、ぽつりと本音をこぼすように言った。

「……まさか相沢と、こんな話ができるとは思わなかったよ。
周りの友達に言っても、『また地味な趣味始めたな』って笑われるだけでさ。
でも相沢は……俺が“何を綺麗だと思ってるのか”を理解してくれるんだな」

その言葉に、優花の胸がじんわりと熱くなる。

(理解してくれる――その一言が、どれだけの意味を持つのか。)

宏樹にとって、これはただの趣味の話ではない。
“今の宏樹”を丸ごと認めてくれる相手を見つけた瞬間なのだ。

優花は、勇気を出して言った。

「宏樹の写真……見てみたいです。
私も、夜景撮影……挑戦してみようかな」

その瞬間。

宏樹は、驚きと喜びが混ざった目で優花を見つめた。

そして、ほんの少し照れたように息を吸う。

「……じゃあ、もしよかったら。
今度、一緒に撮りに行ってみないか?」

あまりにも自然な声音なのに、
内容はほとんど“デートの誘い”だった。

優花の心臓が、瞬間的に跳ねる。

「え……」

「教えられるほどじゃないけどさ。一人より、二人の方が楽しいと思って」

その真剣な目を見た瞬間、優花は悟った。
——これは、社交辞令ではない。

「……ぜひ。あ、よかったら……連絡先、交換しませんか?
グループチャットだと流れちゃうので」

勇気を振り絞った問いかけに、
宏樹は小さく笑って、迷いなくスマホを取り出す。

「ああ、もちろん。その方が確実だ」

スマホを手渡され、優花は震える指で自分の名前を入力する。

「……登録、できました」

「ありがとう、相沢」

画面に並んだ二人だけのトーク画面。
それは、五年間の空白を一瞬で埋めてしまうほどの距離の近さだった。

——この瞬間。
二人の関係は、“友人グループの中の一人”から、
確かに一歩、踏み出した。

趣味という共通点が導いた本音の繋がりが、
静かに、しかし確実に
恋の予感へと形を変え始めていた。