夜が深くなると、ヴァンディール公爵家の館には静寂が戻る。

 召使いたちは早々に退けられ、廊下には誰の気配もない。

 だが、その静けさこそがクラリッサにとって最も落ち着ける時間だった。



 絹の寝間着に身を包み、広い書斎にひとり。

 書棚には魔法書、政略史、貴族関係の黒書。

 机の上には、舞踏会の夜から流れてきた情報のメモが散らばっていた。



「……早かったわね、ミリア嬢の登場」



 クラリッサは呟くと、扇子を閉じてソファにもたれた。

 ため息ひとつ。けれどその吐息に、未練も悲しみもない。



 思い通りにならない人生なんて、もう何度目かしら。



 失敗とは思わない。

 むしろ、あの夜でようやく自由を手に入れたとすら思っている。



 だが。



「……問題は、第二王子の視線、かしら」



 レオニス・ルフェリア。

 王太子アレクとは異母兄弟でありながら、政からは遠ざけられた影の王族である。

 その目は決して死んでいなかった。



 舞踏会の夜。

 誰よりも冷静に、彼女の破棄宣言を見届けていた唯一の人間。



「面白くなってきたな」

 確かに、そう口元が動いた。



 ……本当に、彼が動く気ならば。



「来るわね。今日、今夜。必ず」



 クラリッサは扇子を閉じると、静かに立ち上がった。



 扉がノックされたのは、夜の十一時を回った頃だった。

 応接間に通すよう指示し、クラリッサは自らお茶を淹れる準備を始めた。



 客人は、やはり予想通りだった。



「これはご丁寧に。お忙しい中、来客とは珍しいことですわね、第二王子殿下」



「お互いさまだろう、クラリッサ嬢。いや、もはや令嬢でもないか?」



 低く笑いながら、レオニスは室内に入ってくる。

 いつもの宮廷用の礼装ではなく、動きやすい黒いコート姿。

 その目は、猫のように油断なく光っていた。



「何の御用でしょう?舞踏会の続きをなさるおつもり?」



「いいや。今夜は、商談に来た」



 彼はずい、とテーブルに身を乗り出した。



「君の行動力と頭脳、そして、怒り。その全てが、俺には必要だ」



「……ずいぶんとあからさまに口説いてきますのね」



「冗談じゃない。俺は口説かない。ただ、手を組む価値がある相手とは契約する」



 クラリッサは、差し出された書類を一瞥する。

 それは情報交換協定。けれど形式だけのそれではない。

 彼は本気だ。王家の内情、貴族の汚職、学園内の派閥。

 第二王子には知り得ないはずの情報が、すでに彼の手中にあった。



「……あなた、どこまで」



「君の動きに興味があった。そして今日、確信した。クラリッサ・ヴァンディール。君は悪役ではない。君こそが、この腐りきった王国に必要な劇薬だ」



「……劇薬ね」



 クラリッサは小さく笑うと、レオニスの差し出したグラスを取った。

 赤ワインの中で、蝋燭の火が揺れる。



「ならば、私の条件も呑んでいただけますわね?」



「聞こう」



「復讐の優先順位は、私に委ねていただきます」



「いいだろう」



「そして、私が頂くのは地位でも名誉でもないわ。真実。あらゆる欺瞞を暴くために、私はこの国の底まで堕ちる覚悟がございますの」



 レオニスの目が細められた。



「その覚悟があるなら、君は王を超える」



「ふふっ。いいえ、王妃で結構ですわ。……そちらの玉座、空いているんでしょう?」



 夜が深まる。

 かくして、クラリッサとレオニス。二人の亡国者による、王国転覆計画が、幕を開けた。