夏休みが始まった。
朝、窓を開けると、町に日差しが満ちていた。
光はあまりにも強く、目を細めないと前が見えない。
蝉の声が既にうるさいくらいに響き、アスファルトの熱気が空気に絡みつく。
それでも、私は少しだけ胸を弾ませた。
今日は海斗と写真を撮りに行く約束の日だった。
待ち合わせは、町外れの古い港。
朝の通学路とは違う、ひんやりした潮風の匂いが混ざる道を歩くと、夏休みの特別感が胸に広がる。
「未来!」
港に着くと、すでに彼はカメラを首にかけ、波打ち際で待っていた。
夏の光を浴びて、髪が金色に透ける。
私の胸が、一瞬、ぎゅっとなる。
「遅れてごめん」
「大丈夫、俺も今来たところ」
いつも通りの静かな笑顔。
でも、何か少しだけ影を含んだ表情に、私は気づいた。
海斗は波打ち際にしゃがみ、足元の砂を見つめながら言った。
「未来、この町、ずっと変わらないね」
「うん、写真にすると、時間も止まってるみたい」
「止めたくなるよね、こういう瞬間」
彼の目は海面を映して光っていた。
まるで、何かを探しているような瞳。
私たちは波打ち際を歩きながら、時々カメラのシャッターを押す。
砂に残る足跡、揺れる小舟、遠くの灯台。
彼はどれも真剣に撮るけれど、目はときどき遠くを見つめる。
そのとき、心臓が少し痛くなるのを感じた。
「ねえ、海斗」
「ん?」
「……何か、気にしてることある?」
「え……?」
彼は少しだけ戸惑った顔をして、視線を逸らした。
「別に……」
その言葉には、嘘が混ざっている気がした。
この町で、海斗が抱える何か。
私はまだ知らない。
港を出ると、私たちは町の小道に入った。
夏休みの午前中、人気は少なく、蝉の声だけが響く。
小さなカフェの前を通りかかると、海斗が立ち止まった。
「ここ、入ったことある?」
「ううん、でも写真に撮りたい」
「じゃあ、撮ろう」
彼はシャッターを押す前に、少しだけ私を見た。
その視線には、いつもの優しさと、少しの戸惑いが混じっていた。
店内は冷房が効いていて、涼しい空気が肌に心地よかった。
カフェの窓際に座り、アイスコーヒーを前に置く。
海斗は少し照れくさそうに、でも嬉しそうに笑った。
「夏休み、君といると長く感じるね」
その言葉に、胸がじんわり温かくなる。
長い時間をかけて、少しずつ近づいてきた距離。
でも同時に、背後に小さな影を感じる。
午後、私たちは港の倉庫街を撮影に向かった。
古い壁のペンキ、錆びた鎖、波が反射する鉄の光。
海斗は静かに、でも熱心にシャッターを切る。
ときどき、ふっとため息をつくことがあった。
「未来」
「ん?」
「……写真、上手いね」
「ありがとう」
「いや、俺、君の撮る写真、なんか……人の心まで写すみたいで好き」
その言葉に、私は息を飲んだ。
人の心まで写す……。
それは、私がいつも感じていたもどかしさの正反対だった。
誰かの作られた笑顔じゃなくて、その奥にあるものまで。
彼はそれを、私に見せてくれているのだろうか。
夕方、倉庫の隙間から光が差し込み、海斗の横顔を照らす。
まぶしい光の中で、彼は少しだけ目を細めた。
その瞬間、私はカメラを構えた。
シャッターを切る手が震えた。
この表情を、絶対に残したい。
日が沈みかけ、空が赤く染まる頃、港の波止場に座って二人で休む。
海斗がぽつりと言った。
「未来……俺、いつかここを離れるかもしれない」
その言葉は、夏の空気より重く、胸に刺さった。
「え……」
「でも、今はこうしていられて幸せだ」
彼の笑顔は優しい。
でも、その奥にある影は消せない。
その日の帰り道、私はカメラを持ちながら、何度も彼の言葉を思い返していた。
離れる……かもしれない。
それでも、今この瞬間を撮りたい。
写真に残して、心に焼きつけて、忘れないようにしたい。
家に帰ると、ノートの端に小さく書いた。
「橘海斗——今の君を、忘れたくない」
翌日、私は早起きして、カメラを肩にかけていた。
夏の朝は、光も風も、昨日とは少し違う。
潮の匂いが混ざった空気は冷たく、胸の奥まで染みていくようだった。
駅前の小道を抜けると、海斗がすでに待っていた。
「おはよう、未来」
いつもの静かな声。
でも、昨日の夕暮れの言葉が頭の奥でざわつく。
——離れるかもしれない。
今日は町外れの廃墟になった工場へ行くことになっていた。
倉庫や古い壁を撮るのは、私たちの夏の恒例だった。
そこには、古い窓ガラスに映る光や、錆びた鉄骨が、写真にすると不思議な雰囲気を作る。
海斗は静かに歩きながら、時々足元の砂利を蹴った。
「未来、さっきの話……」
私が振り向くと、彼は少し俯き、言葉を選ぶようにしていた。
「俺、昔から人に心を開くのが下手で……」
——胸がぎゅっとなる。
「……それで、写真を?」
「うん。人が無理に作る笑顔じゃなくて、その人の雰囲気や空気を写すのが好きなんだ」
彼の言葉には、嘘がなかった。
写真に込める想いは、きっと本心だった。
廃墟の中、光と影が交錯する。
窓から差し込む光は、埃を浮かび上がらせ、空気そのものを撮影するような錯覚を与える。
海斗が一歩踏み出すと、影が揺れ、まるで彼が光を抱き込むみたいだった。
「未来、あの……」
海斗が突然立ち止まった。
「俺、君に見せたいものがある」
少し不安を覚えながらも、私は彼に従った。
廃墟の奥に、錆びた階段があった。
上に登ると、屋上の広場に出る。
そこからは町と海が一望でき、夕暮れには沈みゆく太陽が海面を染める。
海斗はカメラを置き、私の手を軽く握った。
「未来、これが俺の……好きな場所」
視線を上げると、遠くに灯台が見え、波が金色に輝いている。
「きれい……」
思わず呟いた私の声を、海斗は優しく笑って聞いていた。
「ここにいると、なんだか全部忘れられる気がするんだ」
「……全部?」
「うん。嫌なことも、不安も、孤独も」
彼の瞳に、ほんの少しだけ影が揺れる。
「でも……俺、全部忘れられないこともあって……」
——そのとき、私は気づいた。
海斗の心の奥には、何か言えない秘密がある。
それが何なのか、まだわからないけれど、確かに存在する。
夏の光は、私たちの周りをやわらかく包む。
海斗の手の温かさが、胸の奥まで染みていく。
私は思わず息を呑み、カメラを握る手が少しだけ震えた。
「ねえ、海斗」
「ん?」
「その……もし、辛いことがあったら、私に話して」
「未来……ありがとう。でも、俺は大丈夫」
その言葉には、まだ嘘があった。
でも、優しい嘘だった。
数日後、町で小さな花火大会があった。
浴衣を着て、二人で歩く夏祭り。
屋台の光、太鼓の音、笑い声。
町全体が、まるで一枚の写真の中に収まったみたいに感じる。
海斗は少し照れながら、私の手を握った。
「未来……」
その声に、私は胸を打たれる。
「なに?」
「……こうして一緒にいられるの、楽しい」
花火が夜空に大きく咲く。
光の輪が二人を包む。
その瞬間、私は思った。
どんな秘密があっても、今はただ、彼と同じ時間を生きたい、と。
その夜、帰り道で海斗がぽつりとつぶやいた。
「未来、俺……誰にも言えないことがある」
私は小さくうなずき、握る手を強くした。
「大丈夫。無理に言わなくてもいい」
でも、心の奥では、少しだけ不安が膨らんだ。
——夏休みは、まだ始まったばかり。
八月の半ば、町は熱気に満ちていた。
昼間の太陽は容赦なく照りつけ、道路の向こうが揺れて見える。
でもその暑さの中で、私はいつもより少しだけ落ち着かない気持ちで過ごしていた。
——海斗の様子が、変だった。
夏祭りの日から、彼の笑顔の中にわずかな翳りが混じるようになった。
顔を背ける瞬間、返事までの間。
今まで気づかなかった間が、そこには確かにあった。
私たちは例の廃工場へ撮影に行く予定だった。
けれど、待ち合わせの時間を五分過ぎても、彼は来なかった。
十分が過ぎ、二十分が過ぎ——胸がざわつき始めた頃、ようやく海斗は姿を現した。
「ごめん、未来」
息を少し切らし、額には汗がにじんでいた。
でも、それよりも気になったのは、彼の瞳の奥に残るわずかな赤み。
泣いた……?
そんな気がした。
「遅れてごめん。本当に」
「大丈夫。……でも、何かあった?」
問いかけると、海斗は一瞬だけ目を伏せた。
「……ちょっとね。大丈夫だから」
その大丈夫が、まったく大丈夫じゃないことくらい、もう分かってしまう。
胸が締めつけられるような痛みが走り、何か言いかけてやめた。
私たちは歩き出した。
セミの声が、やたらとうるさく耳に響く。
廃工場につくと、風がぬるく吹き抜け、鉄の匂いが鼻をくすぐった。
海斗は何も言わずに、古い階段を上がっていった。
私はその背中を追いかける。
屋上につくと、彼はフェンスにもたれかかって、海の方をじっと見ていた。
「未来」
「なに?」
「……海って、逃げ場みたいだね」
その声がひどく弱かった。
昨日までの海斗じゃない。
優しいけれど、どこか諦めたような声だった。
私はそっと近づいた。
「逃げ場?」
「うん。何かに追われてるとき、ここに来ると楽になる。……でも、その何かは、結局追いかけてくるんだけど」
彼は笑った。
でも、その笑顔の奥には、冷たい影が沈んでいた。
「海斗、何があったの?」
「……未来には、言いたくない」
即答。
胸が、ひどく痛んだ。
「……私だから?」
問いかける声がかすれた。
海斗は目を瞬かせ、驚いたように私を見た。
そして、ゆっくり首を振った。
「違う。未来だから言えないんだ」
その言葉は、静かで、優しくて、残酷だった。
私だから言えない——それは、私が近すぎるという意味だろうか。
それとも、傷つけたくない相手だという意味だろうか。
海風が、髪を揺らした。
しばらくすると、何事もなかったかのように海斗はカメラを構えた。
「撮るよ、未来」
私も無言でファインダーを覗く。
しかし、海斗を撮ろうとすると、彼は横を向いた。
顔が、見えない。
「海斗……」
シャッターを切れなかった。
胸の奥がざわついて、指が動かない。
そんな私を見て、彼が小さく笑った。
「未来って、分かりやすいよね」
「え?」
「怒ってるでしょ?」
「……怒ってない」
「うん、怒ってる」
彼は軽く笑った。
その明るさが、少しだけ腹立たしくて、そして少しだけ救われた。
「じゃあ、撮ってよ」
海斗が私に向き直った。
目元の影はもう消えている。
夏の光を受けた瞳は、澄んでいて……少しだけ、怖いほど綺麗だった。
私はシャッターを切った。
カシャ。
その一瞬、彼の心がどこにあったのか、私には分からなかった。
夕暮れになると、海沿いのベンチに座って休憩した。
空は朱色に染まり、海は淡く光る。
夏の終わりを予告する色。
海斗は、息をつくように言った。
「未来は、強いね」
「え、私が?」
「うん。ちゃんと、自分の足で立ってる」
私は首を振った。
「そんなことないよ。見えてないだけ。私だって、怖いこといっぱいある」
「何が怖いの?」
彼の問いに、私は言葉を失った。
言ってしまえば、壊れてしまいそうな気がした。
でも言わないと、彼の影に届かない気もした。
「……海斗がどこかに行っちゃいそうで、怖い」
その瞬間、彼の表情が変わった。
海の音より静かな沈黙が、二人の間に落ちた。
「……未来」
海斗は顔を伏せ、小さな声で言った。
「そんなふうに思われるなんて……想像してなかった」
「だって……」
言いかけたとき、海斗がそっと私の手を握った。
強くも弱くもない、優しい力だった。
「未来。……君のことは、絶対に裏切らないよ」
その言葉は嘘じゃなかったと思う。
でも、真実のすべてでもなかった。
その時の私は、まだ気づいていなかった。
——裏切らないと言った彼こそが、
この夏の終わりに、私の世界を大きく変える人だということを。
八月が終わりに近づくと、町は少しずつ静けさを取り戻していった。
海の匂いも、風も、なんだか少し寂しげに感じるようになった。
日差しは依然として強く、でもその光の下で心がどこか冷えていくような気がする。
今年の夏は長かったけれど、いつの間にかもう終わりに近づいている気がしてならなかった。
海斗と過ごした時間も、どこか儚く感じるようになってきた。
——私、もうすぐ、この夏を忘れそうだ。
夏休みが終わると、また普通の学校が始まる。
その後、何もなかったように日常に戻ってしまうのだろうか。
そのことが、私の胸を苦しくさせた。
ある日、海斗が珍しく電話をかけてきた。
「未来、今日、会える?」
「うん、大丈夫」
「じゃあ、放課後、いつもの場所で」
「分かった」
そう言って電話を切ると、私は胸の中で何かがざわついているのを感じた。
放課後、約束の場所に向かうと、海斗は少し遠くのほうで佇んでいた。
何かを考えている様子だった。
私が近づくと、彼はゆっくりと振り返った。
「未来」
「うん?」
「今日は、ちょっとだけ……話したいことがある」
その言葉に、私の心臓が大きく跳ねた。
「うん、何?」
「……やっぱり、言わないほうがいいかな」
海斗はそのまま立ち上がり、目を伏せた。
その様子を見ていると、胸が痛んだ。
「ねえ、海斗」
「未来」
彼は無理に笑ったように見えた。
「でも、君にだけは言っておきたかった」
「なに?」
海斗は少し考えた後、ゆっくりと口を開いた。
「……俺、ここを離れることになった」
——その言葉を聞いた瞬間、世界が静かになった気がした。
「え?」
「家の都合で、もうすぐ引っ越さなくちゃいけないんだ」
彼はそう言って、少しだけ微笑んだが、私はその笑顔を見ていられなかった。
心の中に、言葉にできない感情が溢れ出しそうだった。
「海斗……」
「ごめん、急に言っても信じられないよな。でも、これが現実なんだ」
「……でも、どうして?急に?」
「色々な理由があるけど……その一つは、俺の家がこっちに長くいることを許してくれないんだ」
「それって……」
「そう、あんまりいい理由じゃないけど」
海斗は目を伏せて、しばらく黙っていた。
その瞬間、私の心に冷たい風が吹き抜けた。
「……じゃあ、私たち、もう会えないの?」
その問いに、海斗は一瞬言葉を失った。
そして、すぐに小さく頷いた。
「たぶん、そうだね」
その言葉を聞いたとき、私は心の中で何かが崩れ落ちる音を感じた。
その後の数日は、海斗と過ごす時間が、どこか無理に明るくなっていった。
私たちの間にある距離を感じながらも、もうすぐ終わる日々が痛々しくて、私はその一瞬を無駄にしたくなかった。
でも、どんなに笑っても、彼の目の奥には何か言えない秘密があることが分かっていた。
——それでも、この夏は特別なものだと感じていた。
ある日、海斗が突然、私にこう言った。
「未来、今日、最後にもう一度、あの場所に行こう」
「え?どこ?」
「廃工場」
私は少し驚いたが、すぐに頷いた。
それは、彼との思い出が詰まった場所だから。
廃工場には、私たちが撮ったたくさんの写真が残っている。
その場所で、最後のひとときを過ごそうというのだろうか。
私たちは廃工場に向かった。
いつものように階段を上り、屋上に立つ。
夕暮れが少しずつ近づいて、空が黄金色に染まり始めていた。
海斗は、無言で私の隣に立って、しばらくの間、遠くを見つめていた。
「未来」
「うん?」
「さっきのこと……覚えてる?」
「覚えてるよ」
「……俺、君と出会ってから、すごく幸せだった」
その言葉を聞いた瞬間、胸が熱くなった。
「でも、幸せな時間は、すぐに終わってしまうんだ」
海斗は少し寂しげに言った。
「——どうして、そんなこと言うの?」
「だって、俺はもうすぐ君の前から消えてしまうから」
彼の目の奥に、かすかな涙が光っているのを見て、私は思わず手を伸ばした。
「海斗……」
そのとき、突然、空から一筋の光が落ちてきた。
花火だ。
遠くの町で、花火大会が始まっていた。
「あれ、花火……」
「うん。花火は、夏が終わる前に必ず見るべきだろ?」
海斗は少しだけ微笑んだ。
そして、私はその微笑みがあまりにも切なくて、胸がいっぱいになった。
その花火を見ながら、私は感じていた。
——これは、別れの合図なんだろうか?
それとも、二人で一緒に歩く最後の夏を、静かに締めくくるためのひとときなのだろうか?
その日の夜、私はひとりで帰る道を歩いていた。
海斗があの場所から消えていくのを、心の中で受け入れなければならないことが、だんだんと現実味を帯びてきた。
でも、そのことがどうしても受け入れられない。
こんなにも、海斗を感じたいのに。
——どうして、彼はそんなに遠くへ行くんだろう。
夜の風が肌に触れるたび、胸の中の温かいものが少しずつ冷えていくのを感じる。
花火が終わった後、私は一人で家に帰る途中で立ち止まった。
その静かな夜に響くのは、自分の足音だけ。
海斗の言葉が頭の中をぐるぐると回り、心が締めつけられるような気がした。
——「幸せだった」って、あんなふうに言われたことが、今でも信じられない。
私の中で、海斗という存在はあまりにも大きくなっていた。
でも、彼がこの町を離れてしまうのは避けられない現実だ。
それが、私の中でますます重くのしかかってくる。
もうすぐ、この町も、この夏も終わってしまう。
家に帰ると、窓から見える夜空がなんだか遠く感じた。
海斗がいなくなるなんて、まだ信じられない。
でも、現実は待ってくれない。
私は、自分の気持ちが整理できる気がしなかった。
そして、ふと、部屋の片隅に置かれたカメラが目に入った。
それは、あの日、海斗と一緒に撮った写真がいっぱい詰まったカメラだった。
彼と一緒に撮った一枚一枚が、私の中でどんどん色濃くなっていく。
——でも、もう、あの頃には戻れない。
次の日、海斗から連絡が来た。
「未来、少しだけ会えない?」
それが、私の心に火をつけた。
私はすぐに返信した。
「会いたい。でも、今日は少しだけ……」
そして、放課後に彼との約束をした。
——これが最後になるのかもしれない。
でも、どうしても最後にもう一度、彼と話したかった。
放課後、私はまた廃工場に向かった。
さっきの花火がまだ目に焼き付いている。
海斗があそこで見せた、あの笑顔が。
彼の微笑みが、胸を締めつけるように痛かった。
廃工場に着くと、海斗はすでにいた。
その目はいつものように少し遠くを見ているようで、でも私を見つけると、ほんの少しだけ微笑んだ。
「未来」
「うん」
私も一歩前に進んで、海斗の隣に立った。
しばらく黙っていた。
でも、その沈黙が耐えられなくて、私はつい口を開いた。
「海斗、どうして……本当に、ここを離れるの?」
「……俺は、ただ君に言いたかったんだ。君のことがすごく大切だって。でも、俺、君に迷惑をかけるわけにはいかない」
「迷惑なんて、そんなこと……」
「いや、そうじゃないんだ。君に好きだって言われることが、俺にはもうできないんだ」
海斗は私の目を見て、静かに言った。
その言葉に、私は言葉を失った。
「どうして、そんなことを言うの?」
「未来、俺には……本当に、言えないことがあるんだ」
「それは、何?」
「——俺には、君を守る力なんて、ないんだ」
その言葉が、私を深く突き刺した。
海斗が何を言いたいのか、だんだん分かってきた。
彼が背負っている何かが、私には理解できないくらい重いものだということを。
その晩、私は眠れなかった。
海斗の言葉が、頭の中で反芻されて、どうしても整理がつかない。
——守れないって、どういうことなんだろう?
次の日、私はいつも通り学校に行った。
でも、海斗の顔を見るたびに、何かが違うと感じるようになった。
彼の視線には、以前のような明るさが少し足りないような気がする。
——あの秘密、私が知らなきゃいけないことがあるんじゃないか。
その疑問がどんどん大きくなり、私はついに自分から海斗に問いかけることに決めた。
放課後、海斗が部室にやって来た。
「未来、今、少しだけ話せる?」
私は黙って頷き、彼を部室の隅に呼んだ。
「海斗、私、気になることがあるんだ」
「何?」
「……君、何か隠してるよね?」
その言葉に、海斗の顔色が少し変わった。
彼はしばらく黙っていたけれど、やがて深いため息をついて、ゆっくりと口を開いた。
「未来、俺、実は……」
その瞬間、ドアが突然開いた。
「海斗くん、ちょっといい?」
声の主は、写真部の先輩だった。
その表情はどこか厳しく、海斗を見据えている。
先輩が部室に入ってきた瞬間、空気がわずかに揺れた。
蛍光灯の光が彼の肩で跳ね、その視線はまっすぐ海斗に向けられていた。
「海斗くん、ちょっと職員室まで来てもらえる?」
「……はい」
海斗は怯えたように、でも諦めたように立ち上がった。
私は咄嗟に袖を掴んだ。
指先が震えていた。
「待って、海斗。話、まだ⋯…」
彼は、ゆっくり私の手を外した。
その力は驚くほど優しくて、逆に心を締めつけた。
「未来。……ごめん。あとで、ちゃんと話すから」
その声はかすかに笑っているようで、でもどこか泣きそうだった。
海斗は先輩の後ろ姿を追うように部室を出ていった。
ドアが閉まる音が、やけに大きく響いた。
残された赤い暗室のランプが、やけにぼんやり滲んで見えた。
しばらくしても戻らない海斗を待ちながら、私は現像液の前に座り込んだ。
時計の針が何度も同じところを回り、夕方の光がゆっくりと部室を沈めていく。
暗室の隅に置かれたフィルムの束が目に入った。
その中には、あの日海斗が撮った私の横顔もあるはずだ。
——でも、まだ見られない。
見てしまったら、何かが決壊してしまう気がした。
外からカモメの鳴き声が聞こえた。
窓の外は、もう夕暮れに染まり始めている。
私は、海斗が言いかけた言葉をずっと反芻していた。
——「俺には、君を守る力がない」
——「未来、俺、実は……」
その先がどうしても知りたい。
でも、知ることが怖い。
そんな矛盾が胸の中で渦巻く。
私は自分の胸に手を当てた。
鼓動が早くて、苦しくて、呼吸が少しだけ浅くなっていた。
「……はやく、戻ってきてよ」
思わず声に出た。
誰にも届かない声だった。
日が沈みかけた頃、部室のドアがゆっくり開いた。
「未来」
その声に顔を上げると、そこには海斗が立っていた。
肩が少し震えていて、目の奥がいつもより暗かった。
でも、その中に微かな光もあった。
「……ごめん。遅くなった」
彼は息を整えながら、静かに笑った。
私は急いで立ち上がり、彼の元へ駆け寄った。
喉が詰まり、言葉にならない。
「海斗……大丈夫?」
「うん。大丈夫。……たぶん」
たぶん、という言葉が胸に刺さる。
海斗は少しだけ視線を落とし、そしてゆっくり顔を上げた。
その目は、覚悟を飲み込んだ人の目だった。
「未来。……俺、明日、話すよ」
「明日?」
「うん。全部。ちゃんと」
その言い方が、どうしようもなく切なかった。
——まるで、明日が来なかったら困るからと祈るように。
海斗は一歩下がって、夕暮れの光の中で、静かに言った。
「だから、今日のこと……忘れないで」
その言葉は、胸の奥で静かに爆ぜた。
「忘れないよ」
それだけ言うだけで精一杯だった。
海斗は小さく頷き、夕焼けの廊下をゆっくり歩き去っていった。
私はその背中を黙って見送った。
この町の海風が、少しだけしょっぱく感じた。
夏の終わりの匂いが混ざっていた。
——そして、私は気づいてしまった。
明日が来ることを、こんなにも祈る日があるなんて。
朝、窓を開けると、町に日差しが満ちていた。
光はあまりにも強く、目を細めないと前が見えない。
蝉の声が既にうるさいくらいに響き、アスファルトの熱気が空気に絡みつく。
それでも、私は少しだけ胸を弾ませた。
今日は海斗と写真を撮りに行く約束の日だった。
待ち合わせは、町外れの古い港。
朝の通学路とは違う、ひんやりした潮風の匂いが混ざる道を歩くと、夏休みの特別感が胸に広がる。
「未来!」
港に着くと、すでに彼はカメラを首にかけ、波打ち際で待っていた。
夏の光を浴びて、髪が金色に透ける。
私の胸が、一瞬、ぎゅっとなる。
「遅れてごめん」
「大丈夫、俺も今来たところ」
いつも通りの静かな笑顔。
でも、何か少しだけ影を含んだ表情に、私は気づいた。
海斗は波打ち際にしゃがみ、足元の砂を見つめながら言った。
「未来、この町、ずっと変わらないね」
「うん、写真にすると、時間も止まってるみたい」
「止めたくなるよね、こういう瞬間」
彼の目は海面を映して光っていた。
まるで、何かを探しているような瞳。
私たちは波打ち際を歩きながら、時々カメラのシャッターを押す。
砂に残る足跡、揺れる小舟、遠くの灯台。
彼はどれも真剣に撮るけれど、目はときどき遠くを見つめる。
そのとき、心臓が少し痛くなるのを感じた。
「ねえ、海斗」
「ん?」
「……何か、気にしてることある?」
「え……?」
彼は少しだけ戸惑った顔をして、視線を逸らした。
「別に……」
その言葉には、嘘が混ざっている気がした。
この町で、海斗が抱える何か。
私はまだ知らない。
港を出ると、私たちは町の小道に入った。
夏休みの午前中、人気は少なく、蝉の声だけが響く。
小さなカフェの前を通りかかると、海斗が立ち止まった。
「ここ、入ったことある?」
「ううん、でも写真に撮りたい」
「じゃあ、撮ろう」
彼はシャッターを押す前に、少しだけ私を見た。
その視線には、いつもの優しさと、少しの戸惑いが混じっていた。
店内は冷房が効いていて、涼しい空気が肌に心地よかった。
カフェの窓際に座り、アイスコーヒーを前に置く。
海斗は少し照れくさそうに、でも嬉しそうに笑った。
「夏休み、君といると長く感じるね」
その言葉に、胸がじんわり温かくなる。
長い時間をかけて、少しずつ近づいてきた距離。
でも同時に、背後に小さな影を感じる。
午後、私たちは港の倉庫街を撮影に向かった。
古い壁のペンキ、錆びた鎖、波が反射する鉄の光。
海斗は静かに、でも熱心にシャッターを切る。
ときどき、ふっとため息をつくことがあった。
「未来」
「ん?」
「……写真、上手いね」
「ありがとう」
「いや、俺、君の撮る写真、なんか……人の心まで写すみたいで好き」
その言葉に、私は息を飲んだ。
人の心まで写す……。
それは、私がいつも感じていたもどかしさの正反対だった。
誰かの作られた笑顔じゃなくて、その奥にあるものまで。
彼はそれを、私に見せてくれているのだろうか。
夕方、倉庫の隙間から光が差し込み、海斗の横顔を照らす。
まぶしい光の中で、彼は少しだけ目を細めた。
その瞬間、私はカメラを構えた。
シャッターを切る手が震えた。
この表情を、絶対に残したい。
日が沈みかけ、空が赤く染まる頃、港の波止場に座って二人で休む。
海斗がぽつりと言った。
「未来……俺、いつかここを離れるかもしれない」
その言葉は、夏の空気より重く、胸に刺さった。
「え……」
「でも、今はこうしていられて幸せだ」
彼の笑顔は優しい。
でも、その奥にある影は消せない。
その日の帰り道、私はカメラを持ちながら、何度も彼の言葉を思い返していた。
離れる……かもしれない。
それでも、今この瞬間を撮りたい。
写真に残して、心に焼きつけて、忘れないようにしたい。
家に帰ると、ノートの端に小さく書いた。
「橘海斗——今の君を、忘れたくない」
翌日、私は早起きして、カメラを肩にかけていた。
夏の朝は、光も風も、昨日とは少し違う。
潮の匂いが混ざった空気は冷たく、胸の奥まで染みていくようだった。
駅前の小道を抜けると、海斗がすでに待っていた。
「おはよう、未来」
いつもの静かな声。
でも、昨日の夕暮れの言葉が頭の奥でざわつく。
——離れるかもしれない。
今日は町外れの廃墟になった工場へ行くことになっていた。
倉庫や古い壁を撮るのは、私たちの夏の恒例だった。
そこには、古い窓ガラスに映る光や、錆びた鉄骨が、写真にすると不思議な雰囲気を作る。
海斗は静かに歩きながら、時々足元の砂利を蹴った。
「未来、さっきの話……」
私が振り向くと、彼は少し俯き、言葉を選ぶようにしていた。
「俺、昔から人に心を開くのが下手で……」
——胸がぎゅっとなる。
「……それで、写真を?」
「うん。人が無理に作る笑顔じゃなくて、その人の雰囲気や空気を写すのが好きなんだ」
彼の言葉には、嘘がなかった。
写真に込める想いは、きっと本心だった。
廃墟の中、光と影が交錯する。
窓から差し込む光は、埃を浮かび上がらせ、空気そのものを撮影するような錯覚を与える。
海斗が一歩踏み出すと、影が揺れ、まるで彼が光を抱き込むみたいだった。
「未来、あの……」
海斗が突然立ち止まった。
「俺、君に見せたいものがある」
少し不安を覚えながらも、私は彼に従った。
廃墟の奥に、錆びた階段があった。
上に登ると、屋上の広場に出る。
そこからは町と海が一望でき、夕暮れには沈みゆく太陽が海面を染める。
海斗はカメラを置き、私の手を軽く握った。
「未来、これが俺の……好きな場所」
視線を上げると、遠くに灯台が見え、波が金色に輝いている。
「きれい……」
思わず呟いた私の声を、海斗は優しく笑って聞いていた。
「ここにいると、なんだか全部忘れられる気がするんだ」
「……全部?」
「うん。嫌なことも、不安も、孤独も」
彼の瞳に、ほんの少しだけ影が揺れる。
「でも……俺、全部忘れられないこともあって……」
——そのとき、私は気づいた。
海斗の心の奥には、何か言えない秘密がある。
それが何なのか、まだわからないけれど、確かに存在する。
夏の光は、私たちの周りをやわらかく包む。
海斗の手の温かさが、胸の奥まで染みていく。
私は思わず息を呑み、カメラを握る手が少しだけ震えた。
「ねえ、海斗」
「ん?」
「その……もし、辛いことがあったら、私に話して」
「未来……ありがとう。でも、俺は大丈夫」
その言葉には、まだ嘘があった。
でも、優しい嘘だった。
数日後、町で小さな花火大会があった。
浴衣を着て、二人で歩く夏祭り。
屋台の光、太鼓の音、笑い声。
町全体が、まるで一枚の写真の中に収まったみたいに感じる。
海斗は少し照れながら、私の手を握った。
「未来……」
その声に、私は胸を打たれる。
「なに?」
「……こうして一緒にいられるの、楽しい」
花火が夜空に大きく咲く。
光の輪が二人を包む。
その瞬間、私は思った。
どんな秘密があっても、今はただ、彼と同じ時間を生きたい、と。
その夜、帰り道で海斗がぽつりとつぶやいた。
「未来、俺……誰にも言えないことがある」
私は小さくうなずき、握る手を強くした。
「大丈夫。無理に言わなくてもいい」
でも、心の奥では、少しだけ不安が膨らんだ。
——夏休みは、まだ始まったばかり。
八月の半ば、町は熱気に満ちていた。
昼間の太陽は容赦なく照りつけ、道路の向こうが揺れて見える。
でもその暑さの中で、私はいつもより少しだけ落ち着かない気持ちで過ごしていた。
——海斗の様子が、変だった。
夏祭りの日から、彼の笑顔の中にわずかな翳りが混じるようになった。
顔を背ける瞬間、返事までの間。
今まで気づかなかった間が、そこには確かにあった。
私たちは例の廃工場へ撮影に行く予定だった。
けれど、待ち合わせの時間を五分過ぎても、彼は来なかった。
十分が過ぎ、二十分が過ぎ——胸がざわつき始めた頃、ようやく海斗は姿を現した。
「ごめん、未来」
息を少し切らし、額には汗がにじんでいた。
でも、それよりも気になったのは、彼の瞳の奥に残るわずかな赤み。
泣いた……?
そんな気がした。
「遅れてごめん。本当に」
「大丈夫。……でも、何かあった?」
問いかけると、海斗は一瞬だけ目を伏せた。
「……ちょっとね。大丈夫だから」
その大丈夫が、まったく大丈夫じゃないことくらい、もう分かってしまう。
胸が締めつけられるような痛みが走り、何か言いかけてやめた。
私たちは歩き出した。
セミの声が、やたらとうるさく耳に響く。
廃工場につくと、風がぬるく吹き抜け、鉄の匂いが鼻をくすぐった。
海斗は何も言わずに、古い階段を上がっていった。
私はその背中を追いかける。
屋上につくと、彼はフェンスにもたれかかって、海の方をじっと見ていた。
「未来」
「なに?」
「……海って、逃げ場みたいだね」
その声がひどく弱かった。
昨日までの海斗じゃない。
優しいけれど、どこか諦めたような声だった。
私はそっと近づいた。
「逃げ場?」
「うん。何かに追われてるとき、ここに来ると楽になる。……でも、その何かは、結局追いかけてくるんだけど」
彼は笑った。
でも、その笑顔の奥には、冷たい影が沈んでいた。
「海斗、何があったの?」
「……未来には、言いたくない」
即答。
胸が、ひどく痛んだ。
「……私だから?」
問いかける声がかすれた。
海斗は目を瞬かせ、驚いたように私を見た。
そして、ゆっくり首を振った。
「違う。未来だから言えないんだ」
その言葉は、静かで、優しくて、残酷だった。
私だから言えない——それは、私が近すぎるという意味だろうか。
それとも、傷つけたくない相手だという意味だろうか。
海風が、髪を揺らした。
しばらくすると、何事もなかったかのように海斗はカメラを構えた。
「撮るよ、未来」
私も無言でファインダーを覗く。
しかし、海斗を撮ろうとすると、彼は横を向いた。
顔が、見えない。
「海斗……」
シャッターを切れなかった。
胸の奥がざわついて、指が動かない。
そんな私を見て、彼が小さく笑った。
「未来って、分かりやすいよね」
「え?」
「怒ってるでしょ?」
「……怒ってない」
「うん、怒ってる」
彼は軽く笑った。
その明るさが、少しだけ腹立たしくて、そして少しだけ救われた。
「じゃあ、撮ってよ」
海斗が私に向き直った。
目元の影はもう消えている。
夏の光を受けた瞳は、澄んでいて……少しだけ、怖いほど綺麗だった。
私はシャッターを切った。
カシャ。
その一瞬、彼の心がどこにあったのか、私には分からなかった。
夕暮れになると、海沿いのベンチに座って休憩した。
空は朱色に染まり、海は淡く光る。
夏の終わりを予告する色。
海斗は、息をつくように言った。
「未来は、強いね」
「え、私が?」
「うん。ちゃんと、自分の足で立ってる」
私は首を振った。
「そんなことないよ。見えてないだけ。私だって、怖いこといっぱいある」
「何が怖いの?」
彼の問いに、私は言葉を失った。
言ってしまえば、壊れてしまいそうな気がした。
でも言わないと、彼の影に届かない気もした。
「……海斗がどこかに行っちゃいそうで、怖い」
その瞬間、彼の表情が変わった。
海の音より静かな沈黙が、二人の間に落ちた。
「……未来」
海斗は顔を伏せ、小さな声で言った。
「そんなふうに思われるなんて……想像してなかった」
「だって……」
言いかけたとき、海斗がそっと私の手を握った。
強くも弱くもない、優しい力だった。
「未来。……君のことは、絶対に裏切らないよ」
その言葉は嘘じゃなかったと思う。
でも、真実のすべてでもなかった。
その時の私は、まだ気づいていなかった。
——裏切らないと言った彼こそが、
この夏の終わりに、私の世界を大きく変える人だということを。
八月が終わりに近づくと、町は少しずつ静けさを取り戻していった。
海の匂いも、風も、なんだか少し寂しげに感じるようになった。
日差しは依然として強く、でもその光の下で心がどこか冷えていくような気がする。
今年の夏は長かったけれど、いつの間にかもう終わりに近づいている気がしてならなかった。
海斗と過ごした時間も、どこか儚く感じるようになってきた。
——私、もうすぐ、この夏を忘れそうだ。
夏休みが終わると、また普通の学校が始まる。
その後、何もなかったように日常に戻ってしまうのだろうか。
そのことが、私の胸を苦しくさせた。
ある日、海斗が珍しく電話をかけてきた。
「未来、今日、会える?」
「うん、大丈夫」
「じゃあ、放課後、いつもの場所で」
「分かった」
そう言って電話を切ると、私は胸の中で何かがざわついているのを感じた。
放課後、約束の場所に向かうと、海斗は少し遠くのほうで佇んでいた。
何かを考えている様子だった。
私が近づくと、彼はゆっくりと振り返った。
「未来」
「うん?」
「今日は、ちょっとだけ……話したいことがある」
その言葉に、私の心臓が大きく跳ねた。
「うん、何?」
「……やっぱり、言わないほうがいいかな」
海斗はそのまま立ち上がり、目を伏せた。
その様子を見ていると、胸が痛んだ。
「ねえ、海斗」
「未来」
彼は無理に笑ったように見えた。
「でも、君にだけは言っておきたかった」
「なに?」
海斗は少し考えた後、ゆっくりと口を開いた。
「……俺、ここを離れることになった」
——その言葉を聞いた瞬間、世界が静かになった気がした。
「え?」
「家の都合で、もうすぐ引っ越さなくちゃいけないんだ」
彼はそう言って、少しだけ微笑んだが、私はその笑顔を見ていられなかった。
心の中に、言葉にできない感情が溢れ出しそうだった。
「海斗……」
「ごめん、急に言っても信じられないよな。でも、これが現実なんだ」
「……でも、どうして?急に?」
「色々な理由があるけど……その一つは、俺の家がこっちに長くいることを許してくれないんだ」
「それって……」
「そう、あんまりいい理由じゃないけど」
海斗は目を伏せて、しばらく黙っていた。
その瞬間、私の心に冷たい風が吹き抜けた。
「……じゃあ、私たち、もう会えないの?」
その問いに、海斗は一瞬言葉を失った。
そして、すぐに小さく頷いた。
「たぶん、そうだね」
その言葉を聞いたとき、私は心の中で何かが崩れ落ちる音を感じた。
その後の数日は、海斗と過ごす時間が、どこか無理に明るくなっていった。
私たちの間にある距離を感じながらも、もうすぐ終わる日々が痛々しくて、私はその一瞬を無駄にしたくなかった。
でも、どんなに笑っても、彼の目の奥には何か言えない秘密があることが分かっていた。
——それでも、この夏は特別なものだと感じていた。
ある日、海斗が突然、私にこう言った。
「未来、今日、最後にもう一度、あの場所に行こう」
「え?どこ?」
「廃工場」
私は少し驚いたが、すぐに頷いた。
それは、彼との思い出が詰まった場所だから。
廃工場には、私たちが撮ったたくさんの写真が残っている。
その場所で、最後のひとときを過ごそうというのだろうか。
私たちは廃工場に向かった。
いつものように階段を上り、屋上に立つ。
夕暮れが少しずつ近づいて、空が黄金色に染まり始めていた。
海斗は、無言で私の隣に立って、しばらくの間、遠くを見つめていた。
「未来」
「うん?」
「さっきのこと……覚えてる?」
「覚えてるよ」
「……俺、君と出会ってから、すごく幸せだった」
その言葉を聞いた瞬間、胸が熱くなった。
「でも、幸せな時間は、すぐに終わってしまうんだ」
海斗は少し寂しげに言った。
「——どうして、そんなこと言うの?」
「だって、俺はもうすぐ君の前から消えてしまうから」
彼の目の奥に、かすかな涙が光っているのを見て、私は思わず手を伸ばした。
「海斗……」
そのとき、突然、空から一筋の光が落ちてきた。
花火だ。
遠くの町で、花火大会が始まっていた。
「あれ、花火……」
「うん。花火は、夏が終わる前に必ず見るべきだろ?」
海斗は少しだけ微笑んだ。
そして、私はその微笑みがあまりにも切なくて、胸がいっぱいになった。
その花火を見ながら、私は感じていた。
——これは、別れの合図なんだろうか?
それとも、二人で一緒に歩く最後の夏を、静かに締めくくるためのひとときなのだろうか?
その日の夜、私はひとりで帰る道を歩いていた。
海斗があの場所から消えていくのを、心の中で受け入れなければならないことが、だんだんと現実味を帯びてきた。
でも、そのことがどうしても受け入れられない。
こんなにも、海斗を感じたいのに。
——どうして、彼はそんなに遠くへ行くんだろう。
夜の風が肌に触れるたび、胸の中の温かいものが少しずつ冷えていくのを感じる。
花火が終わった後、私は一人で家に帰る途中で立ち止まった。
その静かな夜に響くのは、自分の足音だけ。
海斗の言葉が頭の中をぐるぐると回り、心が締めつけられるような気がした。
——「幸せだった」って、あんなふうに言われたことが、今でも信じられない。
私の中で、海斗という存在はあまりにも大きくなっていた。
でも、彼がこの町を離れてしまうのは避けられない現実だ。
それが、私の中でますます重くのしかかってくる。
もうすぐ、この町も、この夏も終わってしまう。
家に帰ると、窓から見える夜空がなんだか遠く感じた。
海斗がいなくなるなんて、まだ信じられない。
でも、現実は待ってくれない。
私は、自分の気持ちが整理できる気がしなかった。
そして、ふと、部屋の片隅に置かれたカメラが目に入った。
それは、あの日、海斗と一緒に撮った写真がいっぱい詰まったカメラだった。
彼と一緒に撮った一枚一枚が、私の中でどんどん色濃くなっていく。
——でも、もう、あの頃には戻れない。
次の日、海斗から連絡が来た。
「未来、少しだけ会えない?」
それが、私の心に火をつけた。
私はすぐに返信した。
「会いたい。でも、今日は少しだけ……」
そして、放課後に彼との約束をした。
——これが最後になるのかもしれない。
でも、どうしても最後にもう一度、彼と話したかった。
放課後、私はまた廃工場に向かった。
さっきの花火がまだ目に焼き付いている。
海斗があそこで見せた、あの笑顔が。
彼の微笑みが、胸を締めつけるように痛かった。
廃工場に着くと、海斗はすでにいた。
その目はいつものように少し遠くを見ているようで、でも私を見つけると、ほんの少しだけ微笑んだ。
「未来」
「うん」
私も一歩前に進んで、海斗の隣に立った。
しばらく黙っていた。
でも、その沈黙が耐えられなくて、私はつい口を開いた。
「海斗、どうして……本当に、ここを離れるの?」
「……俺は、ただ君に言いたかったんだ。君のことがすごく大切だって。でも、俺、君に迷惑をかけるわけにはいかない」
「迷惑なんて、そんなこと……」
「いや、そうじゃないんだ。君に好きだって言われることが、俺にはもうできないんだ」
海斗は私の目を見て、静かに言った。
その言葉に、私は言葉を失った。
「どうして、そんなことを言うの?」
「未来、俺には……本当に、言えないことがあるんだ」
「それは、何?」
「——俺には、君を守る力なんて、ないんだ」
その言葉が、私を深く突き刺した。
海斗が何を言いたいのか、だんだん分かってきた。
彼が背負っている何かが、私には理解できないくらい重いものだということを。
その晩、私は眠れなかった。
海斗の言葉が、頭の中で反芻されて、どうしても整理がつかない。
——守れないって、どういうことなんだろう?
次の日、私はいつも通り学校に行った。
でも、海斗の顔を見るたびに、何かが違うと感じるようになった。
彼の視線には、以前のような明るさが少し足りないような気がする。
——あの秘密、私が知らなきゃいけないことがあるんじゃないか。
その疑問がどんどん大きくなり、私はついに自分から海斗に問いかけることに決めた。
放課後、海斗が部室にやって来た。
「未来、今、少しだけ話せる?」
私は黙って頷き、彼を部室の隅に呼んだ。
「海斗、私、気になることがあるんだ」
「何?」
「……君、何か隠してるよね?」
その言葉に、海斗の顔色が少し変わった。
彼はしばらく黙っていたけれど、やがて深いため息をついて、ゆっくりと口を開いた。
「未来、俺、実は……」
その瞬間、ドアが突然開いた。
「海斗くん、ちょっといい?」
声の主は、写真部の先輩だった。
その表情はどこか厳しく、海斗を見据えている。
先輩が部室に入ってきた瞬間、空気がわずかに揺れた。
蛍光灯の光が彼の肩で跳ね、その視線はまっすぐ海斗に向けられていた。
「海斗くん、ちょっと職員室まで来てもらえる?」
「……はい」
海斗は怯えたように、でも諦めたように立ち上がった。
私は咄嗟に袖を掴んだ。
指先が震えていた。
「待って、海斗。話、まだ⋯…」
彼は、ゆっくり私の手を外した。
その力は驚くほど優しくて、逆に心を締めつけた。
「未来。……ごめん。あとで、ちゃんと話すから」
その声はかすかに笑っているようで、でもどこか泣きそうだった。
海斗は先輩の後ろ姿を追うように部室を出ていった。
ドアが閉まる音が、やけに大きく響いた。
残された赤い暗室のランプが、やけにぼんやり滲んで見えた。
しばらくしても戻らない海斗を待ちながら、私は現像液の前に座り込んだ。
時計の針が何度も同じところを回り、夕方の光がゆっくりと部室を沈めていく。
暗室の隅に置かれたフィルムの束が目に入った。
その中には、あの日海斗が撮った私の横顔もあるはずだ。
——でも、まだ見られない。
見てしまったら、何かが決壊してしまう気がした。
外からカモメの鳴き声が聞こえた。
窓の外は、もう夕暮れに染まり始めている。
私は、海斗が言いかけた言葉をずっと反芻していた。
——「俺には、君を守る力がない」
——「未来、俺、実は……」
その先がどうしても知りたい。
でも、知ることが怖い。
そんな矛盾が胸の中で渦巻く。
私は自分の胸に手を当てた。
鼓動が早くて、苦しくて、呼吸が少しだけ浅くなっていた。
「……はやく、戻ってきてよ」
思わず声に出た。
誰にも届かない声だった。
日が沈みかけた頃、部室のドアがゆっくり開いた。
「未来」
その声に顔を上げると、そこには海斗が立っていた。
肩が少し震えていて、目の奥がいつもより暗かった。
でも、その中に微かな光もあった。
「……ごめん。遅くなった」
彼は息を整えながら、静かに笑った。
私は急いで立ち上がり、彼の元へ駆け寄った。
喉が詰まり、言葉にならない。
「海斗……大丈夫?」
「うん。大丈夫。……たぶん」
たぶん、という言葉が胸に刺さる。
海斗は少しだけ視線を落とし、そしてゆっくり顔を上げた。
その目は、覚悟を飲み込んだ人の目だった。
「未来。……俺、明日、話すよ」
「明日?」
「うん。全部。ちゃんと」
その言い方が、どうしようもなく切なかった。
——まるで、明日が来なかったら困るからと祈るように。
海斗は一歩下がって、夕暮れの光の中で、静かに言った。
「だから、今日のこと……忘れないで」
その言葉は、胸の奥で静かに爆ぜた。
「忘れないよ」
それだけ言うだけで精一杯だった。
海斗は小さく頷き、夕焼けの廊下をゆっくり歩き去っていった。
私はその背中を黙って見送った。
この町の海風が、少しだけしょっぱく感じた。
夏の終わりの匂いが混ざっていた。
——そして、私は気づいてしまった。
明日が来ることを、こんなにも祈る日があるなんて。



