夏休みが始まった。



 朝、窓を開けると、町に日差しが満ちていた。



 光はあまりにも強く、目を細めないと前が見えない。



 蝉の声が既にうるさいくらいに響き、アスファルトの熱気が空気に絡みつく。

 それでも、私は少しだけ胸を弾ませた。



 今日は海斗と写真を撮りに行く約束の日だった。

 待ち合わせは、町外れの古い港。



 朝の通学路とは違う、ひんやりした潮風の匂いが混ざる道を歩くと、夏休みの特別感が胸に広がる。



 「未来!」



 港に着くと、すでに彼はカメラを首にかけ、波打ち際で待っていた。

 夏の光を浴びて、髪が金色に透ける。

 私の胸が、一瞬、ぎゅっとなる。



 「遅れてごめん」



 「大丈夫、俺も今来たところ」



 いつも通りの静かな笑顔。

 でも、何か少しだけ影を含んだ表情に、私は気づいた。



 海斗は波打ち際にしゃがみ、足元の砂を見つめながら言った。



 「未来、この町、ずっと変わらないね」



 「うん、写真にすると、時間も止まってるみたい」



 「止めたくなるよね、こういう瞬間」



 彼の目は海面を映して光っていた。

 まるで、何かを探しているような瞳。



 私たちは波打ち際を歩きながら、時々カメラのシャッターを押す。

 砂に残る足跡、揺れる小舟、遠くの灯台。



 彼はどれも真剣に撮るけれど、目はときどき遠くを見つめる。

 そのとき、心臓が少し痛くなるのを感じた。



 「ねえ、海斗」



 「ん?」



 「……何か、気にしてることある?」



 「え……?」



 彼は少しだけ戸惑った顔をして、視線を逸らした。



 「別に……」



 その言葉には、嘘が混ざっている気がした。



 この町で、海斗が抱える何か。

 私はまだ知らない。



 港を出ると、私たちは町の小道に入った。

 夏休みの午前中、人気は少なく、蝉の声だけが響く。

 小さなカフェの前を通りかかると、海斗が立ち止まった。



 「ここ、入ったことある?」



 「ううん、でも写真に撮りたい」



 「じゃあ、撮ろう」



 彼はシャッターを押す前に、少しだけ私を見た。

 その視線には、いつもの優しさと、少しの戸惑いが混じっていた。



 店内は冷房が効いていて、涼しい空気が肌に心地よかった。

 カフェの窓際に座り、アイスコーヒーを前に置く。

 海斗は少し照れくさそうに、でも嬉しそうに笑った。



 「夏休み、君といると長く感じるね」



 その言葉に、胸がじんわり温かくなる。

 長い時間をかけて、少しずつ近づいてきた距離。

 でも同時に、背後に小さな影を感じる。



 午後、私たちは港の倉庫街を撮影に向かった。

 古い壁のペンキ、錆びた鎖、波が反射する鉄の光。



 海斗は静かに、でも熱心にシャッターを切る。

 ときどき、ふっとため息をつくことがあった。



 「未来」



 「ん?」



 「……写真、上手いね」



 「ありがとう」



 「いや、俺、君の撮る写真、なんか……人の心まで写すみたいで好き」



 その言葉に、私は息を飲んだ。

 人の心まで写す……。

 それは、私がいつも感じていたもどかしさの正反対だった。



 誰かの作られた笑顔じゃなくて、その奥にあるものまで。



 彼はそれを、私に見せてくれているのだろうか。



 夕方、倉庫の隙間から光が差し込み、海斗の横顔を照らす。

 まぶしい光の中で、彼は少しだけ目を細めた。



 その瞬間、私はカメラを構えた。

 シャッターを切る手が震えた。



 この表情を、絶対に残したい。



 日が沈みかけ、空が赤く染まる頃、港の波止場に座って二人で休む。

 海斗がぽつりと言った。



 「未来……俺、いつかここを離れるかもしれない」



 その言葉は、夏の空気より重く、胸に刺さった。



 「え……」



 「でも、今はこうしていられて幸せだ」



 彼の笑顔は優しい。

 でも、その奥にある影は消せない。



 その日の帰り道、私はカメラを持ちながら、何度も彼の言葉を思い返していた。

 離れる……かもしれない。



 それでも、今この瞬間を撮りたい。

 写真に残して、心に焼きつけて、忘れないようにしたい。



 家に帰ると、ノートの端に小さく書いた。



 「橘海斗——今の君を、忘れたくない」




翌日、私は早起きして、カメラを肩にかけていた。



 夏の朝は、光も風も、昨日とは少し違う。

 潮の匂いが混ざった空気は冷たく、胸の奥まで染みていくようだった。



 駅前の小道を抜けると、海斗がすでに待っていた。



 「おはよう、未来」



 いつもの静かな声。

 でも、昨日の夕暮れの言葉が頭の奥でざわつく。

 ——離れるかもしれない。



 今日は町外れの廃墟になった工場へ行くことになっていた。

 倉庫や古い壁を撮るのは、私たちの夏の恒例だった。



 そこには、古い窓ガラスに映る光や、錆びた鉄骨が、写真にすると不思議な雰囲気を作る。



 海斗は静かに歩きながら、時々足元の砂利を蹴った。



 「未来、さっきの話……」



 私が振り向くと、彼は少し俯き、言葉を選ぶようにしていた。



 「俺、昔から人に心を開くのが下手で……」



 ——胸がぎゅっとなる。



 「……それで、写真を?」



 「うん。人が無理に作る笑顔じゃなくて、その人の雰囲気や空気を写すのが好きなんだ」



 彼の言葉には、嘘がなかった。

 写真に込める想いは、きっと本心だった。



 廃墟の中、光と影が交錯する。

 窓から差し込む光は、埃を浮かび上がらせ、空気そのものを撮影するような錯覚を与える。



 海斗が一歩踏み出すと、影が揺れ、まるで彼が光を抱き込むみたいだった。



 「未来、あの……」



 海斗が突然立ち止まった。



 「俺、君に見せたいものがある」



 少し不安を覚えながらも、私は彼に従った。

 廃墟の奥に、錆びた階段があった。

 上に登ると、屋上の広場に出る。



 そこからは町と海が一望でき、夕暮れには沈みゆく太陽が海面を染める。



 海斗はカメラを置き、私の手を軽く握った。



 「未来、これが俺の……好きな場所」



 視線を上げると、遠くに灯台が見え、波が金色に輝いている。



 「きれい……」



 思わず呟いた私の声を、海斗は優しく笑って聞いていた。



 「ここにいると、なんだか全部忘れられる気がするんだ」



 「……全部?」



 「うん。嫌なことも、不安も、孤独も」



 彼の瞳に、ほんの少しだけ影が揺れる。



 「でも……俺、全部忘れられないこともあって……」



 ——そのとき、私は気づいた。

 海斗の心の奥には、何か言えない秘密がある。



 それが何なのか、まだわからないけれど、確かに存在する。



 夏の光は、私たちの周りをやわらかく包む。

 海斗の手の温かさが、胸の奥まで染みていく。



 私は思わず息を呑み、カメラを握る手が少しだけ震えた。



 「ねえ、海斗」



 「ん?」



 「その……もし、辛いことがあったら、私に話して」



 「未来……ありがとう。でも、俺は大丈夫」



 その言葉には、まだ嘘があった。

 でも、優しい嘘だった。



 数日後、町で小さな花火大会があった。

 浴衣を着て、二人で歩く夏祭り。

 屋台の光、太鼓の音、笑い声。

 町全体が、まるで一枚の写真の中に収まったみたいに感じる。



 海斗は少し照れながら、私の手を握った。



 「未来……」



 その声に、私は胸を打たれる。



 「なに?」



 「……こうして一緒にいられるの、楽しい」



 花火が夜空に大きく咲く。

 光の輪が二人を包む。

 その瞬間、私は思った。

 どんな秘密があっても、今はただ、彼と同じ時間を生きたい、と。



 その夜、帰り道で海斗がぽつりとつぶやいた。



 「未来、俺……誰にも言えないことがある」



 私は小さくうなずき、握る手を強くした。



 「大丈夫。無理に言わなくてもいい」



 でも、心の奥では、少しだけ不安が膨らんだ。



 ——夏休みは、まだ始まったばかり。




 八月の半ば、町は熱気に満ちていた。



 昼間の太陽は容赦なく照りつけ、道路の向こうが揺れて見える。

 でもその暑さの中で、私はいつもより少しだけ落ち着かない気持ちで過ごしていた。



 ——海斗の様子が、変だった。



 夏祭りの日から、彼の笑顔の中にわずかな翳りが混じるようになった。

 顔を背ける瞬間、返事までの間。

 今まで気づかなかった間が、そこには確かにあった。



 私たちは例の廃工場へ撮影に行く予定だった。

 けれど、待ち合わせの時間を五分過ぎても、彼は来なかった。

 十分が過ぎ、二十分が過ぎ——胸がざわつき始めた頃、ようやく海斗は姿を現した。



 「ごめん、未来」



 息を少し切らし、額には汗がにじんでいた。

 でも、それよりも気になったのは、彼の瞳の奥に残るわずかな赤み。

 泣いた……?

 そんな気がした。



 「遅れてごめん。本当に」



 「大丈夫。……でも、何かあった?」



 問いかけると、海斗は一瞬だけ目を伏せた。



 「……ちょっとね。大丈夫だから」



 その大丈夫が、まったく大丈夫じゃないことくらい、もう分かってしまう。

 胸が締めつけられるような痛みが走り、何か言いかけてやめた。



 私たちは歩き出した。

 セミの声が、やたらとうるさく耳に響く。



 廃工場につくと、風がぬるく吹き抜け、鉄の匂いが鼻をくすぐった。

 海斗は何も言わずに、古い階段を上がっていった。

 私はその背中を追いかける。



 屋上につくと、彼はフェンスにもたれかかって、海の方をじっと見ていた。



 「未来」



 「なに?」



 「……海って、逃げ場みたいだね」



 その声がひどく弱かった。

 昨日までの海斗じゃない。

 優しいけれど、どこか諦めたような声だった。



 私はそっと近づいた。



 「逃げ場?」



 「うん。何かに追われてるとき、ここに来ると楽になる。……でも、その何かは、結局追いかけてくるんだけど」



 彼は笑った。

 でも、その笑顔の奥には、冷たい影が沈んでいた。



 「海斗、何があったの?」



 「……未来には、言いたくない」



 即答。



 胸が、ひどく痛んだ。



 「……私だから?」



 問いかける声がかすれた。



 海斗は目を瞬かせ、驚いたように私を見た。

 そして、ゆっくり首を振った。



 「違う。未来だから言えないんだ」



 その言葉は、静かで、優しくて、残酷だった。

 私だから言えない——それは、私が近すぎるという意味だろうか。

 それとも、傷つけたくない相手だという意味だろうか。



 海風が、髪を揺らした。



 しばらくすると、何事もなかったかのように海斗はカメラを構えた。



 「撮るよ、未来」



 私も無言でファインダーを覗く。

 しかし、海斗を撮ろうとすると、彼は横を向いた。

 顔が、見えない。



 「海斗……」



 シャッターを切れなかった。

 胸の奥がざわついて、指が動かない。



 そんな私を見て、彼が小さく笑った。



 「未来って、分かりやすいよね」



 「え?」



「怒ってるでしょ?」



「……怒ってない」



「うん、怒ってる」



 彼は軽く笑った。

 その明るさが、少しだけ腹立たしくて、そして少しだけ救われた。



 「じゃあ、撮ってよ」



 海斗が私に向き直った。

 目元の影はもう消えている。

 夏の光を受けた瞳は、澄んでいて……少しだけ、怖いほど綺麗だった。



 私はシャッターを切った。



 カシャ。



 その一瞬、彼の心がどこにあったのか、私には分からなかった。



 夕暮れになると、海沿いのベンチに座って休憩した。

 空は朱色に染まり、海は淡く光る。

 夏の終わりを予告する色。



 海斗は、息をつくように言った。



 「未来は、強いね」



 「え、私が?」



「うん。ちゃんと、自分の足で立ってる」



 私は首を振った。



 「そんなことないよ。見えてないだけ。私だって、怖いこといっぱいある」



 「何が怖いの?」



 彼の問いに、私は言葉を失った。

 言ってしまえば、壊れてしまいそうな気がした。

 でも言わないと、彼の影に届かない気もした。



 「……海斗がどこかに行っちゃいそうで、怖い」



 その瞬間、彼の表情が変わった。

 海の音より静かな沈黙が、二人の間に落ちた。



 「……未来」



 海斗は顔を伏せ、小さな声で言った。



 「そんなふうに思われるなんて……想像してなかった」



「だって……」




 言いかけたとき、海斗がそっと私の手を握った。

 強くも弱くもない、優しい力だった。



 「未来。……君のことは、絶対に裏切らないよ」



 その言葉は嘘じゃなかったと思う。

 でも、真実のすべてでもなかった。

 その時の私は、まだ気づいていなかった。



 ——裏切らないと言った彼こそが、

  この夏の終わりに、私の世界を大きく変える人だということを。




八月が終わりに近づくと、町は少しずつ静けさを取り戻していった。



 海の匂いも、風も、なんだか少し寂しげに感じるようになった。



 日差しは依然として強く、でもその光の下で心がどこか冷えていくような気がする。

 今年の夏は長かったけれど、いつの間にかもう終わりに近づいている気がしてならなかった。



 海斗と過ごした時間も、どこか儚く感じるようになってきた。



 ——私、もうすぐ、この夏を忘れそうだ。



 夏休みが終わると、また普通の学校が始まる。

 その後、何もなかったように日常に戻ってしまうのだろうか。



 そのことが、私の胸を苦しくさせた。



 ある日、海斗が珍しく電話をかけてきた。



 「未来、今日、会える?」



 「うん、大丈夫」



 「じゃあ、放課後、いつもの場所で」



 「分かった」



 そう言って電話を切ると、私は胸の中で何かがざわついているのを感じた。



 放課後、約束の場所に向かうと、海斗は少し遠くのほうで佇んでいた。

 何かを考えている様子だった。

 私が近づくと、彼はゆっくりと振り返った。



 「未来」



 「うん?」



 「今日は、ちょっとだけ……話したいことがある」



 その言葉に、私の心臓が大きく跳ねた。



 「うん、何?」



 「……やっぱり、言わないほうがいいかな」



 海斗はそのまま立ち上がり、目を伏せた。

 その様子を見ていると、胸が痛んだ。



 「ねえ、海斗」



 「未来」



 彼は無理に笑ったように見えた。



 「でも、君にだけは言っておきたかった」



 「なに?」



 海斗は少し考えた後、ゆっくりと口を開いた。



 「……俺、ここを離れることになった」



 ——その言葉を聞いた瞬間、世界が静かになった気がした。



 「え?」



 「家の都合で、もうすぐ引っ越さなくちゃいけないんだ」



 彼はそう言って、少しだけ微笑んだが、私はその笑顔を見ていられなかった。

 心の中に、言葉にできない感情が溢れ出しそうだった。



 「海斗……」



 「ごめん、急に言っても信じられないよな。でも、これが現実なんだ」



 「……でも、どうして?急に?」



 「色々な理由があるけど……その一つは、俺の家がこっちに長くいることを許してくれないんだ」



 「それって……」



 「そう、あんまりいい理由じゃないけど」



 海斗は目を伏せて、しばらく黙っていた。



 その瞬間、私の心に冷たい風が吹き抜けた。



 「……じゃあ、私たち、もう会えないの?」



 その問いに、海斗は一瞬言葉を失った。

 そして、すぐに小さく頷いた。



 「たぶん、そうだね」



 その言葉を聞いたとき、私は心の中で何かが崩れ落ちる音を感じた。



 その後の数日は、海斗と過ごす時間が、どこか無理に明るくなっていった。

 私たちの間にある距離を感じながらも、もうすぐ終わる日々が痛々しくて、私はその一瞬を無駄にしたくなかった。

 でも、どんなに笑っても、彼の目の奥には何か言えない秘密があることが分かっていた。



 ——それでも、この夏は特別なものだと感じていた。



 ある日、海斗が突然、私にこう言った。



 「未来、今日、最後にもう一度、あの場所に行こう」



 「え?どこ?」



 「廃工場」



 私は少し驚いたが、すぐに頷いた。

 それは、彼との思い出が詰まった場所だから。

 廃工場には、私たちが撮ったたくさんの写真が残っている。

 その場所で、最後のひとときを過ごそうというのだろうか。



 私たちは廃工場に向かった。

 いつものように階段を上り、屋上に立つ。

 夕暮れが少しずつ近づいて、空が黄金色に染まり始めていた。



 海斗は、無言で私の隣に立って、しばらくの間、遠くを見つめていた。



 「未来」



 「うん?」



 「さっきのこと……覚えてる?」



 「覚えてるよ」



 「……俺、君と出会ってから、すごく幸せだった」



 その言葉を聞いた瞬間、胸が熱くなった。



 「でも、幸せな時間は、すぐに終わってしまうんだ」



 海斗は少し寂しげに言った。



 「——どうして、そんなこと言うの?」



 「だって、俺はもうすぐ君の前から消えてしまうから」



 彼の目の奥に、かすかな涙が光っているのを見て、私は思わず手を伸ばした。



 「海斗……」



 そのとき、突然、空から一筋の光が落ちてきた。

 花火だ。

 遠くの町で、花火大会が始まっていた。



 「あれ、花火……」



 「うん。花火は、夏が終わる前に必ず見るべきだろ?」



 海斗は少しだけ微笑んだ。

 そして、私はその微笑みがあまりにも切なくて、胸がいっぱいになった。



 その花火を見ながら、私は感じていた。

 ——これは、別れの合図なんだろうか?



 それとも、二人で一緒に歩く最後の夏を、静かに締めくくるためのひとときなのだろうか?



 その日の夜、私はひとりで帰る道を歩いていた。



 海斗があの場所から消えていくのを、心の中で受け入れなければならないことが、だんだんと現実味を帯びてきた。



 でも、そのことがどうしても受け入れられない。



 こんなにも、海斗を感じたいのに。



 ——どうして、彼はそんなに遠くへ行くんだろう。




夜の風が肌に触れるたび、胸の中の温かいものが少しずつ冷えていくのを感じる。



 花火が終わった後、私は一人で家に帰る途中で立ち止まった。



 その静かな夜に響くのは、自分の足音だけ。

 海斗の言葉が頭の中をぐるぐると回り、心が締めつけられるような気がした。



 ——「幸せだった」って、あんなふうに言われたことが、今でも信じられない。



 私の中で、海斗という存在はあまりにも大きくなっていた。

 でも、彼がこの町を離れてしまうのは避けられない現実だ。



 それが、私の中でますます重くのしかかってくる。

 もうすぐ、この町も、この夏も終わってしまう。



 家に帰ると、窓から見える夜空がなんだか遠く感じた。

 海斗がいなくなるなんて、まだ信じられない。

 でも、現実は待ってくれない。



 私は、自分の気持ちが整理できる気がしなかった。

 そして、ふと、部屋の片隅に置かれたカメラが目に入った。

 それは、あの日、海斗と一緒に撮った写真がいっぱい詰まったカメラだった。

 彼と一緒に撮った一枚一枚が、私の中でどんどん色濃くなっていく。



 ——でも、もう、あの頃には戻れない。



 次の日、海斗から連絡が来た。



 「未来、少しだけ会えない?」



 それが、私の心に火をつけた。



 私はすぐに返信した。



 「会いたい。でも、今日は少しだけ……」



 そして、放課後に彼との約束をした。



 ——これが最後になるのかもしれない。

 でも、どうしても最後にもう一度、彼と話したかった。



 放課後、私はまた廃工場に向かった。

 さっきの花火がまだ目に焼き付いている。



 海斗があそこで見せた、あの笑顔が。



 彼の微笑みが、胸を締めつけるように痛かった。



 廃工場に着くと、海斗はすでにいた。



 その目はいつものように少し遠くを見ているようで、でも私を見つけると、ほんの少しだけ微笑んだ。



 「未来」



 「うん」



 私も一歩前に進んで、海斗の隣に立った。

 しばらく黙っていた。

 でも、その沈黙が耐えられなくて、私はつい口を開いた。



 「海斗、どうして……本当に、ここを離れるの?」



 「……俺は、ただ君に言いたかったんだ。君のことがすごく大切だって。でも、俺、君に迷惑をかけるわけにはいかない」



 「迷惑なんて、そんなこと……」



 「いや、そうじゃないんだ。君に好きだって言われることが、俺にはもうできないんだ」



 海斗は私の目を見て、静かに言った。



 その言葉に、私は言葉を失った。



 「どうして、そんなことを言うの?」



 「未来、俺には……本当に、言えないことがあるんだ」



 「それは、何?」



 「——俺には、君を守る力なんて、ないんだ」



 その言葉が、私を深く突き刺した。

 海斗が何を言いたいのか、だんだん分かってきた。

 彼が背負っている何かが、私には理解できないくらい重いものだということを。



 その晩、私は眠れなかった。

 海斗の言葉が、頭の中で反芻されて、どうしても整理がつかない。



 ——守れないって、どういうことなんだろう?



 次の日、私はいつも通り学校に行った。

 でも、海斗の顔を見るたびに、何かが違うと感じるようになった。

 彼の視線には、以前のような明るさが少し足りないような気がする。



 ——あの秘密、私が知らなきゃいけないことがあるんじゃないか。



 その疑問がどんどん大きくなり、私はついに自分から海斗に問いかけることに決めた。



 放課後、海斗が部室にやって来た。



 「未来、今、少しだけ話せる?」



 私は黙って頷き、彼を部室の隅に呼んだ。



 「海斗、私、気になることがあるんだ」



 「何?」



 「……君、何か隠してるよね?」



 その言葉に、海斗の顔色が少し変わった。

 彼はしばらく黙っていたけれど、やがて深いため息をついて、ゆっくりと口を開いた。



 「未来、俺、実は……」



 その瞬間、ドアが突然開いた。



 「海斗くん、ちょっといい?」



 声の主は、写真部の先輩だった。

 その表情はどこか厳しく、海斗を見据えている。



先輩が部室に入ってきた瞬間、空気がわずかに揺れた。

 蛍光灯の光が彼の肩で跳ね、その視線はまっすぐ海斗に向けられていた。



 「海斗くん、ちょっと職員室まで来てもらえる?」



 「……はい」



 海斗は怯えたように、でも諦めたように立ち上がった。



 私は咄嗟に袖を掴んだ。

 指先が震えていた。



 「待って、海斗。話、まだ⋯…」



 彼は、ゆっくり私の手を外した。

 その力は驚くほど優しくて、逆に心を締めつけた。



 「未来。……ごめん。あとで、ちゃんと話すから」



 その声はかすかに笑っているようで、でもどこか泣きそうだった。



 海斗は先輩の後ろ姿を追うように部室を出ていった。

 ドアが閉まる音が、やけに大きく響いた。



 残された赤い暗室のランプが、やけにぼんやり滲んで見えた。



 しばらくしても戻らない海斗を待ちながら、私は現像液の前に座り込んだ。

 時計の針が何度も同じところを回り、夕方の光がゆっくりと部室を沈めていく。



 暗室の隅に置かれたフィルムの束が目に入った。

 その中には、あの日海斗が撮った私の横顔もあるはずだ。



 ——でも、まだ見られない。

 見てしまったら、何かが決壊してしまう気がした。



 外からカモメの鳴き声が聞こえた。

 窓の外は、もう夕暮れに染まり始めている。



 私は、海斗が言いかけた言葉をずっと反芻していた。



 ——「俺には、君を守る力がない」

 ——「未来、俺、実は……」



 その先がどうしても知りたい。

 でも、知ることが怖い。

 そんな矛盾が胸の中で渦巻く。



 私は自分の胸に手を当てた。

 鼓動が早くて、苦しくて、呼吸が少しだけ浅くなっていた。



 「……はやく、戻ってきてよ」



 思わず声に出た。

 誰にも届かない声だった。



 日が沈みかけた頃、部室のドアがゆっくり開いた。



 「未来」



 その声に顔を上げると、そこには海斗が立っていた。

 肩が少し震えていて、目の奥がいつもより暗かった。



 でも、その中に微かな光もあった。



 「……ごめん。遅くなった」



 彼は息を整えながら、静かに笑った。



 私は急いで立ち上がり、彼の元へ駆け寄った。

 喉が詰まり、言葉にならない。



 「海斗……大丈夫?」



 「うん。大丈夫。……たぶん」



 たぶん、という言葉が胸に刺さる。



 海斗は少しだけ視線を落とし、そしてゆっくり顔を上げた。

 その目は、覚悟を飲み込んだ人の目だった。



 「未来。……俺、明日、話すよ」



 「明日?」



 「うん。全部。ちゃんと」



 その言い方が、どうしようもなく切なかった。



 ——まるで、明日が来なかったら困るからと祈るように。



 海斗は一歩下がって、夕暮れの光の中で、静かに言った。



 「だから、今日のこと……忘れないで」



 その言葉は、胸の奥で静かに爆ぜた。



 「忘れないよ」



 それだけ言うだけで精一杯だった。



 海斗は小さく頷き、夕焼けの廊下をゆっくり歩き去っていった。



 私はその背中を黙って見送った。



 この町の海風が、少しだけしょっぱく感じた。

 夏の終わりの匂いが混ざっていた。



 ——そして、私は気づいてしまった。



 明日が来ることを、こんなにも祈る日があるなんて。