この町の風は、少しだけしょっぱい。



 春が終わって、梅雨が近づく頃になると、その匂いがいっそう濃くなる。



 潮の匂いは、学校の廊下の隅々にまで入りこんで、制服の袖や髪の毛の奥にまで残る。



 それが好きだと思ったことは、一度もない。

 けれど、嫌いだとも思わなかった。



 海沿いの町は、静かで狭い。



通学路からは港が見え、放課後になると釣り人とカモメが並ぶ。



道端には紫陽花が咲き始めていて、カメラを向けると、風がふっと花弁を揺らす。



 私はその瞬間を切り取るのが、好きだった。

 無言のものを撮るほうが、ずっと落ち着く。



 ——私は、人の笑顔を撮るのが苦手だ。




 そう言うと、みんなは決まって不思議そうな顔をする。



 「写真部なのに?」とか、「人を撮るのが一番面白いのに」とか。

 でも、どんなに努力しても、私は作られた笑顔しか撮れなかった。



 「笑って」と言う。

 彼らは笑う。



 けれど、その瞬間の奥にあるものが、どうしても掴めない。

 笑顔というのは、誰かに見せるために作られたものだ。



 それをカメラに閉じこめるたびに、何かを壊しているような気がして、息が詰まる。



 今日も放課後の部室で、私は現像液の匂いに包まれていた。



 狭い暗室の中、赤いライトの下で、白い印画紙に像が浮かび上がる。

 時間がゆっくりと流れるこの瞬間が好きだ。



 世界の音が遠ざかり、自分の心臓の音だけが聞こえる。



 写真の中には、笑うクラスメイトたちがいた。



 でも、彼らの笑顔を見ても胸が動かない。

 どこか空虚で、乾いていて、まるで薄いフィルムの裏側にいるような気がする。



 窓を少しだけ開けると、潮風が吹き込んできた。

 遠くでカモメの鳴き声がする。

 空はまだ明るくて、海の向こうでは夕焼けが始まりかけていた。



 そのとき、ドアが軽くノックされた。



「……瀬戸さん?」



 控えめな声。振り向くと、見慣れない男子生徒が立っていた。

 白いシャツの第一ボタンを外し、リュックを片肩にかけている。



 光を背にしているせいで顔がよく見えなかったけれど、その輪郭は柔らかく、目だけが不思議なほど澄んでいた。



「ここ、写真部だよね?」



 少し戸惑ったように笑う。

 その笑い方が、まるで波の音みたいに静かだった。



「うん、そうだけど」



「俺、今日から転校してきた。橘海斗」



 転校生。

 この小さな町では珍しい言葉だった。



 彼はまっすぐな視線をこちらに向けた。

 それは人懐っこいというより、どこか遠くを見ているような目だった。



「写真部って、誰でも入れる?」



「……まあ、興味があれば」



「興味、あるかも」



 彼はそう言って、部室の中を見渡した。

 現像液の匂いに少し顔をしかめ、それから机の上の写真を手に取った。



「これ、君が撮ったの?」



「うん」



「なんか、優しいね」



 優しい、なんて言われたのは初めてだった。



 どちらかというと地味とか暗いとか、そんな言葉ばかりもらってきた。



 だから不意に胸の奥が熱くなって、何も返せなかった。



 その沈黙を破るように、風が窓を叩いた。



 カーテンの隙間から差し込む光が、海斗の横顔を照らす。



 その光の中で、彼は少しだけ目を細めた。



 まるで、懐かしいものを見つめるみたいに。



 ——その瞬間、私は気づいてしまった。



 カメラを持つ手が、震えていた。

 シャッターを切りたいと思った。

 彼のその表情を、このまま永遠に閉じこめておきたいと。



 けれど、まだシャッターは押さなかった。

 押してしまえば、何かが終わってしまう気がした。



「ねえ、瀬戸さん」



「なに?」



「海って、毎日見えるの?」



「うん。ここからなら、放課後に屋上からも見えるよ」



「そっか」



 彼は少し考えてから、ふっと笑った。



「——きっと、いい町だね」



 その笑顔があまりにも優しくて、私は息を忘れた。



 彼の声が、波の音と混ざって溶けていく。



 夕陽が沈みかけて、窓の外が金色に染まる。

 潮の匂いが強くなり、世界が少しだけ滲んだ。



 その日、橘海斗が転校してきた。

 そして、私の時間は、少しずつ彼に染まり始めた。




 その夜、家に帰ってノートを開いた。



 誰にも見せたことのない、撮りたいもののリスト。



 桜、波、猫、夏の空、——。



 最後の一行の下に、私はそっと書き足した。



 橘海斗。




翌日、空は薄く曇っていた。



 朝のホームルームが終わっても、教室の中はどこか眠たげな空気に包まれている。

 窓の外では風が旗を揺らし、遠くの海をかすかに光らせていた。



 橘海斗は、私の二列後ろの席になった。



 転校生の自己紹介は短く、淡々としていた。



 「橘海斗です。よろしくお願いします」



 それだけ。

 でも、その声には不思議な温度があった。冷たくもなく、あたたかすぎるわけでもない。



 耳に残るその響きだけが、妙に心の奥で反響していた。



 授業中、何度か後ろを振り返りそうになったけれど、できなかった。



 視線を向けたら、何かが変わってしまう気がして。

 代わりにノートの端に小さな丸を描いて、無理やり気を紛らわせた。



 昼休み、友達の美月がパンをかじりながら話しかけてきた。



 「ねえ、未来。昨日の転校生、ちょっと雰囲気違くない?」



 「そうかな」



 「うん、なんか都会っぽい。あと、目がきれい」



 その言葉に、胸の奥が少しだけざわついた。

 ——目がきれい。

 昨日のあの光の中の瞳を思い出して、私は返事を濁した。



 放課後になると、また写真部の部室に行った。

 昨日と同じように、潮の匂いが窓から流れ込んでくる。



 机の上の現像液はまだぬるく、光は赤く沈んでいた。



 ドアが開く音。



 「やっぱり、いた」



 海斗だった。

 彼はカメラを片手に持ち、少しだけ息を弾ませていた。



 「顧問の先生に言ったら、入部届けくれた。今日から正式に、写真部員」



 そう言って笑う顔は、昨日よりも近く見えた。



 「カメラ、持ってるんだ」



 「うん。父さんのやつ。古いけど、気に入ってる」



 海斗はそう言って、手の中の黒いフィルムカメラを撫でた。

 レンズに夕陽の光がかすかに反射して、一瞬だけ赤い線が走る。



 「撮るの、好きなの?」



 「うん。……忘れたくないものを、残しておきたくて」



 彼の声は静かだったけれど、その一言だけが胸に刺さった。

 忘れたくないもの。



 それは、私が写真を撮る理由とは違っていた。



 私は消えてしまいそうなものを、捕まえたくて撮っていた。

 海斗は残したいものを撮る。



 その差が、少しだけ痛いほどに思えた。



 「じゃあ、練習しようか」



 「練習?」



 「そう。……俺、撮るより撮られる方が好きかもしれない」



 彼は軽く笑いながら、窓際に立った。

 背中の向こうで、海が光っていた。



 「撮って」



 突然の言葉に、息が詰まった。

 ファインダー越しに彼を見た瞬間、世界の音が消えた。

 風も、光も、全部が海斗を中心にゆっくりと回っているように感じた。



 シャッターを切る。

 カシャッという音が、胸の奥に響く。



 たった一枚の写真。



 でも、その瞬間、確かに何かが始まった。



 海斗は笑わなかった。

 けれど、その表情はどこか安らいでいた。

 笑顔じゃないのに、優しい。

 ——初めて、人の写真が好きだと思った。



 現像液に沈む印画紙の上で、彼の姿が浮かび上がっていく。

 私はその像が完全に現れる前に、目を逸らした。

 見てしまえば、戻れなくなる気がしたから。



 雨の気配が近づいている。

 もうすぐ、梅雨が来る。




 雨の日が増えた。



 空の色は、毎日少しずつ灰色を増していく。



 ガラス窓を打つ音が絶えず響き、教室の蛍光灯の光がそれを濡らす。



 海斗は、あの日から本当に写真部に顔を出すようになった。



 放課後、他の部員が帰っても、彼だけはいつまでも残って現像液を覗き込んでいる。



 「この時間、いいよな」



 そう言って、赤いランプの下でぼんやり笑う。



 彼の笑い方はいつも音がしないようだった。

 息と一緒に、静かに零れる。



 それがどこか心地よくて、私はつい同じ空気の中に長居してしまう。



 カメラを構える姿にも癖がある。

 シャッターを切る直前、必ず息を止める。

 その一瞬の無音が、まるで祈りのようだった。



 「ねえ、海斗」



 「ん?」



 「どうして忘れたくないものを撮るの?」



 私がそう尋ねると、彼は少し間を置いてから言った。



 「……たぶん、俺、忘れっぽいんだ」



 その答えが冗談みたいに聞こえたのに、彼の目は笑っていなかった。



 「大事なことほど、いつの間にか消えていく気がするんだ。だから、残したい。形にしておきたい」



 それを聞いて、胸が少し痛くなった。

 私も同じように、何かを失うのが怖くて写真を撮っていた。



 でも、忘れたくないという言葉の裏には、何かもっと深い影が潜んでいる気がした。



 その日から、海斗と過ごす時間は少しずつ長くなった。

 放課後の部室。雨音のする窓辺。

 ふたりで現像液を見つめながら、何も話さない時間が増えた。



 言葉よりも、沈黙の方がずっと穏やかだった。

 沈黙の中に、相手の呼吸を感じられる。

 光と影の境目に、まだ知らない感情が静かに沈んでいる。



 ある日、海斗がふと私に言った。



 「今度さ、海に行かない?」



 「……海?」



 「写真、撮りたい。ここに来てから、まだちゃんと撮ってないんだ」



 彼の瞳の奥に、懐かしさみたいなものが滲んでいた。

 私は頷いた。



 日曜。

 朝から雨は降っていなかったが、空気は湿っていた。

 港へ向かう道は、濡れたアスファルトが鈍く光っている。



 海斗は学校とは違う格好で現れた。

 白いシャツの袖をまくり、首にはカメラを下げている。

 髪は少しだけ風に乱れていて、その無造作さが妙に似合っていた。



 「ここ、いいね」



 波打ち際に立つと、彼は目を細めた。

 潮風が吹いて、シャツの裾が揺れる。

 私はその姿を見て、無意識にカメラを構えていた。



 ——カシャッ。



 彼が振り向く。



 「撮った?」



 「……うん」



 「ちゃんと撮れた?」



 「たぶん」



 彼は少し笑って、それだけでまた画面の中に光が差した。



 海斗の撮る写真は、どれも優しかった。

 濡れた砂、風に傾く草、壊れかけのベンチ。



 人を撮るときでさえ、どこか距離を置いているような、静かな目線だった。



 「ねえ、未来」



 「なに?」



 「君の撮る写真って、全部誰もいないよね」



 「……そうかも」



 「なんで?」



 私は少し考えてから答えた。



 「人の顔を撮るのが、怖いから」



 「怖い?」



 「うん。……その人の気持ちが、わからなくなる。笑ってても、本当は笑ってないかもしれないし。シャッターを押すたびに、なんか、嘘を写してる気がするの」



 海斗は黙って、カメラのレンズを海に向けた。



 「でもさ、それでも撮るのは、きっと嘘じゃないよ」



 「え?」



 「だって、撮りたいって思う気持ちは、本当だろ」



 その言葉が、胸の奥で静かに響いた。

 潮の匂いが濃くなり、海が少しずつ満ちていく。

 風の音が、心臓の鼓動と重なっていた。



 そのあと、海斗は波打ち際にしゃがみこんで貝殻を拾った。

 小さく欠けた白い貝。



 「これ、未来にあげる」



 「なんで?」



 「今日の記録」



 「写真じゃなくて?」



 「たまには、こういうのもいいでしょ」



 彼の手の中から受け取った貝は、まだ少しだけ海の匂いがした。

 私はそれをポケットにしまいながら思った。



 ——この瞬間を、絶対に忘れたくない。



 翌日、学校の廊下を歩いていると、海斗が誰かに囲まれていた。



 女子たちが何人も彼のまわりで話しかけている。



 彼は困ったように笑っていた。



 その笑顔が、昨日とは違うものに見えた。

 作られた笑顔。



 私は胸の奥が少しだけ冷たくなった。



 「瀬戸さん」



 呼ばれて振り返ると、彼が手を振っていた。



 その仕草はあくまで自然で、まわりの視線が刺さるように集まった。

 私は軽く会釈して、すぐに廊下を抜けた。



 放課後、部室で一人、昨日の写真を現像した。

 海斗の横顔。

 波の光。

 全部が柔らかくて、まるで夢の中の景色みたいだった。



 けれど、印画紙が完全に白く乾いたとき、私は少しだけ怖くなった。

 この瞬間を残してしまったことが。

 彼を撮ることが、何かを侵してしまうようで。



 ——それでも、もう止められなかった。



 海斗を見ていると、レンズを向けたくなる。

 目の奥の光を、閉じこめたくなる。

 それが恋というものなのか、まだわからなかった。



 でも、わからないままでも、心は確かに揺れていた。

 それだけで十分だった。




 六月に入ると、雨は途切れなくなった。

 朝から降り始めた雨は放課後になっても止まず、窓の外では灰色の空がゆっくりと海へ溶けていく。



 教室の窓際に座っていると、世界の音がすべて遠くなったように感じる。

 雨の匂いとチョークの粉の匂いが混ざって、少しだけ懐かしい気持ちになる。



 その日の放課後、海斗は傘を差さずに校門の前で待っていた。



 「濡れるよ」



 そう言うと、彼は笑って肩をすくめた。



 「どうせすぐ乾く」



 制服の袖はすでにしっとり濡れていて、髪の先から水滴が落ちている。

 でも、その姿は不思議と寂しそうには見えなかった。



 「どこか行こうか」



 「雨なのに?」



 「雨だから、いいんだよ」



 そう言って、彼は港の方へ歩き出した。

 潮風と雨の匂いが混ざり合い、世界が少しぼやけていく。



 私は自分の傘を少しだけ傾けて、彼の肩にかかるように差し出した。



 「ほら、濡れるでしょ」



 「いいの?」



 「傘、ひとつしかないし」



 海斗は少しだけ息をのんで、それから静かに頷いた。



 歩幅を合わせながら歩く。

 傘の中に二人分の息がこもる。



 港の手前の古い倉庫にたどり着くと、海斗はそこに入った。

 中は薄暗く、錆びた鉄の匂いと湿った木の匂いがした。



 「ここ、前に見つけたんだ」



 彼はそう言って、床にカメラを置いた。



 「よく来るの?」



 「うん、ひとりのときは」



 壁には誰かが残した落書きがいくつもあった。



 好きだとか、名前とか、誰かの願いの残骸みたいな言葉たち。



 海斗はそれを指でなぞって、少し笑った。



 「こういうの、消えないよな」



 「雨でも、風でも?」



 「うん。……不思議だよね。人の気持ちって、残るんだ」



 その言葉に、胸の奥がかすかに疼いた。

 残る。

 写真と同じだ。



 写した瞬間の気持ちは、もう二度と戻らないのに、確かにそこに残る。



 私は無意識にカメラを構えた。

 海斗が窓際に立ち、外の雨を見ている。



 シャッターを押す直前、彼がこちらを振り返った。

 光のない倉庫の中、彼の瞳だけがかすかに光っていた。



 ——カシャッ。



 写真の中で、海斗は少し笑っていた。

 けれど、それは誰かに見せるための笑顔ではなかった。

 守るような、隠すような、やさしい表情。



 「撮られるの、慣れてる?」



 「いや」



 「なのに、自然」



 「君が撮ると、そうなる」



 そう言われて、何も言えなくなった。

 倉庫の屋根を打つ雨音が少し強くなって、

 世界がふたりきりになったみたいだった。



 「ねえ、未来」



 「なに?」



 「もし、撮った写真の中の人がいなくなったら、その写真って、どうなるんだろ」



 突然の問いに、心臓が小さく跳ねた。



 「……どうって?」



 「その人のこと、思い出したくないって思ったら、写真ごと消したくなるのかな」



 言葉が出てこなかった。

 代わりに、彼の横顔を見た。

 瞳の奥に、言葉にできない影が揺れていた。



 「海斗、それ……」



 「ううん、なんでもない」



 彼は小さく首を振って、空を見上げた。



 「そろそろ、帰ろうか」



 帰り道、私たちはほとんど何も話さなかった。

 傘の中の空気が少し重たくなっていて、それでも、離れようとは思わなかった。



 次の日、彼は学校を休んだ。

 熱を出したらしいと聞いたのは昼休みのことだった。



 私は午後の授業が頭に入らず、ノートの上に水滴のようなインクの染みをいくつも作った。



 放課後、彼の家の住所を美月に聞いた。



 「え、行くの?」



 「……ちょっとだけ。プリント届けるだけ」



 口ではそう言いながら、心の奥では落ち着かないものが渦巻いていた。



 海沿いの坂道を登ると、白い壁の小さな家が見えた。

 庭には雨上がりの紫陽花が咲いていて、薄紫の花弁に水滴が光っていた。



 インターホンを押すと、すぐに彼の声がした。



 「……瀬戸さん?」



 「うん。プリント、持ってきた」



 少し間があって、ドアが静かに開いた。



 部屋の中は意外なほど整っていた。

 白いカーテン、整理された机、本棚の上にはフィルムの缶がいくつも並んでいる。

 その匂いだけで、彼の時間が感じられた。



 「ごめんね、突然」



 「ううん、嬉しい。ありがとう」



 彼は熱があるせいか、声が少し掠れていた。

 でも、その掠れた声が、いつもより近くに感じた。



 「これ、昨日の写真」



 私は封筒を差し出した。



 「現像、終わってたから」



 海斗は封を開け、写真を取り出した。

 雨の倉庫の中で、振り向く彼の姿。

 しばらく黙って見つめていたあと、彼は小さく息を吐いた。



 「……ありがとう」



 その声の奥に、少しだけ震えがあった。



 「やっぱり、君が撮る写真はやさしい」



 「そう?」



 「うん。……俺が、もう少し優しい人間になれたらよかったのに」



 その言葉に、心臓がきゅっと縮んだ。



 「なに、それ」



 「ううん、なんでもない」




 沈黙。

 部屋の隅で時計が秒針を刻む音が聞こえた。

 そのリズムが、なぜか遠くの波の音に似ていた。



 「海斗」



 「ん?」



 「元気になったら、また写真撮ろうね」



 「うん」



 彼は少し笑って、それだけを約束のように言った。



 帰り道、夕暮れが海を染めていた。

 雨上がりの空は金色に滲み、町全体が静かな光に包まれている。

 私はポケットの中の貝殻を取り出した。

 手の中でそれを握ると、まだほんの少しだけ、海の匂いがした。




雨が止んだのは、三日目の午後だった。



 放課後の空には薄い雲が残っていて、太陽が水面を金色に照らしていた。



 廊下の窓を開けると、風の匂いが少しだけ変わっているのがわかった。



 もう、夏の匂いがしていた。



 「久しぶり」



 声がして振り向くと、海斗が立っていた。

 熱は下がったらしいけれど、まだ少し顔色が白い。

 それでも、笑っている。

 その笑顔は、やっぱり静かで、少しだけ遠かった。



 「もう大丈夫?」



 「うん。……あの写真、見たよ。あれ、好きだな」



 「ほんとに?」



 「うん。俺、あのとき笑ってた?」



 「少しだけ」



 「そうか」



 彼は目を細めて、窓の外を見た。



 「君が撮ると、世界が少し静かになるね」



 私はその言葉を聞いて、胸の奥が熱くなった。

 世界を静かにできるなんて思ったことはなかった。

 けれど、もしそれが本当なら——、それは少しだけ、誇らしいと思った。



 その日から、海斗はまた部室に来るようになった。

 今度は彼の方から「放課後、行こう」と言うことが増えた。



 フィルムを巻き直す音、液の匂い、赤い光。

 その中で過ごす時間は、学校のどんな時間よりも穏やかだった。



 でも、一度だけ。



 ふとした瞬間、彼がレンズを見つめたまま動かなくなったことがあった。

 まるで何かを思い出すように、遠い目をして。



 「……どうしたの?」



 「いや、ちょっと、光がきれいで」



 その言葉の裏に、少しだけ影があった。

 けれど私は、それ以上聞けなかった。



 ある土曜日、彼が突然言った。



 「明日、写真撮りに行こう。ちゃんとしたやつ」



 「ちゃんとした?」



 「うん。……町を撮ろうよ」



 翌朝、待ち合わせ場所に行くと、彼はすでに来ていた。

 白いTシャツに、首からは例のカメラ。

 太陽の光が彼の髪を透かして、風がそこをすり抜けていく。



 「じゃ、行こうか」



 私たちは町を歩いた。

 古い商店街、踏切、港への坂道。

 海斗は何度もシャッターを切り、そのたびに嬉しそうにフィルムを巻いた。



 「ねえ、未来」



 「なに?」



 「この町、好き?」



 「うん。静かで、潮の匂いがして」



 「俺も、好きになった。でも……好きになると、離れづらくなるね」



 その言い方が少しだけ怖かった。



 「どういう意味?」



 「ううん。言葉のとおり」



 それ以上、彼は何も言わなかった。



 坂を登りきると、海が見えた。

 真昼の海はまぶしくて、空の青と溶け合っていた。



 私たちは並んで立ち、しばらく何も話さずに波を見ていた。



 「未来」



 「ん?」



 「この町って、全部写真みたいだね」



 「どういうこと?」



 「止まってる感じ。ゆっくり動いてるけど、本当は少しずつ消えてる」



 彼の声が、風にかき消されそうなほど小さかった。



 私はカメラを構えた。



 「じゃあ、消えないように撮ろう」



 「……撮れるかな」



 「撮れるよ。私たちが見てるうちは」



 シャッターを切る音が響いた。

 海斗の横顔、風に揺れるシャツ、白い光。

 そのすべてが一枚のフィルムに焼きつく。



 「ありがとう」



 彼は小さく呟いた。

 まるで、何かを手放すように。



 その夜、私は現像した。

 暗室に漂う薬品の匂いの中、印画紙の上に彼の姿がゆっくり浮かんでくる。

 海を背にした横顔。

 その目は遠くを見つめていた。

 どこかに行こうとしているような、そんな表情だった。



 胸がざわめいた。

 あの時、なぜ彼はあんな顔をしていたんだろう。

 写真を見つめながら、指先が震えた。

 ——このまま、彼がいなくなってしまう気がした。



 カーテンの隙間から、夜風が吹き込む。

 潮の匂いが濃くなって、目の奥が熱くなった。

 フィルムを乾かす手が止まり、私はただ彼の写真を見つめていた。



 忘れたくないものを残す彼はそう言っていた。

 でも、もしかしたら。

 残したくないものを、写していたんじゃないだろうか。



 次の日、海斗は学校に来なかった。



 その翌日も、また翌日も。



 美月が心配そうに言った。



 「なんか、転校してきた理由、ちょっと変だったらしいよ」



 「変って?」



 「前の学校でも、長くいなかったって」



 私はそれ以上聞けなかった。

 胸の奥で何かがざらついて、言葉が喉の途中で溶けた。



 放課後、私はもう一度彼の家を訪ねた。

 インターホンを押しても、応答はなかった。

 庭の紫陽花だけが、雨上がりの光を浴びて静かに揺れていた。



 ポケットの中の貝殻を握る。

 冷たくて、小さくて、心臓の音が吸い込まれていくみたいだった。



 その夜、夢を見た。

 波の音がして、海斗がこちらを振り向く。



 「未来」



 名前を呼ばれた気がして、手を伸ばした。

 でも、その指先は彼に届かないまま、光の中で溶けていった。



 朝、目を覚ますと、窓の外がまぶしかった。

 梅雨が、終わっていた。




夏休みの初め、校庭には蝉の声が溢れていた。



 照りつける日差しは強く、空気は厚く、私の肌をじりじりと焦がす。

 それでも、心の中は少しだけ軽かった。



 海斗と過ごしたあの日々の残り香が、まだ胸の奥にあったからだ。



 「未来、今日も撮る?」



 放課後、校庭の片隅で彼が笑った。



 いつものあの静かな笑顔に、昨日までの不安は少し溶けていた。



 「うん」



 私はシャッターを握り直した。



 夏の光は、全てを鮮やかにしてくれる。

 海斗の髪の色、制服の白、校庭の砂ぼこりさえも、フィルムの中で生き生きと輝く。



 何気ない瞬間も、彼と一緒にいるだけで特別に変わった。



 そのとき、彼が少し息をついた。



 「未来、ありがとう」



 「え?」



 「……俺、ここに来てよかった。君と会えて、本当によかった」



 その言葉には、いつもの遠くを見ている感じはなく、まっすぐ私を見つめる目があった。



 胸の奥が熱くなる。

 写真のシャッターを押す手が震えた。



 その瞬間、言葉では言えない思いが、体の隅々に広がっていった。



 夏の夕暮れ、校庭の片隅で、私たちは並んで座った。

 遠くで蝉が鳴き、夕日が長い影を作る。

 海斗は、ぽつりと口を開いた。



 「未来、知ってる?この町の海って、昔からずっと俺の場所だったんだ」



 「そうなんだ」



 「でもね、寂しかった。どこにも、帰る場所がなかった」



 その声は小さく、でも確かに胸に響いた。



 私はそっと、彼の肩に触れた。

 夏の夕陽が、私たちを金色に包む。



 「ここに、帰ってきていいよ」



 小さな声でそう言うと、彼は少しだけ笑った。

 それは、今まで見たどの笑顔よりも優しかった。



 ——その瞬間、私は確信した。

 彼を、ただそばで見ていたい。



 その笑顔を、失いたくない。



 その夜、家に帰るとノートを開いた。

 ページの隅に、小さく書いた文字。



 橘海斗、ありがとう。



 フィルムには写らない、でも確かに存在する時間。

 写真では閉じ込められない、けれど心に焼きつく景色。


 それを、私はそっと胸にしまった。