この町の風は、少しだけしょっぱい。
春が終わって、梅雨が近づく頃になると、その匂いがいっそう濃くなる。
潮の匂いは、学校の廊下の隅々にまで入りこんで、制服の袖や髪の毛の奥にまで残る。
それが好きだと思ったことは、一度もない。
けれど、嫌いだとも思わなかった。
海沿いの町は、静かで狭い。
通学路からは港が見え、放課後になると釣り人とカモメが並ぶ。
道端には紫陽花が咲き始めていて、カメラを向けると、風がふっと花弁を揺らす。
私はその瞬間を切り取るのが、好きだった。
無言のものを撮るほうが、ずっと落ち着く。
——私は、人の笑顔を撮るのが苦手だ。
そう言うと、みんなは決まって不思議そうな顔をする。
「写真部なのに?」とか、「人を撮るのが一番面白いのに」とか。
でも、どんなに努力しても、私は作られた笑顔しか撮れなかった。
「笑って」と言う。
彼らは笑う。
けれど、その瞬間の奥にあるものが、どうしても掴めない。
笑顔というのは、誰かに見せるために作られたものだ。
それをカメラに閉じこめるたびに、何かを壊しているような気がして、息が詰まる。
今日も放課後の部室で、私は現像液の匂いに包まれていた。
狭い暗室の中、赤いライトの下で、白い印画紙に像が浮かび上がる。
時間がゆっくりと流れるこの瞬間が好きだ。
世界の音が遠ざかり、自分の心臓の音だけが聞こえる。
写真の中には、笑うクラスメイトたちがいた。
でも、彼らの笑顔を見ても胸が動かない。
どこか空虚で、乾いていて、まるで薄いフィルムの裏側にいるような気がする。
窓を少しだけ開けると、潮風が吹き込んできた。
遠くでカモメの鳴き声がする。
空はまだ明るくて、海の向こうでは夕焼けが始まりかけていた。
そのとき、ドアが軽くノックされた。
「……瀬戸さん?」
控えめな声。振り向くと、見慣れない男子生徒が立っていた。
白いシャツの第一ボタンを外し、リュックを片肩にかけている。
光を背にしているせいで顔がよく見えなかったけれど、その輪郭は柔らかく、目だけが不思議なほど澄んでいた。
「ここ、写真部だよね?」
少し戸惑ったように笑う。
その笑い方が、まるで波の音みたいに静かだった。
「うん、そうだけど」
「俺、今日から転校してきた。橘海斗」
転校生。
この小さな町では珍しい言葉だった。
彼はまっすぐな視線をこちらに向けた。
それは人懐っこいというより、どこか遠くを見ているような目だった。
「写真部って、誰でも入れる?」
「……まあ、興味があれば」
「興味、あるかも」
彼はそう言って、部室の中を見渡した。
現像液の匂いに少し顔をしかめ、それから机の上の写真を手に取った。
「これ、君が撮ったの?」
「うん」
「なんか、優しいね」
優しい、なんて言われたのは初めてだった。
どちらかというと地味とか暗いとか、そんな言葉ばかりもらってきた。
だから不意に胸の奥が熱くなって、何も返せなかった。
その沈黙を破るように、風が窓を叩いた。
カーテンの隙間から差し込む光が、海斗の横顔を照らす。
その光の中で、彼は少しだけ目を細めた。
まるで、懐かしいものを見つめるみたいに。
——その瞬間、私は気づいてしまった。
カメラを持つ手が、震えていた。
シャッターを切りたいと思った。
彼のその表情を、このまま永遠に閉じこめておきたいと。
けれど、まだシャッターは押さなかった。
押してしまえば、何かが終わってしまう気がした。
「ねえ、瀬戸さん」
「なに?」
「海って、毎日見えるの?」
「うん。ここからなら、放課後に屋上からも見えるよ」
「そっか」
彼は少し考えてから、ふっと笑った。
「——きっと、いい町だね」
その笑顔があまりにも優しくて、私は息を忘れた。
彼の声が、波の音と混ざって溶けていく。
夕陽が沈みかけて、窓の外が金色に染まる。
潮の匂いが強くなり、世界が少しだけ滲んだ。
その日、橘海斗が転校してきた。
そして、私の時間は、少しずつ彼に染まり始めた。
その夜、家に帰ってノートを開いた。
誰にも見せたことのない、撮りたいもののリスト。
桜、波、猫、夏の空、——。
最後の一行の下に、私はそっと書き足した。
橘海斗。
翌日、空は薄く曇っていた。
朝のホームルームが終わっても、教室の中はどこか眠たげな空気に包まれている。
窓の外では風が旗を揺らし、遠くの海をかすかに光らせていた。
橘海斗は、私の二列後ろの席になった。
転校生の自己紹介は短く、淡々としていた。
「橘海斗です。よろしくお願いします」
それだけ。
でも、その声には不思議な温度があった。冷たくもなく、あたたかすぎるわけでもない。
耳に残るその響きだけが、妙に心の奥で反響していた。
授業中、何度か後ろを振り返りそうになったけれど、できなかった。
視線を向けたら、何かが変わってしまう気がして。
代わりにノートの端に小さな丸を描いて、無理やり気を紛らわせた。
昼休み、友達の美月がパンをかじりながら話しかけてきた。
「ねえ、未来。昨日の転校生、ちょっと雰囲気違くない?」
「そうかな」
「うん、なんか都会っぽい。あと、目がきれい」
その言葉に、胸の奥が少しだけざわついた。
——目がきれい。
昨日のあの光の中の瞳を思い出して、私は返事を濁した。
放課後になると、また写真部の部室に行った。
昨日と同じように、潮の匂いが窓から流れ込んでくる。
机の上の現像液はまだぬるく、光は赤く沈んでいた。
ドアが開く音。
「やっぱり、いた」
海斗だった。
彼はカメラを片手に持ち、少しだけ息を弾ませていた。
「顧問の先生に言ったら、入部届けくれた。今日から正式に、写真部員」
そう言って笑う顔は、昨日よりも近く見えた。
「カメラ、持ってるんだ」
「うん。父さんのやつ。古いけど、気に入ってる」
海斗はそう言って、手の中の黒いフィルムカメラを撫でた。
レンズに夕陽の光がかすかに反射して、一瞬だけ赤い線が走る。
「撮るの、好きなの?」
「うん。……忘れたくないものを、残しておきたくて」
彼の声は静かだったけれど、その一言だけが胸に刺さった。
忘れたくないもの。
それは、私が写真を撮る理由とは違っていた。
私は消えてしまいそうなものを、捕まえたくて撮っていた。
海斗は残したいものを撮る。
その差が、少しだけ痛いほどに思えた。
「じゃあ、練習しようか」
「練習?」
「そう。……俺、撮るより撮られる方が好きかもしれない」
彼は軽く笑いながら、窓際に立った。
背中の向こうで、海が光っていた。
「撮って」
突然の言葉に、息が詰まった。
ファインダー越しに彼を見た瞬間、世界の音が消えた。
風も、光も、全部が海斗を中心にゆっくりと回っているように感じた。
シャッターを切る。
カシャッという音が、胸の奥に響く。
たった一枚の写真。
でも、その瞬間、確かに何かが始まった。
海斗は笑わなかった。
けれど、その表情はどこか安らいでいた。
笑顔じゃないのに、優しい。
——初めて、人の写真が好きだと思った。
現像液に沈む印画紙の上で、彼の姿が浮かび上がっていく。
私はその像が完全に現れる前に、目を逸らした。
見てしまえば、戻れなくなる気がしたから。
雨の気配が近づいている。
もうすぐ、梅雨が来る。
雨の日が増えた。
空の色は、毎日少しずつ灰色を増していく。
ガラス窓を打つ音が絶えず響き、教室の蛍光灯の光がそれを濡らす。
海斗は、あの日から本当に写真部に顔を出すようになった。
放課後、他の部員が帰っても、彼だけはいつまでも残って現像液を覗き込んでいる。
「この時間、いいよな」
そう言って、赤いランプの下でぼんやり笑う。
彼の笑い方はいつも音がしないようだった。
息と一緒に、静かに零れる。
それがどこか心地よくて、私はつい同じ空気の中に長居してしまう。
カメラを構える姿にも癖がある。
シャッターを切る直前、必ず息を止める。
その一瞬の無音が、まるで祈りのようだった。
「ねえ、海斗」
「ん?」
「どうして忘れたくないものを撮るの?」
私がそう尋ねると、彼は少し間を置いてから言った。
「……たぶん、俺、忘れっぽいんだ」
その答えが冗談みたいに聞こえたのに、彼の目は笑っていなかった。
「大事なことほど、いつの間にか消えていく気がするんだ。だから、残したい。形にしておきたい」
それを聞いて、胸が少し痛くなった。
私も同じように、何かを失うのが怖くて写真を撮っていた。
でも、忘れたくないという言葉の裏には、何かもっと深い影が潜んでいる気がした。
その日から、海斗と過ごす時間は少しずつ長くなった。
放課後の部室。雨音のする窓辺。
ふたりで現像液を見つめながら、何も話さない時間が増えた。
言葉よりも、沈黙の方がずっと穏やかだった。
沈黙の中に、相手の呼吸を感じられる。
光と影の境目に、まだ知らない感情が静かに沈んでいる。
ある日、海斗がふと私に言った。
「今度さ、海に行かない?」
「……海?」
「写真、撮りたい。ここに来てから、まだちゃんと撮ってないんだ」
彼の瞳の奥に、懐かしさみたいなものが滲んでいた。
私は頷いた。
日曜。
朝から雨は降っていなかったが、空気は湿っていた。
港へ向かう道は、濡れたアスファルトが鈍く光っている。
海斗は学校とは違う格好で現れた。
白いシャツの袖をまくり、首にはカメラを下げている。
髪は少しだけ風に乱れていて、その無造作さが妙に似合っていた。
「ここ、いいね」
波打ち際に立つと、彼は目を細めた。
潮風が吹いて、シャツの裾が揺れる。
私はその姿を見て、無意識にカメラを構えていた。
——カシャッ。
彼が振り向く。
「撮った?」
「……うん」
「ちゃんと撮れた?」
「たぶん」
彼は少し笑って、それだけでまた画面の中に光が差した。
海斗の撮る写真は、どれも優しかった。
濡れた砂、風に傾く草、壊れかけのベンチ。
人を撮るときでさえ、どこか距離を置いているような、静かな目線だった。
「ねえ、未来」
「なに?」
「君の撮る写真って、全部誰もいないよね」
「……そうかも」
「なんで?」
私は少し考えてから答えた。
「人の顔を撮るのが、怖いから」
「怖い?」
「うん。……その人の気持ちが、わからなくなる。笑ってても、本当は笑ってないかもしれないし。シャッターを押すたびに、なんか、嘘を写してる気がするの」
海斗は黙って、カメラのレンズを海に向けた。
「でもさ、それでも撮るのは、きっと嘘じゃないよ」
「え?」
「だって、撮りたいって思う気持ちは、本当だろ」
その言葉が、胸の奥で静かに響いた。
潮の匂いが濃くなり、海が少しずつ満ちていく。
風の音が、心臓の鼓動と重なっていた。
そのあと、海斗は波打ち際にしゃがみこんで貝殻を拾った。
小さく欠けた白い貝。
「これ、未来にあげる」
「なんで?」
「今日の記録」
「写真じゃなくて?」
「たまには、こういうのもいいでしょ」
彼の手の中から受け取った貝は、まだ少しだけ海の匂いがした。
私はそれをポケットにしまいながら思った。
——この瞬間を、絶対に忘れたくない。
翌日、学校の廊下を歩いていると、海斗が誰かに囲まれていた。
女子たちが何人も彼のまわりで話しかけている。
彼は困ったように笑っていた。
その笑顔が、昨日とは違うものに見えた。
作られた笑顔。
私は胸の奥が少しだけ冷たくなった。
「瀬戸さん」
呼ばれて振り返ると、彼が手を振っていた。
その仕草はあくまで自然で、まわりの視線が刺さるように集まった。
私は軽く会釈して、すぐに廊下を抜けた。
放課後、部室で一人、昨日の写真を現像した。
海斗の横顔。
波の光。
全部が柔らかくて、まるで夢の中の景色みたいだった。
けれど、印画紙が完全に白く乾いたとき、私は少しだけ怖くなった。
この瞬間を残してしまったことが。
彼を撮ることが、何かを侵してしまうようで。
——それでも、もう止められなかった。
海斗を見ていると、レンズを向けたくなる。
目の奥の光を、閉じこめたくなる。
それが恋というものなのか、まだわからなかった。
でも、わからないままでも、心は確かに揺れていた。
それだけで十分だった。
六月に入ると、雨は途切れなくなった。
朝から降り始めた雨は放課後になっても止まず、窓の外では灰色の空がゆっくりと海へ溶けていく。
教室の窓際に座っていると、世界の音がすべて遠くなったように感じる。
雨の匂いとチョークの粉の匂いが混ざって、少しだけ懐かしい気持ちになる。
その日の放課後、海斗は傘を差さずに校門の前で待っていた。
「濡れるよ」
そう言うと、彼は笑って肩をすくめた。
「どうせすぐ乾く」
制服の袖はすでにしっとり濡れていて、髪の先から水滴が落ちている。
でも、その姿は不思議と寂しそうには見えなかった。
「どこか行こうか」
「雨なのに?」
「雨だから、いいんだよ」
そう言って、彼は港の方へ歩き出した。
潮風と雨の匂いが混ざり合い、世界が少しぼやけていく。
私は自分の傘を少しだけ傾けて、彼の肩にかかるように差し出した。
「ほら、濡れるでしょ」
「いいの?」
「傘、ひとつしかないし」
海斗は少しだけ息をのんで、それから静かに頷いた。
歩幅を合わせながら歩く。
傘の中に二人分の息がこもる。
港の手前の古い倉庫にたどり着くと、海斗はそこに入った。
中は薄暗く、錆びた鉄の匂いと湿った木の匂いがした。
「ここ、前に見つけたんだ」
彼はそう言って、床にカメラを置いた。
「よく来るの?」
「うん、ひとりのときは」
壁には誰かが残した落書きがいくつもあった。
好きだとか、名前とか、誰かの願いの残骸みたいな言葉たち。
海斗はそれを指でなぞって、少し笑った。
「こういうの、消えないよな」
「雨でも、風でも?」
「うん。……不思議だよね。人の気持ちって、残るんだ」
その言葉に、胸の奥がかすかに疼いた。
残る。
写真と同じだ。
写した瞬間の気持ちは、もう二度と戻らないのに、確かにそこに残る。
私は無意識にカメラを構えた。
海斗が窓際に立ち、外の雨を見ている。
シャッターを押す直前、彼がこちらを振り返った。
光のない倉庫の中、彼の瞳だけがかすかに光っていた。
——カシャッ。
写真の中で、海斗は少し笑っていた。
けれど、それは誰かに見せるための笑顔ではなかった。
守るような、隠すような、やさしい表情。
「撮られるの、慣れてる?」
「いや」
「なのに、自然」
「君が撮ると、そうなる」
そう言われて、何も言えなくなった。
倉庫の屋根を打つ雨音が少し強くなって、
世界がふたりきりになったみたいだった。
「ねえ、未来」
「なに?」
「もし、撮った写真の中の人がいなくなったら、その写真って、どうなるんだろ」
突然の問いに、心臓が小さく跳ねた。
「……どうって?」
「その人のこと、思い出したくないって思ったら、写真ごと消したくなるのかな」
言葉が出てこなかった。
代わりに、彼の横顔を見た。
瞳の奥に、言葉にできない影が揺れていた。
「海斗、それ……」
「ううん、なんでもない」
彼は小さく首を振って、空を見上げた。
「そろそろ、帰ろうか」
帰り道、私たちはほとんど何も話さなかった。
傘の中の空気が少し重たくなっていて、それでも、離れようとは思わなかった。
次の日、彼は学校を休んだ。
熱を出したらしいと聞いたのは昼休みのことだった。
私は午後の授業が頭に入らず、ノートの上に水滴のようなインクの染みをいくつも作った。
放課後、彼の家の住所を美月に聞いた。
「え、行くの?」
「……ちょっとだけ。プリント届けるだけ」
口ではそう言いながら、心の奥では落ち着かないものが渦巻いていた。
海沿いの坂道を登ると、白い壁の小さな家が見えた。
庭には雨上がりの紫陽花が咲いていて、薄紫の花弁に水滴が光っていた。
インターホンを押すと、すぐに彼の声がした。
「……瀬戸さん?」
「うん。プリント、持ってきた」
少し間があって、ドアが静かに開いた。
部屋の中は意外なほど整っていた。
白いカーテン、整理された机、本棚の上にはフィルムの缶がいくつも並んでいる。
その匂いだけで、彼の時間が感じられた。
「ごめんね、突然」
「ううん、嬉しい。ありがとう」
彼は熱があるせいか、声が少し掠れていた。
でも、その掠れた声が、いつもより近くに感じた。
「これ、昨日の写真」
私は封筒を差し出した。
「現像、終わってたから」
海斗は封を開け、写真を取り出した。
雨の倉庫の中で、振り向く彼の姿。
しばらく黙って見つめていたあと、彼は小さく息を吐いた。
「……ありがとう」
その声の奥に、少しだけ震えがあった。
「やっぱり、君が撮る写真はやさしい」
「そう?」
「うん。……俺が、もう少し優しい人間になれたらよかったのに」
その言葉に、心臓がきゅっと縮んだ。
「なに、それ」
「ううん、なんでもない」
沈黙。
部屋の隅で時計が秒針を刻む音が聞こえた。
そのリズムが、なぜか遠くの波の音に似ていた。
「海斗」
「ん?」
「元気になったら、また写真撮ろうね」
「うん」
彼は少し笑って、それだけを約束のように言った。
帰り道、夕暮れが海を染めていた。
雨上がりの空は金色に滲み、町全体が静かな光に包まれている。
私はポケットの中の貝殻を取り出した。
手の中でそれを握ると、まだほんの少しだけ、海の匂いがした。
雨が止んだのは、三日目の午後だった。
放課後の空には薄い雲が残っていて、太陽が水面を金色に照らしていた。
廊下の窓を開けると、風の匂いが少しだけ変わっているのがわかった。
もう、夏の匂いがしていた。
「久しぶり」
声がして振り向くと、海斗が立っていた。
熱は下がったらしいけれど、まだ少し顔色が白い。
それでも、笑っている。
その笑顔は、やっぱり静かで、少しだけ遠かった。
「もう大丈夫?」
「うん。……あの写真、見たよ。あれ、好きだな」
「ほんとに?」
「うん。俺、あのとき笑ってた?」
「少しだけ」
「そうか」
彼は目を細めて、窓の外を見た。
「君が撮ると、世界が少し静かになるね」
私はその言葉を聞いて、胸の奥が熱くなった。
世界を静かにできるなんて思ったことはなかった。
けれど、もしそれが本当なら——、それは少しだけ、誇らしいと思った。
その日から、海斗はまた部室に来るようになった。
今度は彼の方から「放課後、行こう」と言うことが増えた。
フィルムを巻き直す音、液の匂い、赤い光。
その中で過ごす時間は、学校のどんな時間よりも穏やかだった。
でも、一度だけ。
ふとした瞬間、彼がレンズを見つめたまま動かなくなったことがあった。
まるで何かを思い出すように、遠い目をして。
「……どうしたの?」
「いや、ちょっと、光がきれいで」
その言葉の裏に、少しだけ影があった。
けれど私は、それ以上聞けなかった。
ある土曜日、彼が突然言った。
「明日、写真撮りに行こう。ちゃんとしたやつ」
「ちゃんとした?」
「うん。……町を撮ろうよ」
翌朝、待ち合わせ場所に行くと、彼はすでに来ていた。
白いTシャツに、首からは例のカメラ。
太陽の光が彼の髪を透かして、風がそこをすり抜けていく。
「じゃ、行こうか」
私たちは町を歩いた。
古い商店街、踏切、港への坂道。
海斗は何度もシャッターを切り、そのたびに嬉しそうにフィルムを巻いた。
「ねえ、未来」
「なに?」
「この町、好き?」
「うん。静かで、潮の匂いがして」
「俺も、好きになった。でも……好きになると、離れづらくなるね」
その言い方が少しだけ怖かった。
「どういう意味?」
「ううん。言葉のとおり」
それ以上、彼は何も言わなかった。
坂を登りきると、海が見えた。
真昼の海はまぶしくて、空の青と溶け合っていた。
私たちは並んで立ち、しばらく何も話さずに波を見ていた。
「未来」
「ん?」
「この町って、全部写真みたいだね」
「どういうこと?」
「止まってる感じ。ゆっくり動いてるけど、本当は少しずつ消えてる」
彼の声が、風にかき消されそうなほど小さかった。
私はカメラを構えた。
「じゃあ、消えないように撮ろう」
「……撮れるかな」
「撮れるよ。私たちが見てるうちは」
シャッターを切る音が響いた。
海斗の横顔、風に揺れるシャツ、白い光。
そのすべてが一枚のフィルムに焼きつく。
「ありがとう」
彼は小さく呟いた。
まるで、何かを手放すように。
その夜、私は現像した。
暗室に漂う薬品の匂いの中、印画紙の上に彼の姿がゆっくり浮かんでくる。
海を背にした横顔。
その目は遠くを見つめていた。
どこかに行こうとしているような、そんな表情だった。
胸がざわめいた。
あの時、なぜ彼はあんな顔をしていたんだろう。
写真を見つめながら、指先が震えた。
——このまま、彼がいなくなってしまう気がした。
カーテンの隙間から、夜風が吹き込む。
潮の匂いが濃くなって、目の奥が熱くなった。
フィルムを乾かす手が止まり、私はただ彼の写真を見つめていた。
忘れたくないものを残す彼はそう言っていた。
でも、もしかしたら。
残したくないものを、写していたんじゃないだろうか。
次の日、海斗は学校に来なかった。
その翌日も、また翌日も。
美月が心配そうに言った。
「なんか、転校してきた理由、ちょっと変だったらしいよ」
「変って?」
「前の学校でも、長くいなかったって」
私はそれ以上聞けなかった。
胸の奥で何かがざらついて、言葉が喉の途中で溶けた。
放課後、私はもう一度彼の家を訪ねた。
インターホンを押しても、応答はなかった。
庭の紫陽花だけが、雨上がりの光を浴びて静かに揺れていた。
ポケットの中の貝殻を握る。
冷たくて、小さくて、心臓の音が吸い込まれていくみたいだった。
その夜、夢を見た。
波の音がして、海斗がこちらを振り向く。
「未来」
名前を呼ばれた気がして、手を伸ばした。
でも、その指先は彼に届かないまま、光の中で溶けていった。
朝、目を覚ますと、窓の外がまぶしかった。
梅雨が、終わっていた。
夏休みの初め、校庭には蝉の声が溢れていた。
照りつける日差しは強く、空気は厚く、私の肌をじりじりと焦がす。
それでも、心の中は少しだけ軽かった。
海斗と過ごしたあの日々の残り香が、まだ胸の奥にあったからだ。
「未来、今日も撮る?」
放課後、校庭の片隅で彼が笑った。
いつものあの静かな笑顔に、昨日までの不安は少し溶けていた。
「うん」
私はシャッターを握り直した。
夏の光は、全てを鮮やかにしてくれる。
海斗の髪の色、制服の白、校庭の砂ぼこりさえも、フィルムの中で生き生きと輝く。
何気ない瞬間も、彼と一緒にいるだけで特別に変わった。
そのとき、彼が少し息をついた。
「未来、ありがとう」
「え?」
「……俺、ここに来てよかった。君と会えて、本当によかった」
その言葉には、いつもの遠くを見ている感じはなく、まっすぐ私を見つめる目があった。
胸の奥が熱くなる。
写真のシャッターを押す手が震えた。
その瞬間、言葉では言えない思いが、体の隅々に広がっていった。
夏の夕暮れ、校庭の片隅で、私たちは並んで座った。
遠くで蝉が鳴き、夕日が長い影を作る。
海斗は、ぽつりと口を開いた。
「未来、知ってる?この町の海って、昔からずっと俺の場所だったんだ」
「そうなんだ」
「でもね、寂しかった。どこにも、帰る場所がなかった」
その声は小さく、でも確かに胸に響いた。
私はそっと、彼の肩に触れた。
夏の夕陽が、私たちを金色に包む。
「ここに、帰ってきていいよ」
小さな声でそう言うと、彼は少しだけ笑った。
それは、今まで見たどの笑顔よりも優しかった。
——その瞬間、私は確信した。
彼を、ただそばで見ていたい。
その笑顔を、失いたくない。
その夜、家に帰るとノートを開いた。
ページの隅に、小さく書いた文字。
橘海斗、ありがとう。
フィルムには写らない、でも確かに存在する時間。
写真では閉じ込められない、けれど心に焼きつく景色。
それを、私はそっと胸にしまった。
春が終わって、梅雨が近づく頃になると、その匂いがいっそう濃くなる。
潮の匂いは、学校の廊下の隅々にまで入りこんで、制服の袖や髪の毛の奥にまで残る。
それが好きだと思ったことは、一度もない。
けれど、嫌いだとも思わなかった。
海沿いの町は、静かで狭い。
通学路からは港が見え、放課後になると釣り人とカモメが並ぶ。
道端には紫陽花が咲き始めていて、カメラを向けると、風がふっと花弁を揺らす。
私はその瞬間を切り取るのが、好きだった。
無言のものを撮るほうが、ずっと落ち着く。
——私は、人の笑顔を撮るのが苦手だ。
そう言うと、みんなは決まって不思議そうな顔をする。
「写真部なのに?」とか、「人を撮るのが一番面白いのに」とか。
でも、どんなに努力しても、私は作られた笑顔しか撮れなかった。
「笑って」と言う。
彼らは笑う。
けれど、その瞬間の奥にあるものが、どうしても掴めない。
笑顔というのは、誰かに見せるために作られたものだ。
それをカメラに閉じこめるたびに、何かを壊しているような気がして、息が詰まる。
今日も放課後の部室で、私は現像液の匂いに包まれていた。
狭い暗室の中、赤いライトの下で、白い印画紙に像が浮かび上がる。
時間がゆっくりと流れるこの瞬間が好きだ。
世界の音が遠ざかり、自分の心臓の音だけが聞こえる。
写真の中には、笑うクラスメイトたちがいた。
でも、彼らの笑顔を見ても胸が動かない。
どこか空虚で、乾いていて、まるで薄いフィルムの裏側にいるような気がする。
窓を少しだけ開けると、潮風が吹き込んできた。
遠くでカモメの鳴き声がする。
空はまだ明るくて、海の向こうでは夕焼けが始まりかけていた。
そのとき、ドアが軽くノックされた。
「……瀬戸さん?」
控えめな声。振り向くと、見慣れない男子生徒が立っていた。
白いシャツの第一ボタンを外し、リュックを片肩にかけている。
光を背にしているせいで顔がよく見えなかったけれど、その輪郭は柔らかく、目だけが不思議なほど澄んでいた。
「ここ、写真部だよね?」
少し戸惑ったように笑う。
その笑い方が、まるで波の音みたいに静かだった。
「うん、そうだけど」
「俺、今日から転校してきた。橘海斗」
転校生。
この小さな町では珍しい言葉だった。
彼はまっすぐな視線をこちらに向けた。
それは人懐っこいというより、どこか遠くを見ているような目だった。
「写真部って、誰でも入れる?」
「……まあ、興味があれば」
「興味、あるかも」
彼はそう言って、部室の中を見渡した。
現像液の匂いに少し顔をしかめ、それから机の上の写真を手に取った。
「これ、君が撮ったの?」
「うん」
「なんか、優しいね」
優しい、なんて言われたのは初めてだった。
どちらかというと地味とか暗いとか、そんな言葉ばかりもらってきた。
だから不意に胸の奥が熱くなって、何も返せなかった。
その沈黙を破るように、風が窓を叩いた。
カーテンの隙間から差し込む光が、海斗の横顔を照らす。
その光の中で、彼は少しだけ目を細めた。
まるで、懐かしいものを見つめるみたいに。
——その瞬間、私は気づいてしまった。
カメラを持つ手が、震えていた。
シャッターを切りたいと思った。
彼のその表情を、このまま永遠に閉じこめておきたいと。
けれど、まだシャッターは押さなかった。
押してしまえば、何かが終わってしまう気がした。
「ねえ、瀬戸さん」
「なに?」
「海って、毎日見えるの?」
「うん。ここからなら、放課後に屋上からも見えるよ」
「そっか」
彼は少し考えてから、ふっと笑った。
「——きっと、いい町だね」
その笑顔があまりにも優しくて、私は息を忘れた。
彼の声が、波の音と混ざって溶けていく。
夕陽が沈みかけて、窓の外が金色に染まる。
潮の匂いが強くなり、世界が少しだけ滲んだ。
その日、橘海斗が転校してきた。
そして、私の時間は、少しずつ彼に染まり始めた。
その夜、家に帰ってノートを開いた。
誰にも見せたことのない、撮りたいもののリスト。
桜、波、猫、夏の空、——。
最後の一行の下に、私はそっと書き足した。
橘海斗。
翌日、空は薄く曇っていた。
朝のホームルームが終わっても、教室の中はどこか眠たげな空気に包まれている。
窓の外では風が旗を揺らし、遠くの海をかすかに光らせていた。
橘海斗は、私の二列後ろの席になった。
転校生の自己紹介は短く、淡々としていた。
「橘海斗です。よろしくお願いします」
それだけ。
でも、その声には不思議な温度があった。冷たくもなく、あたたかすぎるわけでもない。
耳に残るその響きだけが、妙に心の奥で反響していた。
授業中、何度か後ろを振り返りそうになったけれど、できなかった。
視線を向けたら、何かが変わってしまう気がして。
代わりにノートの端に小さな丸を描いて、無理やり気を紛らわせた。
昼休み、友達の美月がパンをかじりながら話しかけてきた。
「ねえ、未来。昨日の転校生、ちょっと雰囲気違くない?」
「そうかな」
「うん、なんか都会っぽい。あと、目がきれい」
その言葉に、胸の奥が少しだけざわついた。
——目がきれい。
昨日のあの光の中の瞳を思い出して、私は返事を濁した。
放課後になると、また写真部の部室に行った。
昨日と同じように、潮の匂いが窓から流れ込んでくる。
机の上の現像液はまだぬるく、光は赤く沈んでいた。
ドアが開く音。
「やっぱり、いた」
海斗だった。
彼はカメラを片手に持ち、少しだけ息を弾ませていた。
「顧問の先生に言ったら、入部届けくれた。今日から正式に、写真部員」
そう言って笑う顔は、昨日よりも近く見えた。
「カメラ、持ってるんだ」
「うん。父さんのやつ。古いけど、気に入ってる」
海斗はそう言って、手の中の黒いフィルムカメラを撫でた。
レンズに夕陽の光がかすかに反射して、一瞬だけ赤い線が走る。
「撮るの、好きなの?」
「うん。……忘れたくないものを、残しておきたくて」
彼の声は静かだったけれど、その一言だけが胸に刺さった。
忘れたくないもの。
それは、私が写真を撮る理由とは違っていた。
私は消えてしまいそうなものを、捕まえたくて撮っていた。
海斗は残したいものを撮る。
その差が、少しだけ痛いほどに思えた。
「じゃあ、練習しようか」
「練習?」
「そう。……俺、撮るより撮られる方が好きかもしれない」
彼は軽く笑いながら、窓際に立った。
背中の向こうで、海が光っていた。
「撮って」
突然の言葉に、息が詰まった。
ファインダー越しに彼を見た瞬間、世界の音が消えた。
風も、光も、全部が海斗を中心にゆっくりと回っているように感じた。
シャッターを切る。
カシャッという音が、胸の奥に響く。
たった一枚の写真。
でも、その瞬間、確かに何かが始まった。
海斗は笑わなかった。
けれど、その表情はどこか安らいでいた。
笑顔じゃないのに、優しい。
——初めて、人の写真が好きだと思った。
現像液に沈む印画紙の上で、彼の姿が浮かび上がっていく。
私はその像が完全に現れる前に、目を逸らした。
見てしまえば、戻れなくなる気がしたから。
雨の気配が近づいている。
もうすぐ、梅雨が来る。
雨の日が増えた。
空の色は、毎日少しずつ灰色を増していく。
ガラス窓を打つ音が絶えず響き、教室の蛍光灯の光がそれを濡らす。
海斗は、あの日から本当に写真部に顔を出すようになった。
放課後、他の部員が帰っても、彼だけはいつまでも残って現像液を覗き込んでいる。
「この時間、いいよな」
そう言って、赤いランプの下でぼんやり笑う。
彼の笑い方はいつも音がしないようだった。
息と一緒に、静かに零れる。
それがどこか心地よくて、私はつい同じ空気の中に長居してしまう。
カメラを構える姿にも癖がある。
シャッターを切る直前、必ず息を止める。
その一瞬の無音が、まるで祈りのようだった。
「ねえ、海斗」
「ん?」
「どうして忘れたくないものを撮るの?」
私がそう尋ねると、彼は少し間を置いてから言った。
「……たぶん、俺、忘れっぽいんだ」
その答えが冗談みたいに聞こえたのに、彼の目は笑っていなかった。
「大事なことほど、いつの間にか消えていく気がするんだ。だから、残したい。形にしておきたい」
それを聞いて、胸が少し痛くなった。
私も同じように、何かを失うのが怖くて写真を撮っていた。
でも、忘れたくないという言葉の裏には、何かもっと深い影が潜んでいる気がした。
その日から、海斗と過ごす時間は少しずつ長くなった。
放課後の部室。雨音のする窓辺。
ふたりで現像液を見つめながら、何も話さない時間が増えた。
言葉よりも、沈黙の方がずっと穏やかだった。
沈黙の中に、相手の呼吸を感じられる。
光と影の境目に、まだ知らない感情が静かに沈んでいる。
ある日、海斗がふと私に言った。
「今度さ、海に行かない?」
「……海?」
「写真、撮りたい。ここに来てから、まだちゃんと撮ってないんだ」
彼の瞳の奥に、懐かしさみたいなものが滲んでいた。
私は頷いた。
日曜。
朝から雨は降っていなかったが、空気は湿っていた。
港へ向かう道は、濡れたアスファルトが鈍く光っている。
海斗は学校とは違う格好で現れた。
白いシャツの袖をまくり、首にはカメラを下げている。
髪は少しだけ風に乱れていて、その無造作さが妙に似合っていた。
「ここ、いいね」
波打ち際に立つと、彼は目を細めた。
潮風が吹いて、シャツの裾が揺れる。
私はその姿を見て、無意識にカメラを構えていた。
——カシャッ。
彼が振り向く。
「撮った?」
「……うん」
「ちゃんと撮れた?」
「たぶん」
彼は少し笑って、それだけでまた画面の中に光が差した。
海斗の撮る写真は、どれも優しかった。
濡れた砂、風に傾く草、壊れかけのベンチ。
人を撮るときでさえ、どこか距離を置いているような、静かな目線だった。
「ねえ、未来」
「なに?」
「君の撮る写真って、全部誰もいないよね」
「……そうかも」
「なんで?」
私は少し考えてから答えた。
「人の顔を撮るのが、怖いから」
「怖い?」
「うん。……その人の気持ちが、わからなくなる。笑ってても、本当は笑ってないかもしれないし。シャッターを押すたびに、なんか、嘘を写してる気がするの」
海斗は黙って、カメラのレンズを海に向けた。
「でもさ、それでも撮るのは、きっと嘘じゃないよ」
「え?」
「だって、撮りたいって思う気持ちは、本当だろ」
その言葉が、胸の奥で静かに響いた。
潮の匂いが濃くなり、海が少しずつ満ちていく。
風の音が、心臓の鼓動と重なっていた。
そのあと、海斗は波打ち際にしゃがみこんで貝殻を拾った。
小さく欠けた白い貝。
「これ、未来にあげる」
「なんで?」
「今日の記録」
「写真じゃなくて?」
「たまには、こういうのもいいでしょ」
彼の手の中から受け取った貝は、まだ少しだけ海の匂いがした。
私はそれをポケットにしまいながら思った。
——この瞬間を、絶対に忘れたくない。
翌日、学校の廊下を歩いていると、海斗が誰かに囲まれていた。
女子たちが何人も彼のまわりで話しかけている。
彼は困ったように笑っていた。
その笑顔が、昨日とは違うものに見えた。
作られた笑顔。
私は胸の奥が少しだけ冷たくなった。
「瀬戸さん」
呼ばれて振り返ると、彼が手を振っていた。
その仕草はあくまで自然で、まわりの視線が刺さるように集まった。
私は軽く会釈して、すぐに廊下を抜けた。
放課後、部室で一人、昨日の写真を現像した。
海斗の横顔。
波の光。
全部が柔らかくて、まるで夢の中の景色みたいだった。
けれど、印画紙が完全に白く乾いたとき、私は少しだけ怖くなった。
この瞬間を残してしまったことが。
彼を撮ることが、何かを侵してしまうようで。
——それでも、もう止められなかった。
海斗を見ていると、レンズを向けたくなる。
目の奥の光を、閉じこめたくなる。
それが恋というものなのか、まだわからなかった。
でも、わからないままでも、心は確かに揺れていた。
それだけで十分だった。
六月に入ると、雨は途切れなくなった。
朝から降り始めた雨は放課後になっても止まず、窓の外では灰色の空がゆっくりと海へ溶けていく。
教室の窓際に座っていると、世界の音がすべて遠くなったように感じる。
雨の匂いとチョークの粉の匂いが混ざって、少しだけ懐かしい気持ちになる。
その日の放課後、海斗は傘を差さずに校門の前で待っていた。
「濡れるよ」
そう言うと、彼は笑って肩をすくめた。
「どうせすぐ乾く」
制服の袖はすでにしっとり濡れていて、髪の先から水滴が落ちている。
でも、その姿は不思議と寂しそうには見えなかった。
「どこか行こうか」
「雨なのに?」
「雨だから、いいんだよ」
そう言って、彼は港の方へ歩き出した。
潮風と雨の匂いが混ざり合い、世界が少しぼやけていく。
私は自分の傘を少しだけ傾けて、彼の肩にかかるように差し出した。
「ほら、濡れるでしょ」
「いいの?」
「傘、ひとつしかないし」
海斗は少しだけ息をのんで、それから静かに頷いた。
歩幅を合わせながら歩く。
傘の中に二人分の息がこもる。
港の手前の古い倉庫にたどり着くと、海斗はそこに入った。
中は薄暗く、錆びた鉄の匂いと湿った木の匂いがした。
「ここ、前に見つけたんだ」
彼はそう言って、床にカメラを置いた。
「よく来るの?」
「うん、ひとりのときは」
壁には誰かが残した落書きがいくつもあった。
好きだとか、名前とか、誰かの願いの残骸みたいな言葉たち。
海斗はそれを指でなぞって、少し笑った。
「こういうの、消えないよな」
「雨でも、風でも?」
「うん。……不思議だよね。人の気持ちって、残るんだ」
その言葉に、胸の奥がかすかに疼いた。
残る。
写真と同じだ。
写した瞬間の気持ちは、もう二度と戻らないのに、確かにそこに残る。
私は無意識にカメラを構えた。
海斗が窓際に立ち、外の雨を見ている。
シャッターを押す直前、彼がこちらを振り返った。
光のない倉庫の中、彼の瞳だけがかすかに光っていた。
——カシャッ。
写真の中で、海斗は少し笑っていた。
けれど、それは誰かに見せるための笑顔ではなかった。
守るような、隠すような、やさしい表情。
「撮られるの、慣れてる?」
「いや」
「なのに、自然」
「君が撮ると、そうなる」
そう言われて、何も言えなくなった。
倉庫の屋根を打つ雨音が少し強くなって、
世界がふたりきりになったみたいだった。
「ねえ、未来」
「なに?」
「もし、撮った写真の中の人がいなくなったら、その写真って、どうなるんだろ」
突然の問いに、心臓が小さく跳ねた。
「……どうって?」
「その人のこと、思い出したくないって思ったら、写真ごと消したくなるのかな」
言葉が出てこなかった。
代わりに、彼の横顔を見た。
瞳の奥に、言葉にできない影が揺れていた。
「海斗、それ……」
「ううん、なんでもない」
彼は小さく首を振って、空を見上げた。
「そろそろ、帰ろうか」
帰り道、私たちはほとんど何も話さなかった。
傘の中の空気が少し重たくなっていて、それでも、離れようとは思わなかった。
次の日、彼は学校を休んだ。
熱を出したらしいと聞いたのは昼休みのことだった。
私は午後の授業が頭に入らず、ノートの上に水滴のようなインクの染みをいくつも作った。
放課後、彼の家の住所を美月に聞いた。
「え、行くの?」
「……ちょっとだけ。プリント届けるだけ」
口ではそう言いながら、心の奥では落ち着かないものが渦巻いていた。
海沿いの坂道を登ると、白い壁の小さな家が見えた。
庭には雨上がりの紫陽花が咲いていて、薄紫の花弁に水滴が光っていた。
インターホンを押すと、すぐに彼の声がした。
「……瀬戸さん?」
「うん。プリント、持ってきた」
少し間があって、ドアが静かに開いた。
部屋の中は意外なほど整っていた。
白いカーテン、整理された机、本棚の上にはフィルムの缶がいくつも並んでいる。
その匂いだけで、彼の時間が感じられた。
「ごめんね、突然」
「ううん、嬉しい。ありがとう」
彼は熱があるせいか、声が少し掠れていた。
でも、その掠れた声が、いつもより近くに感じた。
「これ、昨日の写真」
私は封筒を差し出した。
「現像、終わってたから」
海斗は封を開け、写真を取り出した。
雨の倉庫の中で、振り向く彼の姿。
しばらく黙って見つめていたあと、彼は小さく息を吐いた。
「……ありがとう」
その声の奥に、少しだけ震えがあった。
「やっぱり、君が撮る写真はやさしい」
「そう?」
「うん。……俺が、もう少し優しい人間になれたらよかったのに」
その言葉に、心臓がきゅっと縮んだ。
「なに、それ」
「ううん、なんでもない」
沈黙。
部屋の隅で時計が秒針を刻む音が聞こえた。
そのリズムが、なぜか遠くの波の音に似ていた。
「海斗」
「ん?」
「元気になったら、また写真撮ろうね」
「うん」
彼は少し笑って、それだけを約束のように言った。
帰り道、夕暮れが海を染めていた。
雨上がりの空は金色に滲み、町全体が静かな光に包まれている。
私はポケットの中の貝殻を取り出した。
手の中でそれを握ると、まだほんの少しだけ、海の匂いがした。
雨が止んだのは、三日目の午後だった。
放課後の空には薄い雲が残っていて、太陽が水面を金色に照らしていた。
廊下の窓を開けると、風の匂いが少しだけ変わっているのがわかった。
もう、夏の匂いがしていた。
「久しぶり」
声がして振り向くと、海斗が立っていた。
熱は下がったらしいけれど、まだ少し顔色が白い。
それでも、笑っている。
その笑顔は、やっぱり静かで、少しだけ遠かった。
「もう大丈夫?」
「うん。……あの写真、見たよ。あれ、好きだな」
「ほんとに?」
「うん。俺、あのとき笑ってた?」
「少しだけ」
「そうか」
彼は目を細めて、窓の外を見た。
「君が撮ると、世界が少し静かになるね」
私はその言葉を聞いて、胸の奥が熱くなった。
世界を静かにできるなんて思ったことはなかった。
けれど、もしそれが本当なら——、それは少しだけ、誇らしいと思った。
その日から、海斗はまた部室に来るようになった。
今度は彼の方から「放課後、行こう」と言うことが増えた。
フィルムを巻き直す音、液の匂い、赤い光。
その中で過ごす時間は、学校のどんな時間よりも穏やかだった。
でも、一度だけ。
ふとした瞬間、彼がレンズを見つめたまま動かなくなったことがあった。
まるで何かを思い出すように、遠い目をして。
「……どうしたの?」
「いや、ちょっと、光がきれいで」
その言葉の裏に、少しだけ影があった。
けれど私は、それ以上聞けなかった。
ある土曜日、彼が突然言った。
「明日、写真撮りに行こう。ちゃんとしたやつ」
「ちゃんとした?」
「うん。……町を撮ろうよ」
翌朝、待ち合わせ場所に行くと、彼はすでに来ていた。
白いTシャツに、首からは例のカメラ。
太陽の光が彼の髪を透かして、風がそこをすり抜けていく。
「じゃ、行こうか」
私たちは町を歩いた。
古い商店街、踏切、港への坂道。
海斗は何度もシャッターを切り、そのたびに嬉しそうにフィルムを巻いた。
「ねえ、未来」
「なに?」
「この町、好き?」
「うん。静かで、潮の匂いがして」
「俺も、好きになった。でも……好きになると、離れづらくなるね」
その言い方が少しだけ怖かった。
「どういう意味?」
「ううん。言葉のとおり」
それ以上、彼は何も言わなかった。
坂を登りきると、海が見えた。
真昼の海はまぶしくて、空の青と溶け合っていた。
私たちは並んで立ち、しばらく何も話さずに波を見ていた。
「未来」
「ん?」
「この町って、全部写真みたいだね」
「どういうこと?」
「止まってる感じ。ゆっくり動いてるけど、本当は少しずつ消えてる」
彼の声が、風にかき消されそうなほど小さかった。
私はカメラを構えた。
「じゃあ、消えないように撮ろう」
「……撮れるかな」
「撮れるよ。私たちが見てるうちは」
シャッターを切る音が響いた。
海斗の横顔、風に揺れるシャツ、白い光。
そのすべてが一枚のフィルムに焼きつく。
「ありがとう」
彼は小さく呟いた。
まるで、何かを手放すように。
その夜、私は現像した。
暗室に漂う薬品の匂いの中、印画紙の上に彼の姿がゆっくり浮かんでくる。
海を背にした横顔。
その目は遠くを見つめていた。
どこかに行こうとしているような、そんな表情だった。
胸がざわめいた。
あの時、なぜ彼はあんな顔をしていたんだろう。
写真を見つめながら、指先が震えた。
——このまま、彼がいなくなってしまう気がした。
カーテンの隙間から、夜風が吹き込む。
潮の匂いが濃くなって、目の奥が熱くなった。
フィルムを乾かす手が止まり、私はただ彼の写真を見つめていた。
忘れたくないものを残す彼はそう言っていた。
でも、もしかしたら。
残したくないものを、写していたんじゃないだろうか。
次の日、海斗は学校に来なかった。
その翌日も、また翌日も。
美月が心配そうに言った。
「なんか、転校してきた理由、ちょっと変だったらしいよ」
「変って?」
「前の学校でも、長くいなかったって」
私はそれ以上聞けなかった。
胸の奥で何かがざらついて、言葉が喉の途中で溶けた。
放課後、私はもう一度彼の家を訪ねた。
インターホンを押しても、応答はなかった。
庭の紫陽花だけが、雨上がりの光を浴びて静かに揺れていた。
ポケットの中の貝殻を握る。
冷たくて、小さくて、心臓の音が吸い込まれていくみたいだった。
その夜、夢を見た。
波の音がして、海斗がこちらを振り向く。
「未来」
名前を呼ばれた気がして、手を伸ばした。
でも、その指先は彼に届かないまま、光の中で溶けていった。
朝、目を覚ますと、窓の外がまぶしかった。
梅雨が、終わっていた。
夏休みの初め、校庭には蝉の声が溢れていた。
照りつける日差しは強く、空気は厚く、私の肌をじりじりと焦がす。
それでも、心の中は少しだけ軽かった。
海斗と過ごしたあの日々の残り香が、まだ胸の奥にあったからだ。
「未来、今日も撮る?」
放課後、校庭の片隅で彼が笑った。
いつものあの静かな笑顔に、昨日までの不安は少し溶けていた。
「うん」
私はシャッターを握り直した。
夏の光は、全てを鮮やかにしてくれる。
海斗の髪の色、制服の白、校庭の砂ぼこりさえも、フィルムの中で生き生きと輝く。
何気ない瞬間も、彼と一緒にいるだけで特別に変わった。
そのとき、彼が少し息をついた。
「未来、ありがとう」
「え?」
「……俺、ここに来てよかった。君と会えて、本当によかった」
その言葉には、いつもの遠くを見ている感じはなく、まっすぐ私を見つめる目があった。
胸の奥が熱くなる。
写真のシャッターを押す手が震えた。
その瞬間、言葉では言えない思いが、体の隅々に広がっていった。
夏の夕暮れ、校庭の片隅で、私たちは並んで座った。
遠くで蝉が鳴き、夕日が長い影を作る。
海斗は、ぽつりと口を開いた。
「未来、知ってる?この町の海って、昔からずっと俺の場所だったんだ」
「そうなんだ」
「でもね、寂しかった。どこにも、帰る場所がなかった」
その声は小さく、でも確かに胸に響いた。
私はそっと、彼の肩に触れた。
夏の夕陽が、私たちを金色に包む。
「ここに、帰ってきていいよ」
小さな声でそう言うと、彼は少しだけ笑った。
それは、今まで見たどの笑顔よりも優しかった。
——その瞬間、私は確信した。
彼を、ただそばで見ていたい。
その笑顔を、失いたくない。
その夜、家に帰るとノートを開いた。
ページの隅に、小さく書いた文字。
橘海斗、ありがとう。
フィルムには写らない、でも確かに存在する時間。
写真では閉じ込められない、けれど心に焼きつく景色。
それを、私はそっと胸にしまった。



