洗濯物を干すスペースしかない狭いベランダに無理やり座椅子を二つ並べ、藍はゴールデンウィーク前の風に浅葱色の髪を揺らしている。恐らく、この風は一年のうちで最高に心地がいいのではないかと思えた。
彼女の隣りには、『メモリー』という推定一つ年上の少女。彼女とは、転校先の通信制高校で出会い、その日のうちに藍、正確には藍の祖父母の家の居候(いそうろう)になって、一緒に暮らしている。いや、『居候』は悪いな、一応家賃もらっているから、『同居人』かなと藍は脳内で訂正した。
「おおきに」
そう言ってメモリーは読んでいたB 5 サイズのノートを閉じ、藍に手渡す。
「でも、よかったんやろか? これアイの……やない、五人の交換日記やろ? 部外者が読んだりしても」
「うん、一緒に暮らすなら、どんな子たちが私の中にいるか知っておいて欲しかったの」
「それやったらええけど……でもさ、書体も文体も、みんな違(ちご)うてて、ホンマに色んなキャラの子が一緒におるんやなあと実感したわ」
藍はうなずく。
「日記書いてみて、ほんとそう思う。今までお互いに『入れ替わってた』から、この子たちの存在、おぼろげにしかわかってなかったもの」
藍は自分の置かれた特別な状況を人に話すのは辛く怖かったが、なぜかメモリーにだけはスッと打ち明けることができ、五人の交換日記を見せることにも抵抗がなかった。それができて、つくづくよかったと思う。
メモリーは空を見上げている。釣られて藍も顔を上げると、初夏を感じさせるちぎれ雲が南から北へゆっくりと流れていた。
「あのな、アイの中の子たちが、いつ、どうやって生まれてきたか、もう少し聞いてもええかな? あ、もし嫌やったら別にええねんけど……興味本位みたいなもんやし」
「……うん、別にいいよ。といってもね、自分でもよく覚えてないこともあるんだ。時々みんなと入れ替わってるしね……あ、ちょっと待ってね、のど乾いた」
そう言って藍は、ベランダから廊下に戻り、階段を下りて行った。
彼女は、お~いお茶の五百ミリリットルのペットボトルを抱え戻ってくると、一本をメモリーに渡す。
再び座椅子に座り、ひと口だけお茶を飲んで静かに話し始めた。
「私ね、前にも言ったけど、小一の時、事故で両親を亡くし、この家に来て祖父母と一緒に暮らし始めた。なんでお母さんとお父さんがいなくなったのか訳もわからず、始めはずっと泣いてたらしいけど、転校したクラスの女の子たちが仲良くしてくれてね。それで少し元気になったみたい」
「そら大変やったなぁ、元気になった言うても、やっぱり悲しかったんとちゃう?」
藍は胸を軽く押さえる。
「……うん、この辺りをなんかさみしくモヤンとしたものが動いてて。そのうちそれが、私から脱け出そうとし始めた」
「まさか、この四人?」
メモリーは、藍が脇に置いた日記を指さす。
「最初は、二人だけ」
「二人?」
「そう……まず、カナとサユ」
「なんでその二人なんやろ?」
「そうね、カナは言ってみれば『ごめんなさい』担当」
「ゴメンナサイ?」
「……こんなことがあった。小二のとき、運動会のクラス対抗リレーで、私、転んじゃって、うちのクラスがビリになった。友だちは『いいよいいよ、仕方ないよ』と言ってくれた。でもみんなの顔を見ると、すごく悔しそうだし、恨んでにらまれているようにも感じた。だから、自分の中に逃げた。そしたらカナが出てきてくれた」
「どないしてそれが分かったん?」
メモリーは飲もうとしていたペットボトルを中途半端な位置に静止させて尋(たず)ねる。
「あとでクラスの子から聞いたの。私、わんわん泣いて『ごめんなさい、ごめんなさい』って繰り返してたんだって。『アイちゃん、あんなに泣いて謝らなくてもいいのに』って慰(なぐさ)められた。」
「でも、名前とかはどうやって知ったん?」
「夢の中で会った」
「おぅ⁉」
「顔は自分にそっくりで、背は小さいけど、白く光る髪が風に揺れてて、ちょっと大人っぽい子。その子が『ウチは香奈』て名乗った」
再び風が吹き、藍の浅葱色の髪を揺らす。
「で、もう一人がサユ……この子は『なんだとコノヤロー!』係」
そう言って藍は少し笑う。
「なんやそれ?」
「やっぱり小二の秋ぐらい。クラスのみんなが登校したら、教室の後ろに貼ってあった絵が何枚か破れてたの。そして朝のホームルームで『先生、ぼく、アイちゃんが破くの見たよ』ってクラスの男の子、タカ君に告げ口された」
「アイがほんまにやったん⁉」
「ううん、濡(ぬ)れ衣よ」
そう言って藍は口をとがらす。
「そらひどいわ」
「だから『なんでそんなウソつくの?』て聞いたら、『だっておれ、昨日の帰り見たもん。うまい絵を見て悔しかったんじゃねーの?』って言うのよ」
「そ、それでどうなったん?」
「自分では憶えていない。放課後、気がつくと、ケイばーば――祖母のことだけど――が担任の高桑先生に呼ばれて、私は一緒に話を聞いていた」
「先生はなんて?」
「かっとなってタカ君と取っ組みあって押し倒し、壁に貼ってあった絵を何枚もビリビリって破いたんだって。後ろの壁を振り返ると、確かに画用紙が十枚くらい、セロテープで修繕(しゅうぜん)されてた……そしてそれを見てまた記憶が飛んだ」
「それ、みんな『サユ』の仕業やの?」
「最初に出たのが多分サユ。後(あと)の子はカナみたい。わんわん泣きながら『ごめんなさいごめんなさい』と先生に謝ったって祖母から聞いた」
「……サユも夢に出てきたん?」
「そう。赤い髪してた」
その事件の翌日、担任の先生の勧めもあり、祖母は藍を地元の都立病院に連れて行った。最初は小児科で診察を受け、児童精神科に担当が変わった。
親子で事故に巻き込まれ、両親を失ってしまった経緯も聞き、医師は強いストレスが原因で藍の中に別の人格が生まれているのだろうと診断した。今でも藍はこの病院に紹介してもらったメンタルクリニックで診察とカウンセリングを受けている。
メモリーはぐびっとお茶を飲み、話の先を促す。
「その後はどうなったん?」
「うん、なんか私にトラブルが起きると『サユが騒いでカナが謝る』っていうパターンを何度も繰り返した。でも、担任の先生や祖母がかばってくれたから、なんとか六年まで無事に過ごせた」
彼女はペットボトルをノートの脇に置き、膝を抱える。
「中学・高校と上に行くほど、だんだんしんどくなっていったな。ケイばーばが塾に連れてってくれて中高一貫の女子高に入れたんだけど……制服のセーラー服、可愛いかったよ」
藍が入学したのは、都電に乗って二駅隣りにある『三ノ谷学園』という女子校。祖父母は、同性だけで学力もそんなに差のない学校に行けば、クラスメイトとのトラブルも少なくて済むのではないかと考えた。
「やっぱ、人間関係が大変やった?」
「最初はそうでもなかったけど……私のコロコロと変わる態度とか、ひどいモノ忘れやワケわかんない発言とかで、ドン引きとまではいかないけど、少しずつみんなあまり近づかなくなっていった……そして、新しく二人のキャラが生まれた」
「それがタクとナツっちゅうことか……タクはこないだ銭湯でアイと交代した子やな?」
「うん……三ノ谷学園はね、女子でもスラックスが制服として認められてるんだけど、ある日私、授業中に居眠りして目を覚ましたら、スラックスはいてた……朝はスカートで学校に行ったのに」
「えっ、どういうこと?」
「多分だけど、タクはいつのまにか祖母に頼んでスラックスを注文しておいて、私が居眠りしたすきにトイレで着替えちゃったみたい」
「あの子、自分のこと男や思うてはるんやったな……でも、なんでやろ?」
「これも多分だけど、それって私自身の問題なんじゃないかなって思う。私がこんなだから、女子ばっかりの集団生活が恐くなっていたし、それともう一つ……」
「もう一つ?」
「……身近にいないから、よけいに気になっちゃたの」
「だからそれ、なんなん?」
「男の子よ……もう、恥ずかしいじゃない」
「ああ、思春期ってやつね」
「なに人ごとみたいに言ってんのよ! あなただって……ああそうか、メモリーの場合は……」
「うんうんわかった、この話はここまでにしとこ」
藍はペットボトルを頬に当て、ほてりを冷ます。
「…つまり私の、同性と男の子への複雑な感情が元になってるんじゃないかと思って」
「ほんで、四人目がナツやな?」
「そうなんだけど、いつナツが生まれたのかよくわからないの」
「なんでやろ?」
「彼女が私と入れ替わっても、まわりの人、あまり気にならなかったみたい」
「それって、アイとキャラが似てるってこと?」
「彼女もそう言うけど、私はどうかな? って思う」
そう言って藍はスマホ画面でGmailのアプリをタップしてメモリーに見せた。
「私、友だち少ないからLINEもメールもあまり使わないんだけどね」
…………
アイへ。
これは迷惑メールとかじゃないよ、ホントだよ。
あたいの名前は、ナツ。
ときどき君の代わりに出て、学校に行ったりもしてるんだけどね、特に問題なく代役できてるんじゃないかな。クラスの友だちもフツーに話しかけてくれるし。ひょっとしたらアイも気づいてないかと思ってメールしてみたんだ。
何か困ったことあったら、君の力になれればいいな。
またメールするから、これからもよろしく!
…………
メモリーはスマホ画面から視線を藍に戻した。
「自分(ナツ)から自分(アイ)にメールするなんて、よう考えたなぁ」
「そうね……それからこの子も夢に出てきて、ナツだって名乗った。髪と私と同じくらいの長さだけど、色は薄ピンク色……ニコニコしてたけど、ちょっぴりさみしそうに見えた」
「聞いてると君たち――アイも含めて――カラフルな髪色やな」
「メモリーだって人のこと言えないんじゃない?」
「……それは置いといて、こうやって五人揃ったわけやね。やっぱ大変なんやろ?」
「うん。カウンセラーの人は『じっくりと腰を据えて、あせることなく、ひとつの人格に統合化(とうごうか)していくことを目指しましょう』って繰り返すんだけど、統合化って、いまいちよくわからない」
「ほんで高校に上がったわけや」
藍は立ち上がり、ベランダの手すりによりかかる。ギシッと少し危なっかしい音をたてた。
「……うん、高一のときが一番つらかった」
「あ、そうやったら無理に話さんでもええで」
「……じゃあ、かいつまんで」
メモリーも藍と並ぶ。手すりに寄りかかるのは遠慮した。
「一つは、祖母が重度の認知症になったの。前からその気配があったけど……一緒にスーパーに買い物行ったときなんか、まだ家に大きいのが二本もあるのに、また大根を買おうとしたり。だんだんひどくなってトイレに一人で行けなくなったり、いつの間にか家から抜け出したり。祖父が地域包括支援(ちいきほうかつしえん)センターに相談したら、要介護レベル四とかで、すぐに駒込の介護施設に入った」
あんなに優しく、しっかりと支えてくれた祖母の急変は、藍の心の不安定さを増し『入れ替わり』も頻繁に起きるようになっていく。
「祖父と二人暮らしになったら、なんだかギクシャクしちゃって。どうも、私の中に複数の人格がいるって、腑に落ちてなかったみたい」
藍は、遠くを見つめ、少しく言葉を詰まらせながら続ける。
「……もう一つはね、クラスでイジメに巻きこまれた」
「え、進学校でもイジメってあるんや」
「表だってそうは見えないんだけどね……入試を意識したクラス編成になって、みんなストレスとか感じてたのかも」
「ひどい目にあったんやな?」
「……静かなイジメ」
「?」
「二学期の期末試験の最中に、クラスであまり目立たない、ユウちゃんっていう子がイケニエにされた。英語の試験のときに英字が書かれた下敷きをうっかり机の上に出しっぱなしにして、先生に注意されたの。そしたら次の日の朝、首謀者の一人、ユキが、LINEに書いたんだ。
“なんかさ、昨日の英語のテストでカンニングがあったみたい。本人はしらばっくれてるみたいだけど、どうなのかね? 普通クラスのみんなに謝るでしょ”って。
それをもう一人の首謀者、リサがあおって……で、みんな釣られて書きこむの。そうしないと次は自分がやられるんじゃないかって怖いから」
「……でも、なんでアイが巻きこまれたん?」
「ユウちゃんはスマホを見たあと、しばらく黙ってたけど、試験が始まる前にカバンを持って教室から出ていっちゃって……私は思わず席を立って、ちょっとひどいじゃない!って首謀者二人に怒鳴ったの」
「勇気あるなぁ」
「でも、そこまで。そのあとのことは覚えてない」
「……ということは」
「そう。私は逃げて、サユが出てきた」
意識が戻った時、藍は職員室の応接セットに座っていた。隣りには、祖父の邦雄(くにお)。
担任と教頭が困惑の表情を浮かべて祖父に説明している。
先生方と祖父のやりとりを聞いて藍がわかったことは、彼女は最初にLINEに書き込んだユキにつめ寄り、『こんなひでえ弱いもんいじめするんじゃねーよ!』と怒鳴ったとのこと。ユキはニヤニヤ笑いながら藍(紗友)に何か返答し、その言葉にカッとなり、ユキを押し倒して胸ぐらをつかんで暴言を吐いた、ということ。
騒動を聞いて駆けつけた先生が藍たちを引き離し、藍だけが職員室に連れてこられ事情聴取を受けた。連絡を受けて邦雄が飛んできた。
話が終わって職員室を出るとき、藍の祖父は先生方に、『女房と私で面倒をみてたんですけど、早いうちに両親を亡くしてしまったもんで……やっぱり親がいないと駄目ですね。こんな風にしか育てられなくて申し訳ありませんでした』と詫びた。
その言葉を聞いて、また藍の意識は飛んだ。
その日の夕方。家の居間のソファで再び藍の意識が戻った。
ローテーブルの上に、ノートの切れ端が置いてあり、そこにはこう書かれていた
…………
アイへ
あのあとオレは、お前さんが言いたかったことをじいさんに言ってやった。じいさんは怒ってオレに突っかかってきたけど、足を滑らせて転んで骨折したらしい。救急車で運ばれた。
入院しているのは、巣鴨の桑原整形外科だ。
担任の石原先生からは、明日は自宅で待機していてくれと命令されている。
すまない、ごめん。
サユ
…………
翌日。
石原先生は電話口で、藍に一週間自宅謹慎(じたくきんしん)するようにと告げた。
LINEのグループチャットを恐るおそる見ると、ザマアミロ!、暴言暴力女など、フキダシオンパレード。祭りのように大はしゃぎだ。
そして、藍はもう学校には行けなくなった。
祖父は手術を終え、リハビリ病院に転院した後、家に戻ってきたが、運悪く家の中でも転倒し、大腿骨(だいたいこつ)を骨折して歩行困難となり、妻と同じ介護施設に入った。
メモリーは、藍の肩を軽くポンポンと叩く。
「イジメられた子をかばったら、次の標的にされる……それ、イジメ、アルアルや。ほんま辛かったなあ」
「ありがとう、メモリー」
藍は背をかがめて彼女の肩に顔をうずめ、それから床の上の交換日記を拾い、ページをめくった。
最後のページには薄い紙がたたんで貼られていた。
「これも読んでくれる?」
紙を広げながら、メモリーに手渡す。
「……これ、日めくりの紙?」
「そう、うちの居間に大きいのかかってるでしょ? 毎日一枚ずつ破ってる……私はその裏紙(うらがみ)に自分の思いを書いた。そしたら謹慎中にみんな返事してくれた」
…………
今年はバタバタしてたから、母さんと父さんの命日にお墓参りできなかった。だからホントは外出禁止だけど、今日行ってきた。
私は一人ぼっちになった。
それは、だれのせいでもない。自業自得(じごうじとく)。
どこにも行けない。行くところがない。
アイ
…………
一人? ホントにそうかな?
ウチらがいることを忘れないで。
カナ
…………
こんなぼくたちだけどね。
タク
…………
うん、行こうと思えば、どこにでも行ける。
ナツ
…………
だって私たち、みんなバラバラじゃない!
みんなでどっか行くなんて無理。
そうだ、母さんと父さんのところなら行けるかも。
アイ
…………
こら、アイ。その結論はナシだ。
サユ
…………
バラバラだって、どこかにたどり着けるよ。
あたいたちのこと、もっと頼ってくれないかな?
アイは一人だけど、独りぼっちじゃないから。
ナツ
…………
ほんとにみんな、力を貸してくれる?
まず、何をやればいいの?
アイ
…………
まず、自分を認めてみない?
そして、ウチたちも。
おたがい認めあう。
そこからだと思うの。
カナ
…………
そうそう、昔のギャグマンガみたいに。
「これでいいのだ」ってさ
ナツ
…………
これで、いいのかな?
アイ
…………
いいと思う。
そして、新しい居場所を見つけられれば。
できれば女子高以外で。
タク
…………
オレは落ち着いたら、クラスの連中にリベンジしてくる。
サユ
…………
オイオイ、それはいらんって(笑)
それよっか、この伝言ゲーム、いいね!
これからみんなでやってみない?
ちゃんとしたノートとかで。
ナツ
…………
薄い裏紙にびっしりと書かれた五人のメッセージを読み終えると、メモリーはその紙をノートにたたみこみ藍に返した。藍はそれを抱きかかえ、つぶやく。
「……日めくりの紙が私たち五人の交換日記の原型。これがあったから、今の状況を受け容れようと思えた。もうちょっとだけ、生きるのをがんばろうと思えた……みんなが消えちゃわないように」
「ほんまに大切な宝物なんやね」
「うん。だから、次に進めて……こうやってメモリーとも出会えたんだ」
さっきよりも涼しい風が吹く。
メモリーは藍の肩を抱いた。
二人は思い出していた。
つい最近だが、あの公園で出会ったことを。
彼女の隣りには、『メモリー』という推定一つ年上の少女。彼女とは、転校先の通信制高校で出会い、その日のうちに藍、正確には藍の祖父母の家の居候(いそうろう)になって、一緒に暮らしている。いや、『居候』は悪いな、一応家賃もらっているから、『同居人』かなと藍は脳内で訂正した。
「おおきに」
そう言ってメモリーは読んでいたB 5 サイズのノートを閉じ、藍に手渡す。
「でも、よかったんやろか? これアイの……やない、五人の交換日記やろ? 部外者が読んだりしても」
「うん、一緒に暮らすなら、どんな子たちが私の中にいるか知っておいて欲しかったの」
「それやったらええけど……でもさ、書体も文体も、みんな違(ちご)うてて、ホンマに色んなキャラの子が一緒におるんやなあと実感したわ」
藍はうなずく。
「日記書いてみて、ほんとそう思う。今までお互いに『入れ替わってた』から、この子たちの存在、おぼろげにしかわかってなかったもの」
藍は自分の置かれた特別な状況を人に話すのは辛く怖かったが、なぜかメモリーにだけはスッと打ち明けることができ、五人の交換日記を見せることにも抵抗がなかった。それができて、つくづくよかったと思う。
メモリーは空を見上げている。釣られて藍も顔を上げると、初夏を感じさせるちぎれ雲が南から北へゆっくりと流れていた。
「あのな、アイの中の子たちが、いつ、どうやって生まれてきたか、もう少し聞いてもええかな? あ、もし嫌やったら別にええねんけど……興味本位みたいなもんやし」
「……うん、別にいいよ。といってもね、自分でもよく覚えてないこともあるんだ。時々みんなと入れ替わってるしね……あ、ちょっと待ってね、のど乾いた」
そう言って藍は、ベランダから廊下に戻り、階段を下りて行った。
彼女は、お~いお茶の五百ミリリットルのペットボトルを抱え戻ってくると、一本をメモリーに渡す。
再び座椅子に座り、ひと口だけお茶を飲んで静かに話し始めた。
「私ね、前にも言ったけど、小一の時、事故で両親を亡くし、この家に来て祖父母と一緒に暮らし始めた。なんでお母さんとお父さんがいなくなったのか訳もわからず、始めはずっと泣いてたらしいけど、転校したクラスの女の子たちが仲良くしてくれてね。それで少し元気になったみたい」
「そら大変やったなぁ、元気になった言うても、やっぱり悲しかったんとちゃう?」
藍は胸を軽く押さえる。
「……うん、この辺りをなんかさみしくモヤンとしたものが動いてて。そのうちそれが、私から脱け出そうとし始めた」
「まさか、この四人?」
メモリーは、藍が脇に置いた日記を指さす。
「最初は、二人だけ」
「二人?」
「そう……まず、カナとサユ」
「なんでその二人なんやろ?」
「そうね、カナは言ってみれば『ごめんなさい』担当」
「ゴメンナサイ?」
「……こんなことがあった。小二のとき、運動会のクラス対抗リレーで、私、転んじゃって、うちのクラスがビリになった。友だちは『いいよいいよ、仕方ないよ』と言ってくれた。でもみんなの顔を見ると、すごく悔しそうだし、恨んでにらまれているようにも感じた。だから、自分の中に逃げた。そしたらカナが出てきてくれた」
「どないしてそれが分かったん?」
メモリーは飲もうとしていたペットボトルを中途半端な位置に静止させて尋(たず)ねる。
「あとでクラスの子から聞いたの。私、わんわん泣いて『ごめんなさい、ごめんなさい』って繰り返してたんだって。『アイちゃん、あんなに泣いて謝らなくてもいいのに』って慰(なぐさ)められた。」
「でも、名前とかはどうやって知ったん?」
「夢の中で会った」
「おぅ⁉」
「顔は自分にそっくりで、背は小さいけど、白く光る髪が風に揺れてて、ちょっと大人っぽい子。その子が『ウチは香奈』て名乗った」
再び風が吹き、藍の浅葱色の髪を揺らす。
「で、もう一人がサユ……この子は『なんだとコノヤロー!』係」
そう言って藍は少し笑う。
「なんやそれ?」
「やっぱり小二の秋ぐらい。クラスのみんなが登校したら、教室の後ろに貼ってあった絵が何枚か破れてたの。そして朝のホームルームで『先生、ぼく、アイちゃんが破くの見たよ』ってクラスの男の子、タカ君に告げ口された」
「アイがほんまにやったん⁉」
「ううん、濡(ぬ)れ衣よ」
そう言って藍は口をとがらす。
「そらひどいわ」
「だから『なんでそんなウソつくの?』て聞いたら、『だっておれ、昨日の帰り見たもん。うまい絵を見て悔しかったんじゃねーの?』って言うのよ」
「そ、それでどうなったん?」
「自分では憶えていない。放課後、気がつくと、ケイばーば――祖母のことだけど――が担任の高桑先生に呼ばれて、私は一緒に話を聞いていた」
「先生はなんて?」
「かっとなってタカ君と取っ組みあって押し倒し、壁に貼ってあった絵を何枚もビリビリって破いたんだって。後ろの壁を振り返ると、確かに画用紙が十枚くらい、セロテープで修繕(しゅうぜん)されてた……そしてそれを見てまた記憶が飛んだ」
「それ、みんな『サユ』の仕業やの?」
「最初に出たのが多分サユ。後(あと)の子はカナみたい。わんわん泣きながら『ごめんなさいごめんなさい』と先生に謝ったって祖母から聞いた」
「……サユも夢に出てきたん?」
「そう。赤い髪してた」
その事件の翌日、担任の先生の勧めもあり、祖母は藍を地元の都立病院に連れて行った。最初は小児科で診察を受け、児童精神科に担当が変わった。
親子で事故に巻き込まれ、両親を失ってしまった経緯も聞き、医師は強いストレスが原因で藍の中に別の人格が生まれているのだろうと診断した。今でも藍はこの病院に紹介してもらったメンタルクリニックで診察とカウンセリングを受けている。
メモリーはぐびっとお茶を飲み、話の先を促す。
「その後はどうなったん?」
「うん、なんか私にトラブルが起きると『サユが騒いでカナが謝る』っていうパターンを何度も繰り返した。でも、担任の先生や祖母がかばってくれたから、なんとか六年まで無事に過ごせた」
彼女はペットボトルをノートの脇に置き、膝を抱える。
「中学・高校と上に行くほど、だんだんしんどくなっていったな。ケイばーばが塾に連れてってくれて中高一貫の女子高に入れたんだけど……制服のセーラー服、可愛いかったよ」
藍が入学したのは、都電に乗って二駅隣りにある『三ノ谷学園』という女子校。祖父母は、同性だけで学力もそんなに差のない学校に行けば、クラスメイトとのトラブルも少なくて済むのではないかと考えた。
「やっぱ、人間関係が大変やった?」
「最初はそうでもなかったけど……私のコロコロと変わる態度とか、ひどいモノ忘れやワケわかんない発言とかで、ドン引きとまではいかないけど、少しずつみんなあまり近づかなくなっていった……そして、新しく二人のキャラが生まれた」
「それがタクとナツっちゅうことか……タクはこないだ銭湯でアイと交代した子やな?」
「うん……三ノ谷学園はね、女子でもスラックスが制服として認められてるんだけど、ある日私、授業中に居眠りして目を覚ましたら、スラックスはいてた……朝はスカートで学校に行ったのに」
「えっ、どういうこと?」
「多分だけど、タクはいつのまにか祖母に頼んでスラックスを注文しておいて、私が居眠りしたすきにトイレで着替えちゃったみたい」
「あの子、自分のこと男や思うてはるんやったな……でも、なんでやろ?」
「これも多分だけど、それって私自身の問題なんじゃないかなって思う。私がこんなだから、女子ばっかりの集団生活が恐くなっていたし、それともう一つ……」
「もう一つ?」
「……身近にいないから、よけいに気になっちゃたの」
「だからそれ、なんなん?」
「男の子よ……もう、恥ずかしいじゃない」
「ああ、思春期ってやつね」
「なに人ごとみたいに言ってんのよ! あなただって……ああそうか、メモリーの場合は……」
「うんうんわかった、この話はここまでにしとこ」
藍はペットボトルを頬に当て、ほてりを冷ます。
「…つまり私の、同性と男の子への複雑な感情が元になってるんじゃないかと思って」
「ほんで、四人目がナツやな?」
「そうなんだけど、いつナツが生まれたのかよくわからないの」
「なんでやろ?」
「彼女が私と入れ替わっても、まわりの人、あまり気にならなかったみたい」
「それって、アイとキャラが似てるってこと?」
「彼女もそう言うけど、私はどうかな? って思う」
そう言って藍はスマホ画面でGmailのアプリをタップしてメモリーに見せた。
「私、友だち少ないからLINEもメールもあまり使わないんだけどね」
…………
アイへ。
これは迷惑メールとかじゃないよ、ホントだよ。
あたいの名前は、ナツ。
ときどき君の代わりに出て、学校に行ったりもしてるんだけどね、特に問題なく代役できてるんじゃないかな。クラスの友だちもフツーに話しかけてくれるし。ひょっとしたらアイも気づいてないかと思ってメールしてみたんだ。
何か困ったことあったら、君の力になれればいいな。
またメールするから、これからもよろしく!
…………
メモリーはスマホ画面から視線を藍に戻した。
「自分(ナツ)から自分(アイ)にメールするなんて、よう考えたなぁ」
「そうね……それからこの子も夢に出てきて、ナツだって名乗った。髪と私と同じくらいの長さだけど、色は薄ピンク色……ニコニコしてたけど、ちょっぴりさみしそうに見えた」
「聞いてると君たち――アイも含めて――カラフルな髪色やな」
「メモリーだって人のこと言えないんじゃない?」
「……それは置いといて、こうやって五人揃ったわけやね。やっぱ大変なんやろ?」
「うん。カウンセラーの人は『じっくりと腰を据えて、あせることなく、ひとつの人格に統合化(とうごうか)していくことを目指しましょう』って繰り返すんだけど、統合化って、いまいちよくわからない」
「ほんで高校に上がったわけや」
藍は立ち上がり、ベランダの手すりによりかかる。ギシッと少し危なっかしい音をたてた。
「……うん、高一のときが一番つらかった」
「あ、そうやったら無理に話さんでもええで」
「……じゃあ、かいつまんで」
メモリーも藍と並ぶ。手すりに寄りかかるのは遠慮した。
「一つは、祖母が重度の認知症になったの。前からその気配があったけど……一緒にスーパーに買い物行ったときなんか、まだ家に大きいのが二本もあるのに、また大根を買おうとしたり。だんだんひどくなってトイレに一人で行けなくなったり、いつの間にか家から抜け出したり。祖父が地域包括支援(ちいきほうかつしえん)センターに相談したら、要介護レベル四とかで、すぐに駒込の介護施設に入った」
あんなに優しく、しっかりと支えてくれた祖母の急変は、藍の心の不安定さを増し『入れ替わり』も頻繁に起きるようになっていく。
「祖父と二人暮らしになったら、なんだかギクシャクしちゃって。どうも、私の中に複数の人格がいるって、腑に落ちてなかったみたい」
藍は、遠くを見つめ、少しく言葉を詰まらせながら続ける。
「……もう一つはね、クラスでイジメに巻きこまれた」
「え、進学校でもイジメってあるんや」
「表だってそうは見えないんだけどね……入試を意識したクラス編成になって、みんなストレスとか感じてたのかも」
「ひどい目にあったんやな?」
「……静かなイジメ」
「?」
「二学期の期末試験の最中に、クラスであまり目立たない、ユウちゃんっていう子がイケニエにされた。英語の試験のときに英字が書かれた下敷きをうっかり机の上に出しっぱなしにして、先生に注意されたの。そしたら次の日の朝、首謀者の一人、ユキが、LINEに書いたんだ。
“なんかさ、昨日の英語のテストでカンニングがあったみたい。本人はしらばっくれてるみたいだけど、どうなのかね? 普通クラスのみんなに謝るでしょ”って。
それをもう一人の首謀者、リサがあおって……で、みんな釣られて書きこむの。そうしないと次は自分がやられるんじゃないかって怖いから」
「……でも、なんでアイが巻きこまれたん?」
「ユウちゃんはスマホを見たあと、しばらく黙ってたけど、試験が始まる前にカバンを持って教室から出ていっちゃって……私は思わず席を立って、ちょっとひどいじゃない!って首謀者二人に怒鳴ったの」
「勇気あるなぁ」
「でも、そこまで。そのあとのことは覚えてない」
「……ということは」
「そう。私は逃げて、サユが出てきた」
意識が戻った時、藍は職員室の応接セットに座っていた。隣りには、祖父の邦雄(くにお)。
担任と教頭が困惑の表情を浮かべて祖父に説明している。
先生方と祖父のやりとりを聞いて藍がわかったことは、彼女は最初にLINEに書き込んだユキにつめ寄り、『こんなひでえ弱いもんいじめするんじゃねーよ!』と怒鳴ったとのこと。ユキはニヤニヤ笑いながら藍(紗友)に何か返答し、その言葉にカッとなり、ユキを押し倒して胸ぐらをつかんで暴言を吐いた、ということ。
騒動を聞いて駆けつけた先生が藍たちを引き離し、藍だけが職員室に連れてこられ事情聴取を受けた。連絡を受けて邦雄が飛んできた。
話が終わって職員室を出るとき、藍の祖父は先生方に、『女房と私で面倒をみてたんですけど、早いうちに両親を亡くしてしまったもんで……やっぱり親がいないと駄目ですね。こんな風にしか育てられなくて申し訳ありませんでした』と詫びた。
その言葉を聞いて、また藍の意識は飛んだ。
その日の夕方。家の居間のソファで再び藍の意識が戻った。
ローテーブルの上に、ノートの切れ端が置いてあり、そこにはこう書かれていた
…………
アイへ
あのあとオレは、お前さんが言いたかったことをじいさんに言ってやった。じいさんは怒ってオレに突っかかってきたけど、足を滑らせて転んで骨折したらしい。救急車で運ばれた。
入院しているのは、巣鴨の桑原整形外科だ。
担任の石原先生からは、明日は自宅で待機していてくれと命令されている。
すまない、ごめん。
サユ
…………
翌日。
石原先生は電話口で、藍に一週間自宅謹慎(じたくきんしん)するようにと告げた。
LINEのグループチャットを恐るおそる見ると、ザマアミロ!、暴言暴力女など、フキダシオンパレード。祭りのように大はしゃぎだ。
そして、藍はもう学校には行けなくなった。
祖父は手術を終え、リハビリ病院に転院した後、家に戻ってきたが、運悪く家の中でも転倒し、大腿骨(だいたいこつ)を骨折して歩行困難となり、妻と同じ介護施設に入った。
メモリーは、藍の肩を軽くポンポンと叩く。
「イジメられた子をかばったら、次の標的にされる……それ、イジメ、アルアルや。ほんま辛かったなあ」
「ありがとう、メモリー」
藍は背をかがめて彼女の肩に顔をうずめ、それから床の上の交換日記を拾い、ページをめくった。
最後のページには薄い紙がたたんで貼られていた。
「これも読んでくれる?」
紙を広げながら、メモリーに手渡す。
「……これ、日めくりの紙?」
「そう、うちの居間に大きいのかかってるでしょ? 毎日一枚ずつ破ってる……私はその裏紙(うらがみ)に自分の思いを書いた。そしたら謹慎中にみんな返事してくれた」
…………
今年はバタバタしてたから、母さんと父さんの命日にお墓参りできなかった。だからホントは外出禁止だけど、今日行ってきた。
私は一人ぼっちになった。
それは、だれのせいでもない。自業自得(じごうじとく)。
どこにも行けない。行くところがない。
アイ
…………
一人? ホントにそうかな?
ウチらがいることを忘れないで。
カナ
…………
こんなぼくたちだけどね。
タク
…………
うん、行こうと思えば、どこにでも行ける。
ナツ
…………
だって私たち、みんなバラバラじゃない!
みんなでどっか行くなんて無理。
そうだ、母さんと父さんのところなら行けるかも。
アイ
…………
こら、アイ。その結論はナシだ。
サユ
…………
バラバラだって、どこかにたどり着けるよ。
あたいたちのこと、もっと頼ってくれないかな?
アイは一人だけど、独りぼっちじゃないから。
ナツ
…………
ほんとにみんな、力を貸してくれる?
まず、何をやればいいの?
アイ
…………
まず、自分を認めてみない?
そして、ウチたちも。
おたがい認めあう。
そこからだと思うの。
カナ
…………
そうそう、昔のギャグマンガみたいに。
「これでいいのだ」ってさ
ナツ
…………
これで、いいのかな?
アイ
…………
いいと思う。
そして、新しい居場所を見つけられれば。
できれば女子高以外で。
タク
…………
オレは落ち着いたら、クラスの連中にリベンジしてくる。
サユ
…………
オイオイ、それはいらんって(笑)
それよっか、この伝言ゲーム、いいね!
これからみんなでやってみない?
ちゃんとしたノートとかで。
ナツ
…………
薄い裏紙にびっしりと書かれた五人のメッセージを読み終えると、メモリーはその紙をノートにたたみこみ藍に返した。藍はそれを抱きかかえ、つぶやく。
「……日めくりの紙が私たち五人の交換日記の原型。これがあったから、今の状況を受け容れようと思えた。もうちょっとだけ、生きるのをがんばろうと思えた……みんなが消えちゃわないように」
「ほんまに大切な宝物なんやね」
「うん。だから、次に進めて……こうやってメモリーとも出会えたんだ」
さっきよりも涼しい風が吹く。
メモリーは藍の肩を抱いた。
二人は思い出していた。
つい最近だが、あの公園で出会ったことを。



