落とされる気なんてなかったのに

教室の扉が開いた瞬間、
 空気がふわりと変わった。

「今日から担任を務めることになりました、
 神谷(かみや)遥真です。よろしくお願いします」

 前に立つのは、
 昨日、事務所の出口でぶつかった男性――遥真くん。

(やっぱり……遥真くんだ……)

 黒髪に、すらりとしたスーツ姿。
 整った横顔。
 落ち着いた声。

 全部が、昔から知っている“優しい人”そのまま。

 教室の女子たちは一斉に色めき立つ。

「え、かっこよ……」「先生ってレベルじゃない……」

 ざわざわする中で、
 遥真先生の視線がふとこちらに向いた。

 目が合った。

(っ……!)

 わずかに目を見開いて、
 そのあと、昔のように穏やかに微笑む。

「……七海?」

 名前を呼ばれた瞬間、胸がぎゅっと締め付けられる。

(……やっぱり覚えてくれてた……)

 先生はそのまま教室全体へ向き直り、
 授業の話を淡々と進めていく。

 だけど。
 声が優しくて、落ち着いていて、
 それを聞いているだけで胸の奥がじんわりあたたかくなる。

(なんでだろ……昨日までこんな気持ち、なかったのに)

***

「七海」

「っ、はい!」

 終礼後、名前を呼ばれて振り向くと、
 先生がノートを持って立っていた。

「時間あるか?
 ちょっと話したいことがあって」

「は、はい……」

 廊下の一角、陽の差し込む場所で向かい合う。

「……本当に久しぶりだな」

「そ、そうですね……」

「昔のままなのが、なんか安心した。
 ……でも、少し大人になったな」

 その言葉が優しくて、
 胸の奥にストンと落ちる。

「先生になって……七海のクラスを持つことになるとは思わなかったよ」

「私も、先生が来るなんて思わなかったです」

「驚いたか?」

「……はい。すごく」

 遥真先生は少し困ったように笑う。

「でも、七海がいるなら安心だな。
 困ってる子がいたら、自然に助けるタイプだから」

「っ……」

 そんな風に言われたら、
 どうしてもあのころの気持ちが蘇ってしまう。

 嬉しくて、苦しくて、
 どこか泣きたくなる優しさ。

「何かあったら、いつでも言ってくれ。
 昔みたいに……頼っていい」

(……言わないで……
 そんな優しい言葉、ずるいよ……)

 胸がきゅっと痛む。

***

「そういえば昨日の帰り、事務所の前にいたよな?」

「っ……はい……偶然で……」

「驚いたよ。
 七海があんな場所にいるなんて。
 ……仕事、頑張ってるんだな」

(玲央くんとのこと、言えない……)

 言えない理由は“秘密のバイトだから”じゃない。
 言ったらあのキスのことまで思い出してしまいそうで、
 胸が苦しくなりそうだから。

「何か困ったことがあったら言えよ。
 夜遅くなる日は送っていくから」

「だ、だいじょうぶです!!」

「ほんとに?」

「……はい……」

 玲央とは違う。
 優しさが、刺さらないようにそっと包み込んでくるタイプ。

 だから余計に、
 心が揺れてしまう。

(どうして……
 こんなタイミングで先生が来るの……)

 玲央のキスがまだ胸に残っているのに、
 先生の優しさがまた違う痛さで迫ってくる。

***

「なあ七海」

「はい……?」

 遥真先生は、少し目を細めて笑った。

「……なんかあっただろ?」

「っ……!」

「無理に聞かないけど、七海の顔見たら分かる。
 昔から、表情で全部わかりやすいからな」

(……玲央くんも、同じこと言ってた……)

 でも、先生の言い方はもっと優しくて、
 とげがない。

「何かあったら、ほんとに相談してほしい。
 俺は“先生”だけど……七海にとっては、昔の“はるま”でもあるから」

「……っ……」

 その一言が胸に刺さり、呼吸が止まる。

(だめだ……泣きそう……)

 度重なる優しさが、
 昔の気持ちをゆっくり呼び戻してくる。

「じゃあ……また明日な」

 そう言って軽く頭を撫でられた瞬間──

(っ……)

 胸の奥で聞きたくなかった鼓動が、
 強く跳ねた。