朝から胸がざわざわしていた。
昨日――あの壁ドン事件。
「落ちるようにしてやる」と宣言してきた一ノ瀬玲央。
(あれ、絶対からかってるだけ……だよね?)
そう何度も自分に言い聞かせながら事務所の廊下を歩く。
でも。
心臓がまだ、落ち着いてくれない。
「おはよー、七海!」
控え室に入ると同時に、明るい声が飛んできた。
昨日あんなことを言ってきた本人が、にっこり笑ってそこにいる。
「おはよう、ございます……」
「なんだよそのテンション」
玲央はわざとらしく笑う。
「昨日、あんなにドキドキしてたのに?」
「っ……! し、してません!」
「はいはい。嘘下手だな」
いつも通りの毒舌だ。
だけど今日は“あざとさ”が明らかに増している気がする。
「ほら、これ。渡せよ」
玲央が差し出したのは、今日の撮影スケジュール表。
その手が、わざわざ私の手の甲に触れるくらい近づけられていて――
(え、なんでそんな近いの……?)
「……?」
「手ぇ震えてんぞ。かわいー」
「かわいくない!!」
「声、でかい」
軽く笑われて、耳まで熱くなった。
***
撮影のため移動したスタジオでは、
スタッフさんたちが慌ただしく準備していた。
「一ノ瀬くん、立ち位置確認お願いしまーす!」
「はーい!」
玲央がステージに向かう前、ふいに振り返って私を呼ぶ。
「七海、これ落ちそうだから持っとけ」
「え? あ、はい……!」
彼の上着だ。
(なんで私に……?)
普通ならスタッフに預けるはずなのに。
「……落としゲーム」
(まさか、その一環……?)
そんなこと考えていたら――。
「……七海」
「え?」
ステージに向かいかけていた玲央が戻ってきて、
私の髪の横にそっと手を伸ばした。
(な、なに!?)
「ここ」
玲央の指先が、私のこめかみ近くに触れた。
髪が一束、乱れていたらしい。
「外は寒かったろ? 髪、静電気で立ってた」
「っ……!」
「……こういうとこ、気ぃつけとけよ」
触れた指が離れた瞬間、
その距離の近さに呼吸が乱れそうになる。
(なに今の……!?
絶対、わざとでしょ……!!)
私が固まっていると、玲央はニヤッと笑い、
「じゃ、撮影行ってくるわ」と軽く手を振ってステージへ向かった。
その背中を見送りながら、私は胸を押さえる。
(……落とす気満々じゃん……)
***
撮影が始まると、玲央は瞬時に“王子モード”に変身した。
『君が笑ってくれるなら、俺は何度でもここに戻ってくるよ』
柔らかい声と表情に、スタッフの女性たちが一斉に小さく悲鳴をあげる。
『そんな顔すんなよ。守りたいと思わせんな』
『俺がいんだろ? なぁ、こっち向けって』
甘すぎて耳が溶けそうなセリフが続く。
(……すご。こんな甘い言葉、恥ずかしげもなく言えるんだ……)
そう思っていたら、
玲央の視線がふと、ステージ袖の私のほうに向く。
まっすぐに。
(……え?)
ほんの一瞬のこと。
でもそれは、明らかに“わざと”だと直感した。
(こ、これも……ゲームの一部!?)
心臓が跳ね続けている。
***
「……七海」
「っ……はい!」
撮影を終え、控え室に戻ってきた玲央が、
わざわざ近くまで歩いてきて、小さな声で言う。
「さっきの、見てた?」
「え、その……見てましたけど……」
「どうだった?」
「ど、どうって……」
「俺の甘いセリフ」
「~~っ!! べつに!!」
「なんだよその顔。
なに、照れてんの?」
「照れてない!!」
「じゃあ見せろよ。顔」
顎を軽くつままれ、上を向かされそうになる。
「ちょっ、ちょっと!? いきなり触らないで!」
「触ったくらいで騒ぐなよ。
……ほら、熱いじゃん」
「っ!!」
「なに、撮影見てドキッとした?」
「しっ……してない!!」
「ふーん。
……じゃあ、してるように見える俺の勘、当たってんだな」
(ああもう!! なんなのこの人……!!)
完全にからかわれてるのに、
心臓だけは勝手に反応してしまう。
「それと――」
玲央は突然私の耳元に顔を寄せ、
低い声でささやいた。
「お前は俺の“落としゲーム”、避けられないからな」
「!!?」
「楽しみにしとけよ。明日も」
そう言って、玲央は満足そうに笑い、
そのまま控え室を出ていった。
(……避けられないって……なにそれ……!!)
胸の中で叫んでも、誰にも届かない。
ただひとつだけ、はっきりしていたこと。
――一ノ瀬玲央の“本気の遊び”が、完全に始まった。
撮影が終わったあと、控え室にはほんのり甘い香りが漂っていた。
差し入れのパンケーキ。
ふわふわの生地の上にホイップとベリーが乗っていて、
見ているだけで幸せになりそう。
「七海、こっち。座れよ」
玲央がソファをぽんぽん叩いてくる。
「わ、私は別にここで大丈夫です……!」
「いいから来いって。
ほら、そんな遠くにいんの、なんかムカつく」
(ムカつく要素どこ……!?)
「お前、俺に近づくのそんなに嫌?」
「嫌じゃ……なくて……ただ、近いし……」
「近いの嫌なの?」
「っ……いや、それは……」
「じゃあ問題ねぇじゃん。ほら」
玲央は当たり前みたいに私の腕を軽く引いて、隣に座らせた。
距離、ゼロに等しい。
(ち、近すぎる……! 腕が触れそう……!)
「これ、食べんの?」
「えっ?」
「パンケーキ。
甘いの好きなんだろ?」
「ど、どうして……」
「昨日、差し入れのクッキーじっと見てただろ」
(見られてた……!?)
「べつに……甘いもの好きなのは普通じゃ……」
「じゃ、食えよ」
玲央はフォークをとって、
無造作にパンケーキを一口ちぎって私の口の前に持ってくる。
「ほら」
「えっ……!?」
「食べろって言ってんの」
「い、いらないっ……! 自分で食べれる……!」
「七海、俺の手、無視すんな。
俺、“無視”嫌い」
(ああもう、この人は……!!)
「ほら。口、開けろ」
「む、無理……!」
「なら俺が食わせる」
「っ!?!? ちょっ、ちょっと!!」
玲央は、パンケーキを私の唇にそっとあてる。
甘い匂いがふわりと漂ってきて、心臓が跳ねる。
「……ほら。食えよ。
これくらい普通だろ? 相手は俺だぞ」
(普通じゃないよ……!!)
抵抗する隙もなく、
自然と口が開いてしまう。
「あ……」
口に入った瞬間、甘さが広がる。
「……甘い」
「だろ。
――で、俺のほうが甘い?」
「は!? な、なんで比較対象が……!」
「知らねーよ。
勝手に思っただけ」
玲央は面白そうに笑いながら、もう一口食べさせようとする。
「自分で食べます!!」
「だめ。
俺が食わせる」
「なんで……!」
「昨日言っただろ?
――落とすって」
「っ……!」
パンケーキの甘さより、
玲央の声のほうが甘くて毒が強い。
***
「そうだ。七海」
「……な、なに」
「これ、つけてやる」
玲央は小さなヘアピンを取り出し、私の髪にそっと触れる。
「え、なにこれ……」
「照明で髪が顔にかかると危ねぇから。
……それに」
「それに?」
「顔、ちゃんと見えねぇと嫌だから」
「っ……っ!?」
髪に触れる指先がやけに優しくて、
呼吸が苦しくなる。
「いい子だな、七海って」
「い……よくない……」
「よくなくても、いい子だよ」
「……っ」
まっすぐ見つめられると、
逃げ出したくなるのに、逃げられない。
(こんなの……反則……)
ふいに、廊下の方から他のスタッフの話し声が聞こえてきた。
『あの新しい子、可愛いよね』『玲央くんと相性良さそうじゃない?』
「……」
玲央の表情が、一瞬だけ陰った。
「……は?」
低く呟くような声。
「誰が……相性良さそうだって?」
「え、玲央くん……?」
玲央は私と視線が合うと、
なぜか不機嫌そうに眉を寄せた。
「……なんかムカつく」
「え!? なんで!?」
「知らね。
でもムカついた。以上」
(理由になってない……!)
「七海は?
ああいうの、どう思ったわけ?」
「ど、どうって……別に……」
「別に、ね」
玲央はすっと私の顎に指を添え、
顔を近づけてくる。
(ま、また近い……!!)
「変なヤツに見られんの、嫌なんだけど」
「へ……?」
「七海は俺が落とす。
他の男がどうとか、いらねぇだろ」
「な、なんでそんな偉そう……!」
「俺様だから?」
「っ……!」
「ほら。顔、赤くなってる」
「なってない!!」
「なってんだよ」
玲央は満足そうに微笑んだ。
「明日も仕事あるから、ちゃんと寝ろよ。
……夢に俺出たらどうしよっかな」
「で、出ません!!」
「そういうこと言うと出るんだよ、俺」
「出ない!!」
「かわいー」
玲央は軽く頭をぽんと撫でて、
私を置いて先に控え室から出ていった。
残された私は、
心臓が壊れそうなのを押さえながら深呼吸する。
(……落としゲームって、こんなに心臓に悪いの?)
(それに……あの一瞬見せた顔……なんだろ)
胸がずっとざわざわしていた。
昨日――あの壁ドン事件。
「落ちるようにしてやる」と宣言してきた一ノ瀬玲央。
(あれ、絶対からかってるだけ……だよね?)
そう何度も自分に言い聞かせながら事務所の廊下を歩く。
でも。
心臓がまだ、落ち着いてくれない。
「おはよー、七海!」
控え室に入ると同時に、明るい声が飛んできた。
昨日あんなことを言ってきた本人が、にっこり笑ってそこにいる。
「おはよう、ございます……」
「なんだよそのテンション」
玲央はわざとらしく笑う。
「昨日、あんなにドキドキしてたのに?」
「っ……! し、してません!」
「はいはい。嘘下手だな」
いつも通りの毒舌だ。
だけど今日は“あざとさ”が明らかに増している気がする。
「ほら、これ。渡せよ」
玲央が差し出したのは、今日の撮影スケジュール表。
その手が、わざわざ私の手の甲に触れるくらい近づけられていて――
(え、なんでそんな近いの……?)
「……?」
「手ぇ震えてんぞ。かわいー」
「かわいくない!!」
「声、でかい」
軽く笑われて、耳まで熱くなった。
***
撮影のため移動したスタジオでは、
スタッフさんたちが慌ただしく準備していた。
「一ノ瀬くん、立ち位置確認お願いしまーす!」
「はーい!」
玲央がステージに向かう前、ふいに振り返って私を呼ぶ。
「七海、これ落ちそうだから持っとけ」
「え? あ、はい……!」
彼の上着だ。
(なんで私に……?)
普通ならスタッフに預けるはずなのに。
「……落としゲーム」
(まさか、その一環……?)
そんなこと考えていたら――。
「……七海」
「え?」
ステージに向かいかけていた玲央が戻ってきて、
私の髪の横にそっと手を伸ばした。
(な、なに!?)
「ここ」
玲央の指先が、私のこめかみ近くに触れた。
髪が一束、乱れていたらしい。
「外は寒かったろ? 髪、静電気で立ってた」
「っ……!」
「……こういうとこ、気ぃつけとけよ」
触れた指が離れた瞬間、
その距離の近さに呼吸が乱れそうになる。
(なに今の……!?
絶対、わざとでしょ……!!)
私が固まっていると、玲央はニヤッと笑い、
「じゃ、撮影行ってくるわ」と軽く手を振ってステージへ向かった。
その背中を見送りながら、私は胸を押さえる。
(……落とす気満々じゃん……)
***
撮影が始まると、玲央は瞬時に“王子モード”に変身した。
『君が笑ってくれるなら、俺は何度でもここに戻ってくるよ』
柔らかい声と表情に、スタッフの女性たちが一斉に小さく悲鳴をあげる。
『そんな顔すんなよ。守りたいと思わせんな』
『俺がいんだろ? なぁ、こっち向けって』
甘すぎて耳が溶けそうなセリフが続く。
(……すご。こんな甘い言葉、恥ずかしげもなく言えるんだ……)
そう思っていたら、
玲央の視線がふと、ステージ袖の私のほうに向く。
まっすぐに。
(……え?)
ほんの一瞬のこと。
でもそれは、明らかに“わざと”だと直感した。
(こ、これも……ゲームの一部!?)
心臓が跳ね続けている。
***
「……七海」
「っ……はい!」
撮影を終え、控え室に戻ってきた玲央が、
わざわざ近くまで歩いてきて、小さな声で言う。
「さっきの、見てた?」
「え、その……見てましたけど……」
「どうだった?」
「ど、どうって……」
「俺の甘いセリフ」
「~~っ!! べつに!!」
「なんだよその顔。
なに、照れてんの?」
「照れてない!!」
「じゃあ見せろよ。顔」
顎を軽くつままれ、上を向かされそうになる。
「ちょっ、ちょっと!? いきなり触らないで!」
「触ったくらいで騒ぐなよ。
……ほら、熱いじゃん」
「っ!!」
「なに、撮影見てドキッとした?」
「しっ……してない!!」
「ふーん。
……じゃあ、してるように見える俺の勘、当たってんだな」
(ああもう!! なんなのこの人……!!)
完全にからかわれてるのに、
心臓だけは勝手に反応してしまう。
「それと――」
玲央は突然私の耳元に顔を寄せ、
低い声でささやいた。
「お前は俺の“落としゲーム”、避けられないからな」
「!!?」
「楽しみにしとけよ。明日も」
そう言って、玲央は満足そうに笑い、
そのまま控え室を出ていった。
(……避けられないって……なにそれ……!!)
胸の中で叫んでも、誰にも届かない。
ただひとつだけ、はっきりしていたこと。
――一ノ瀬玲央の“本気の遊び”が、完全に始まった。
撮影が終わったあと、控え室にはほんのり甘い香りが漂っていた。
差し入れのパンケーキ。
ふわふわの生地の上にホイップとベリーが乗っていて、
見ているだけで幸せになりそう。
「七海、こっち。座れよ」
玲央がソファをぽんぽん叩いてくる。
「わ、私は別にここで大丈夫です……!」
「いいから来いって。
ほら、そんな遠くにいんの、なんかムカつく」
(ムカつく要素どこ……!?)
「お前、俺に近づくのそんなに嫌?」
「嫌じゃ……なくて……ただ、近いし……」
「近いの嫌なの?」
「っ……いや、それは……」
「じゃあ問題ねぇじゃん。ほら」
玲央は当たり前みたいに私の腕を軽く引いて、隣に座らせた。
距離、ゼロに等しい。
(ち、近すぎる……! 腕が触れそう……!)
「これ、食べんの?」
「えっ?」
「パンケーキ。
甘いの好きなんだろ?」
「ど、どうして……」
「昨日、差し入れのクッキーじっと見てただろ」
(見られてた……!?)
「べつに……甘いもの好きなのは普通じゃ……」
「じゃ、食えよ」
玲央はフォークをとって、
無造作にパンケーキを一口ちぎって私の口の前に持ってくる。
「ほら」
「えっ……!?」
「食べろって言ってんの」
「い、いらないっ……! 自分で食べれる……!」
「七海、俺の手、無視すんな。
俺、“無視”嫌い」
(ああもう、この人は……!!)
「ほら。口、開けろ」
「む、無理……!」
「なら俺が食わせる」
「っ!?!? ちょっ、ちょっと!!」
玲央は、パンケーキを私の唇にそっとあてる。
甘い匂いがふわりと漂ってきて、心臓が跳ねる。
「……ほら。食えよ。
これくらい普通だろ? 相手は俺だぞ」
(普通じゃないよ……!!)
抵抗する隙もなく、
自然と口が開いてしまう。
「あ……」
口に入った瞬間、甘さが広がる。
「……甘い」
「だろ。
――で、俺のほうが甘い?」
「は!? な、なんで比較対象が……!」
「知らねーよ。
勝手に思っただけ」
玲央は面白そうに笑いながら、もう一口食べさせようとする。
「自分で食べます!!」
「だめ。
俺が食わせる」
「なんで……!」
「昨日言っただろ?
――落とすって」
「っ……!」
パンケーキの甘さより、
玲央の声のほうが甘くて毒が強い。
***
「そうだ。七海」
「……な、なに」
「これ、つけてやる」
玲央は小さなヘアピンを取り出し、私の髪にそっと触れる。
「え、なにこれ……」
「照明で髪が顔にかかると危ねぇから。
……それに」
「それに?」
「顔、ちゃんと見えねぇと嫌だから」
「っ……っ!?」
髪に触れる指先がやけに優しくて、
呼吸が苦しくなる。
「いい子だな、七海って」
「い……よくない……」
「よくなくても、いい子だよ」
「……っ」
まっすぐ見つめられると、
逃げ出したくなるのに、逃げられない。
(こんなの……反則……)
ふいに、廊下の方から他のスタッフの話し声が聞こえてきた。
『あの新しい子、可愛いよね』『玲央くんと相性良さそうじゃない?』
「……」
玲央の表情が、一瞬だけ陰った。
「……は?」
低く呟くような声。
「誰が……相性良さそうだって?」
「え、玲央くん……?」
玲央は私と視線が合うと、
なぜか不機嫌そうに眉を寄せた。
「……なんかムカつく」
「え!? なんで!?」
「知らね。
でもムカついた。以上」
(理由になってない……!)
「七海は?
ああいうの、どう思ったわけ?」
「ど、どうって……別に……」
「別に、ね」
玲央はすっと私の顎に指を添え、
顔を近づけてくる。
(ま、また近い……!!)
「変なヤツに見られんの、嫌なんだけど」
「へ……?」
「七海は俺が落とす。
他の男がどうとか、いらねぇだろ」
「な、なんでそんな偉そう……!」
「俺様だから?」
「っ……!」
「ほら。顔、赤くなってる」
「なってない!!」
「なってんだよ」
玲央は満足そうに微笑んだ。
「明日も仕事あるから、ちゃんと寝ろよ。
……夢に俺出たらどうしよっかな」
「で、出ません!!」
「そういうこと言うと出るんだよ、俺」
「出ない!!」
「かわいー」
玲央は軽く頭をぽんと撫でて、
私を置いて先に控え室から出ていった。
残された私は、
心臓が壊れそうなのを押さえながら深呼吸する。
(……落としゲームって、こんなに心臓に悪いの?)
(それに……あの一瞬見せた顔……なんだろ)
胸がずっとざわざわしていた。



