夢幻に消えた君と、存在しない約束の続きを。



「⋯⋯お役御免、か」


蒼の言葉を反芻するように呟いたとき、再びドアがノックされた。
弾かれたように顔を上げると、小林先生がひょっこりと顔を出した。


​「佑介、ちょっといいか? 顔色が良くなったな。何かいいことでもあったか?」


​先生は部屋に入ってくると、僕のベッドサイドまで歩み寄り、手元のカルテを確認した。
その歩みは、僕のすぐ隣に立っている蒼の存在など全く気づかぬまま、彼女の体をすり抜けていく。

蒼は驚く様子もなく、先生の肩越しに僕を見て、唇に指を当てて「しーっ」と笑った。


​「⋯⋯あ、いえ。少し、落ち着いただけです」


​「そうか。さっき屋上に行ったのが良かったのかもしれない。気分転換は大事だ」


​先生は僕の脈を測りながら、窓の外を眺めた。


「そうだ。下の階にある購買に行ってみるといい。パン屋もある」


​先生の視線は、確かに蒼がいるはずの場所を何もない空間として捉えている。
その事実が、僕と彼女の間にだけ存在する壁を、より強固なものにしていく。


​「言ったでしょ? 秘密だって」


先生が去った後、蒼が耳元で囁いた。


「ねえ、佑介くん。私、そのクロワッサン食べてみたい! 」


彼女はさっきの寂しげな表情を隠すように、子供のような無邪気さで僕を急かす。


もし外で彼女と話しているところを見られたら、僕は完全に狂ったと思われるだろう。
けれど、独りで歩く廊下の寒さを思い出し、僕は小さく頷いた。


​「わかったよ。でも、外では絶対に話しかけないで。独り言を言ってる変な奴だと思われるから」


​「了解! 」


​蒼は軽やかに立ち上がり、僕の手を引くような仕草をした。
もちろん、その手に温度はない。

けれど、僕はパーカーのフードを深く被り、誰にも見えない秘密を連れて、再び病室のドアを開けた。